明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



鎮守の杜の姫神様は、袖頭巾というものを被っている。始め時代劇に出てくる武家の女性が被るような頭巾だと思っていたら、それこそ着物の袖のように袋状になっているもので、頭部から襟元まで覆い、丸く穴が開いている所から顔を出す。発表された昭和6年当時は、日常的に見る物ではないにしても、読者には判るものだったのであろう。これこそ今となればビジュアル化のしどころであり、脚注の必用はなくなる。 姫神に仕える翁である柳田國男は揉み烏帽子というクタクタと柔らかい烏帽子を被っている。私としては、柳田國男の柳田らしい頭部のラインを隠さずに見せたいところである。ハゲ頭は作り所であり、作ったところは見せたいのが制作者である。 たとえば河童の三郎に対して、どれ、お前の言い分を聞いてやろう、としゃがみ込んだついでに烏帽子を、たとえばキャップやハンチングのように脱いだっておかしくはないであろう。なんならその際、ハゲ頭をなでてもよい。 しかし姫神となると、頭からすっぽり被る頭巾を、わざわざ脱いで、というシーンはないような気がしてきた。最後一件落着。空を飛んで郷の沼に帰っていく河童を見送る後ろ姿くらいは、頭巾を脱いでいても良いだろうと思っていたが、鎮守の杜に君臨する姫神からすると、沼に住む河童など身分違いもはなはだしい鼻糞みたいなものであろうから、それもおかしいであろう。 となると入手した人毛を姫神に植え付けたところで見えなければ効果はない。あれだけ人毛だなんだと騒いでおきながら。細部に目がいくようになると、充分考えたつもりでも、こういったことは起きてくる。 来週にはひれ伏す河童と踊る河童など作る予定だが、主役の河童もそろそろ佳境に入ってきた。

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夢を見た。日本武道館。何かの世界タイトルマッチのリング上。君が代を歌う歌手が物凄い音痴で吹き出しそうになる。顔をそらして耐えようとするが、周囲の人間は神妙な顔で、館内は水を打ったような静けさである。苦しみながら我慢する。なにしろ「静粛に願います」とたった今リング上からアナウンスしたのは私自身である。しかしメチャクチャ音痴な君が代が続き、苦しみ悶えながら目が覚めた。どうも腹筋の感覚からすると、実際笑いをこらえた節がある。笑いながら目が覚めたことはあるが、笑いをこらえる苦しさで目が覚めるという。こんなバカバカしい目覚め方があるだろうか?おまけに寝てからまだ3時間しか経っていないではないか。 一日の最初がこれでは、今日はおそらく、チャレンジ的なことをする日ではないだろう。河童の甲羅にペーパーをかけて、細部を修正することにした。 私は実在した人間の顔以外は、ほとんど資料を参考にすることはない。亀でもすっぽんでもない甲羅を作っていると、今まで見たことがある、様々な記憶を頭から取り出して作っているのがわかる。今回は甲羅だけに、ほとんどが貝などの生き物であったが、甲羅のふちにそって、ちょっとえぐれたようにしようと思った時はSさん所有のギブソンのギター、レスポールが頭にあったような気がする。 私は励んで覚えたことが一切役に立たず、無意識に記憶に取り込んだ物だけがためになっている。しかしこれは怠け者のいい訳にしか聞こえないところが残念である。 本日も人間の表情を無意識のうちに観察し、取り入れるために酒場へ。なんといっても人間の油断した自然な表情の宝庫である。周囲の人間は、まさか私が人形制作のために勉強しに来ているとは気づいていないであろう。もちろん気取られてはならない。しかし最も肝心なのは、私本人も気づいていないことである。

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )