家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

可睡斎へモーガンで

2011-11-29 07:41:18 | Weblog
可睡斎という曹洞宗の寺で自動車趣味人の集いがあり参加した。

受付を済ませ、そこでトレイを受け取った。

オイル漏れを起こす車が多くトレイをエンジン下部に置くように配られたのだ。

私の車は問題ない。

確かこの寺には高校生時代合宿しに来たことがあるはずだ。

駐車してから歩いてみたが全く思い出せない。

境内にある様々な建物の横に、紅葉している木々の前に駐車している車たちは舗装された道路に佇むときとは別の趣きがある。

玉砂利を踏みしめて次々と世界の名車がやってきた。

寺関係者が働き一般客が拝観する中配置されたクラシックカーは何故か溶け込んだ良い雰囲気を醸していた。

精進料理をいただく前に座禅を経験した。

椅子に座ったまま行うものであったが少し後に反らせる姿勢は私の腿の付け根の関節を痛めるのには充分な長さがあった。

長く辛い10分間だった。

精進料理をいただいた後トイレに入ってみて思い出した。

鏡張りのトイレだ。

便器こそ新しいものに替わってはいるが「ここは来たことがある」という感覚になった。

その後僧侶の案内で寺の中を回ってみたが私の記憶がトイレだけという寂しい結果だった。

知り合いと久しぶりの再会を楽しみ新しい友人もできて満足した集いであった。

時の経過が生み出す美しさは同時に古さとして敬遠されることもある。

だが大木を見上げたときや数え切れないほど多くの人たちに踏まれて削れた階段の石を見たとき、その価値が分かったような気がした。

古い車をかわいがる、いわゆる変人たちは、より便利なものへと変化している時代に抗い不便な美しさを楽しむ。

まだ帰宅には早すぎる時刻だったので近くでケーキにコーヒーと考えたが思いつく店がなく断念した。

物足りないくらいが適度ということかもしれない。