ねずさんに多くのことを教わり、目から鱗をこれでもかと落とされました。今回も取り上げてくれている明察功過はその筆頭とも言えるかもしれません。
まさか、こんな凄い政治が行われていたなんて想像もしませんでした。ましてや、その察する能力を高めるために和歌があるなんて驚きです。
その成果の一つが吉宗の時代に20年間伝馬町の牢屋に一人の罪人もいなかったという衝撃の事実でしょう。
それに比べてと言うのも嫌になりますが、今の政治の情けなさ。正に天地の差です。今回の熱海の事件などその地の典型的な例です。
日本人が金の亡者に成り果てた結果でしょう。
何時ものように全文をリンク元で読んでください。
ねずさんの学ぼう 日本より 2021/07/10
察する文化 と、証拠がないという言い訳
・・・略
善い行いも悪い行いも、事前に察して、必ず先に賞罰を行いなさい。
このごろは、善い行いを表彰することせず、また罪があっても罰を与えないことが多々あります。
しかし政治や行政を行う者は、表彰と罰を、民衆によくわかるように明らかに行わなければなりません。
十七条憲法の各条文は、すべて「このように心がけなさい」という努力規定です。
ところが、この11条だけは、「群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」は、なるほど努力規定なのだけれど、
功過(こうか)を明らかに察し《明察功過》だけは、単に努力するだけではどうにもならず、これは自ら意識して鍛えなければ、でき ない事柄です。
つまり11条だけは、努力規定+学習規定になっているといえます。
悪い行いをした者に罰を与えるのは、あたりまえのことです。
ところが十七条憲法は、善い行いに対してもまた、ちゃんと論功行賞を行わなければならない、罰と論功行賞は、両者がそろってはじ めてひとつ・・・つまりセットであるとしています。
そしてさらに、その善いことも悪い行いも、起きてから表彰したり罰を与えるのではなく、起きる前に賞罰を先に与えよ、としていま す。
このことは、悪事を働いた者への処罰を考えるとわかりやすいです。・・・中略
古くからの日本的価値観から言えば、状況こそが証拠であり、まだ曖昧なうちに先に手を打つのが政治です。
地震が起きてから対策を講じるのではなく、いつ地震が起きても大丈夫なようにできる限りの手を打つ。
台風がやってきても大丈夫なように、日頃から備えを盤石にしておく。
日本が戦争に巻き込まれないように、あらゆる手を打っていく。
それこそが政治の役割であり、これを実現していのが行政の役割です。
こと起きてから四の五のというのは、司法の役割であって、政治や行政の役割ではありません。
「証拠がない」という言い方は、ただの言い訳でしかないのです。
そういうことを、私達は、もう一度、日本人としての原点に帰って、根本から考え直していかなければならない時代に来ているのでは ないでしょうか。
あの国会の証拠がないの醜い言い合いは見たくもない。今回の話で、司法と政治や行政の違いがストンと胸に落ちました。