明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ここに来てようやく、すべてのデイテールが見えて来た。窓も完成。実際の家と違って屋根は最後になりそうである。芭蕉記念館ではケースを作ると聞いたが、案の脇に芭蕉の樹を立てるとなると相当な大きさになる。出来れば古池まで作りたいが。立体という物は、サイズでイメージするのと実際見るのとは、往々にしてズレが生じるものである。近日中に担当者に見て貰う方が良いだろう。 我が家の寒山拾得水槽は、虎柄が消えて無くなり、虎役をクビになった朱文金は、特に役もないのに買ってしまったアイアンコメツト二匹と共に、ベランダに出向となつた。他の丸型体型の連中と違い、フナのような体型の長物である三匹は、すばしこくて餌も食べ成長も早い。この三匹がいなくなったら、なんだか落ち着きを見せ始め、私を見るたび餌くれとジタバタしていたのが、落ち着いて泳ぐようになってきた。兄弟の多い人はどうしても早食いが多いが、あれと一緒だろう。大食いのライバルがいなくなり、慌てることもない、という訳であろう。 水墨画は、禅と共に日本に入って来たそうだが、寒山拾得も数え切れないほどモチーフになっている。しかし私はすべてカラーで行くつもりである。最初のジャズ、ブルースシリーズ、初期の作家シリーズはモノクロだつたが、エクタルアという印画紙が廃版となり止めた。今でもモノクロ時代の作品の方が良い、という人もいるが、私のように念写が理想などという人はあまり聞いたことがなく、多くの写真家は外側の既存の世界にレンズを向ける訳である。つまり被写体には最初から色が着いている。だがしかし、写真という物が、私のように被写体を自分で作り、着彩する物であるならば、モノクロが良い、なんて人はおそらく一人もいないだろう。自分でやった事は見せたいのが人情というものである。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )