昨日は芭蕉庵用の材木を購入したが、本日は新木場の『もくもく』へ。一緒に行った知人が、神代欅のブロックを買った。私もどうせなら、材が潤沢にああった時代であろうから、ケチケチと塗装で誤魔化したりせず、いやミニチュアゆえ多少は誤魔化す必要はあろうけれども、渋い所に銘木を使って見たいものである。完成の暁に、大工が墨壺をそっと置いて行くらしいが、いつ頃からの習慣であろうか。それも粘土で作りたい。かつての東大寺の大工のように、判らない所に、駄句なり、何某かぼやきでも書き残して見たいものである。勿論、露見を防ぐために堅牢に作らなければならない。さらにホームセンターに出かけ、足りない道具を入手。どうしても金魚売り場を覗いてしまう。ギター、パイプ、鑑賞魚等、購入時の楽しさはたまらない物だが、いくら眺めても、ウチの連中より可愛らし金魚はおらず我慢をした。 最近はもっぱら頭の中で、芭蕉庵の制作工程のシユミレーシヨンを繰り返している。誰だ、大手ゼネコンの元部長に「まずは四本柱を立てれば良いですか?」などと質問した奴は?馬鹿な事をいっているんじやない。あの時の私とは今は別人である。と思いたい。イメージさえ頭に浮かべば、いずれ最終的には目の前にそれは必ず現れるはずである。人形にしても、作る前に、これは首尾良く完成するな、と確信したことは一度もない。頭の中にイメージが浮かび、あとはひたすら祈るだけである。すると頭の中のイメージが可視化され、気が付くと目の前に現れている。養老孟司がいったと思うが”人間は頭の中に浮かんだ物を作るように出来ている“私はこの仕組みの為に、幼い時から苦しみ続け、いや何物にも代えがたい快楽を得てきている。頭の中にイメージが浮かんでいない私はただの棒の如き物である。