明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

喝!  


ディアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ。」といったが、私は私に驚き呆れている。何で臨済義玄などという千年以上前の人物を作っているのか。今の所、頭の中には言い訳すら浮かんでこない。ただ欲望のままに作っている感じであるが、まあ来年秋の個展までに言い訳を考えれば良い。言い訳はしでかしてからで良い。 肝心の寒山と拾得はまだ作り始めてもいないが、それでも100メートル前方には背中が見えて来ている。やはり頭さえ使わなければ、なんとかなるものである。 最近、遙か昔の絵画を観ることが多いが、中国も日本も、先達の作品を写して来ている。それはアイデアをパクろうなんて了見ではなく、山河を写生するが如く、自然から学ぶのと変わらない姿勢のように思える。なので写した作品すら名品だったりする。



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毎年、大晦日は、昨年思い付かなかった事、作れなかった物が作れたか、振り返ることにしているが、ここに来て、先週思いもしなかつた物を作っている。臨済宗宗祖、臨済義玄は千年以上前の人物だが、それを14世紀に日本人曽我蛇足が描いた肖像画を元に作っている。あと二人ほど、と考えていた仙人が決まらず、そのつなぎ、といっては失礼だが、義玄の言葉を弟子が記録したという『臨済録』を慌てて注文した。 古来、これが臨済義玄といわれ続けて来たのなら、あくまでそれに準じるべきであろう。喝!という場面だが、残された肖像画は、言い終わりの口をしているが、もっと口を開け、喝のか、の状態にしてみた。 それにしても、先週考えもしなかった義玄を作り、急遽臨済録を読むことになるとは。こうやって自分のしたことに影響され、結果、思わぬ所に立っていることになる。それもこれもただ目の前にぶら下がったパンに食い付いて来ただけで、行き当たりばったり、ロボット掃除機みたいだが、終わると充電台に戻るらしいから、ちょっと違う。



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端午の節句といえばだが鍾馗様だが、今回、達磨大師と鍾馗は似たような顔して、また、あまりにポピュラーで作りたくない。同じ怖い顔なら臨済義玄にしてみた。ただあまり臨済宗だなんだは、流れ上そうなったが、完成したとしても、ごく端の方にひっそりと展示したい。大きな意味で言えば、この人がいたから、寒山拾得その他、此れ等のモチーフに辿り着いた、といえる訳であるが、会場で知りもしない禅について質問されても困る。 それでも作っているのは,昔から人間も草木と同じ自然物であるから、草木程度のことは、元々そなわっているので、へそ下三寸辺りから聞こえる声に耳を傾けていれば良い、と考えていたので、今回のモチーフは座禅などしなくとも私には可能だと信じ込んでいる訳である。 失敗するとしたら、下手に頭で考えた時であろう。それは私の過去の経験が示している。そのためにただ金魚を眺めるという策を考えたが、これは功を奏した。結果水槽内は金魚だらけとなったし、ベランダに出向となった金魚もいるけれども。

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あまり宗教がかった物にはしたくはない。一休禅師にしたところで、京の街をシヤレコウベを竹竿に掲げて歩く姿をただ作りたいだけである。ただし、寒山拾得縁の臨済宗の僧侶であることは頭の隅にはあった。 寒山拾得展にその程度の縁の一休宗純がいるくらいなら、開祖、臨済義玄がいてもおかしくはない。年代三けた時代の人物となれば、残された肖像もあてにはならないが、どうせあてにならないなら、と捏造するわけにはいかず、通例となった像を元にするべきであろう。となると、怖い顔して渇!といってる場面であり、もちろん、そんな場面だから興味が出ている訳だけれど。 頭で考えると、行き当たりばったりに暴走しているような気がするが、結果的には、こういうことをしようとしていたのか。となる予定なのだが?



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古来より星の数ほど描かれて来た寒山拾得であるが、ほとんどが無邪気な笑顔で、不気味な笑いを浮かべているのは極僅かで、日本の絵師に影響を与えた顔輝作が元祖だろうか。岸田劉生の『麗子像』などにも影響を与えたといわれる。 急遽ラインナップに加えることになった一休禅師は、小学生の時、伝記を読み感心した”門松や、冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし“が急に想い出されたからであったが、そう思うと寒山と拾得の謎の笑いも目出度くもあり目出度くもなし、といえるのではないか。それこそが禅的であるのかは知らないが、私が惹かれた理由であり、無邪気な笑顔の寒山拾得など面白くも可笑しくもない。 陶芸家を志していた頃、最も好きだった陶芸家、河井寛次郎の詩に“鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥”というのがあり、これも十代終わり頃の私をいたく感心させた。 レスラーの巨人アンドレ・ザ・ジャイアントは普通の人間より歯の数が多かったそうだが、顔輝はニッと笑う寒山と拾得の歯を異様に多く並べる、という演出をしている、顔輝のどんな手でも使うぜ、とほくそ笑む様が浮かぶようである。



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仙人を作るとなると道教は無視できないことになりそうだが、人形制作として面白く、撮影が面白いことが肝心なので、由来、出自にあまりこだわるべきではないだろう。そもそも仙人ともなると、由来も出自もすでに不明な事や物が多く、何故この老人が、こんな物を持ってこんなことをしているか、今となっては誰も知らないことが多く、かまうことはない。寒山拾得にしても、日本では年号ができたができないかくらいの話らしいし責任の持ちようがない。一つだけ気になり、消化不良気味なのは、寒山拾得詩の序に痩せていると書かれているのに多くは肥満体型として描かれ継がれてきたことである。寒山はたまに寺に現れては、拾得が竹筒に詰めた残飯を岩窟に持って帰る。肥りようがないと思うが、何を食っているから肥った痩せた、と生真面目に思うような対象ではない。一つ思うのは、あのアルカイックスマイルは、確かに肥満調であってこそではある。 



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虎と豊干と寒山と拾得が寄り添うように寝ている四睡図は星の数ほど描かれて来た。私の場合、今のところ寄り添うというより、絡み合った蛇が作る蛇玉のようにひとかたまりに絡み合うような状態をイメージしている。私は常にやり過ぎてしまうことは自覚しているが、最近手掛けるモチーフは何の遠慮も必要ない。そこも私を有頂天にしている。 豊干は貫禄を付けようと加工しているうちに、まぶたが重く垂れ下がった。それが好都合に、ちょっと、うつ向かせるだけで眼をつぶっているように見える。このように、首を様々傾け、効果的な表情を見付け、身体部分のポーズを決める。さらには写真作品の構図も決まることになる。何を置いても人物の表情が私の作品世界の中心である。人形を被写体として以来、ずっとそうしている。そのために背景の左右を反転させることくらいどうということはない。私が作った物ではないので、かまうことはないのである。 真を写すという意味の写真という言葉に抗い続けた旅路の果てにここに至る?



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数年前に猫を撮影し、耳と額と頰の部分に虎の模様を貼り付け、それ以外は猫を使い、虎を見たことがなかった時代の絵師の味を出そうと考えた『月に虎図』だが、竹も区内のささやかな竹林を撮影し、竹の子は季節を待って、八百屋の店先を撮影した。つまり寒山拾得以前に豊干の乗る虎を作っていた、ということで、その時の個展とは無関係であったが、我慢が出来ず作って出品した。しかし正直いうと、猫はマタタビの力を借りてもまったく思った通りにはなってくれず、これから豊干、寒山と拾得と寝ている『四睡図』など作る必要があることを考えると、作った方が良いのかな、と少々ウンザリではある。子供の頃、『ジャングルブック』の猛獣が人間の眼を畏れる場面を真に受け、上野動物園で、虎やライオンと睨めっこした私であるから、虎は知っている。それを知らないフリして作るのは面倒である。



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昨日の豊干禅師、虎を乗りこなす禅師というには少々貫禄不足、一日かけて貫禄を加えた。 首が貯まってきたので、この辺りで一体ぐらい完成させても良いか。作るなら鉄拐仙人だろう。 しかし一方で、一歩も外へ出ず、高田馬場の堀部安兵衛の如く、一ぺんに何体も作りまくってみたい気もする。こんなに首が貯まったことなどないので、そんなことはやったことがない。私の場合、一番楽しく盛り上がるのは、すでに首があり、ポーズを考え、撮影の仕方を考えながら…一挙に身体を作る時である。もう一人くらい首を作ってからでも良いかもしれない。



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仙人の一人に呂洞賓(りょどうひん)というのがいる。仙人としてはスターの一人である。雪村の龍の頭に乗る絵がすぐ浮かぶが、惹かれたのはむしろそれにかこつけ龍が作れるからではないか?それに手を染めたら、小学生の時に学芸会用なら堂々と学校で、キングギドラの頭みたいな物を作れる、という理由から八岐大蛇の人形劇をやった時と変わらないではないか?と鯉に乗る琴高仙人にしたのだが。三つ子の魂という奴である。 学生の時に、角徳利の口が龍になっているのを作り、使う前に同級生にあげてしまったが、使い勝手など考えていないから、酒が龍のヨダレのようにダラダラと、使い物にはならなかったようである。その次が王子様の三島由紀夫を噛み砕く西洋調の龍。 最初に作るはずであった豊干禅師の頭部をようやく作り始める。こちらは龍のライバル虎に乗っている。それがこんな顔で良いのか?だから良いのか?まあ、とりあえず。何度でも作れば良い。



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日本の七福神にあたるのが中国の八仙人だが、七福神はただノホホンと目出たいばかりで、仙人の怪奇性はない。鉄拐仙人は脚の悪い乞食の死体を借りて蘇るし、八仙人ではないが、蝦蟇蛙抱き抱える仙人もいる。仙人ではないが寒山拾得も同様に、爪は伸び放題、ボロを着て汚らしい。それは皆、超俗の境地を表しているところが肝心である。 母は幼い私に対し暗に“外の世界に興味がないという顔をしていてはいけない”と教えたのは、それでは世俗の世界を生き抜いていけない、という親心だったであろう。そしてあちら側の住民こそが、まさに寒山拾得や仙人達である。初めて買ってもらった大人向けの本、一休禅師を思い出し、唐突に作り始めたのも、正月に竹竿にしやれこべを掲げて京の町を歩く、子供の私を痺れさせた一休の超俗性であったろう。 私はここでこのモチーフを得て、すっかり子供の頃に戻った心持ちである。私の超俗世界の住民というモチーフの取り組みには、コロナ禍という状況が一役買っているのは間違いなく、いずれそれが判る時も来るだろう。



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鉄拐(てっかい)仙人と蝦蟇仙人は寒山と拾得のようにペアで描かれることが多いのだが、なぜペアなのか良く判らないそうである。何だよそれは、という話だが、こういう場合、恐ろしく昔に、誰かがそう描き、いつの間にかそれが通例となった、ということのようである。  豊干禅師と虎、寒山と拾得が寄り添って寝ている図を『四睡図』といい、寒山拾得には欠かせないモチーフだが、これも実はなぜそういう状態で描かれるようになったのか、これまた良く判らないそうである。私的には”寝てしまえば皆同じ“と解釈しているのだが 。    何度も書いたことがあるが、幼い頃どこかの王様に石の塔に幽閉され、算数や宿題やらないで良いから一生ここにおれ、図書室もあるし、画用紙クレヨン何でも使い放題。というのを夢見たものである。王様でなくコロナだけれども、たまたま似たような状況である。しかも我が石の塔で本日作っているのが、あろうことか仙人ときた。だいたい鉄拐仙人を知ったのは、つい最近ではないか。それだけ私の創作欲をそそるモチーフではあるけれども。



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三本足のガマとガマ仙人を作ることにしてしまって以来、ようやくガマ仙人にたどり着いたのだ。という気分になっている。今でこそ半径数百メートルから出ず、運動不足をものともしない有り様だが、これでもかつては多動症を疑われ、もしくは一歩手前の子供であった。それでも本か、鉛筆、クレヨン、あるいは粘土を与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれていた。その頃すでに脳内に涌き出るある種の快感物質にとり憑かれていたのだろう。結局以降それ以上の物は見つからないままである。これに比べればどんな物ももの足らない。ガマ仙人用のガマガエルがネットで入手可能なことを検索しながら思い出していた。  母がいっていた。幼稚園児の頃、台風が吹き荒れていた。母の実家から100メートルくらいに佃の渡し船の渡船場があり、渡し船の絵を描いていた私は、そこにあるマークが着いていて、マンホールの蓋に同じものがあった、と母が止めるのも聞かず暴風雨の中、見に行ったという。そんな昔のこと覚えているかよ、と母にはいったが、実は傘がオチョコになったことから履いていた黄色い長靴まですべて覚えているのであった。



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日本の絵師に絶大な影響を与えた顔輝の寒山拾得図は傑作中の傑作だが、それでも顔輝作と認定される鉄拐(てっかい)と蝦蟇仙人図より劣るといわれ、寒山拾得図は伝顔輝作と表示される。私は既に鉄蝦と蝦蟇仙人図の制作を決めていると思われる。  ”今地球上で、こんな事をしているのは私だけだろう“と想う時、甘い孤独感とともに、えもいわれぬ快感が溢れるのだが、蝦蟇仙人が、肩や頭に乗せている吉兆を表す、三本脚の白いガマガエルを、本物を使って制作したなら、やはり前日活き締めされた瀬戸内海産タコを円谷英二や葛飾北斎と共演させた時以上の物が味わえるだろう。しかし子供の頃まったく平気だったのに、今は触れる気がしない。肛門に花火を突っ込んで破裂させたりしたバチかもしれない。



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豊干禅師のつもりだった頭部を、気が変わって『虎渓三笑』の一人にしたが、そんな寄り道して良いのか、と思わないでもないが、すでに笑わせてしまった。笑顔の人物は長い間にほんの数体しか作ったことがない。せっかくだから、やはり虎渓三笑の一人で主役の慧遠 (えおん) 法師にした。浄土教の高僧ということだが、浄土宗との関係はよく知らないが、開祖法然の影も形もない頃の人物であろう。そこで返す刀で二人目の陶淵明の頭部も完成。 私はいったい何をやっているのか?意外なことをしでかし、自分自身さえ驚かせることが出来るのが良いところである。これで三人目の陸修静の頭部を作ったら、今度こそ豊干禅師の頭部にかかりたいのだが、陸修静と想定した人物は仕上げを残しすでに一応それらしいものができている。陶淵明は小学四年の私でさえ、おおよそこんな顔、と知っていたが、他の二人はおそらく記録はない。参考資料が要らないとスムースである。この調子で行ってみよう。



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