次号の『タウン誌深川』は暮れに芭蕉記念館で芭蕉サミットがあり、各施設でも芭蕉関連の催事があるので、松尾芭蕉特集で、今年の新作が表紙に使われることになり、急遽エッセイ用のカットを撮影に出かけた。大正時代に、芭蕉が愛蔵したとされる石蛙が見つかった所から、東京府が、芭蕉庵跡地と認定した所に芭蕉稲荷神社があり、記念館はその目と鼻にある。神社を背景に、と見に行ったが、鳥居も現在は木製でもなく、絵にならなかったので、記念館敷地内の“古池や蛙飛びこむ水の音”の碑の前で撮影。久しぶりに合成でなく、人形を国定忠治の刀のように捧げ持ち、カメラを額に当てる『名月赤城山撮法』は芭蕉像が重すぎ片手では無理なので、職員に持って頂いた。 思えば”俳聖“松尾芭蕉、“劇聖“九代目市川團十郎を作り、ジャンルは異なるが、いずれ寒山と拾得、豊干の“三聖“を作る。ついでに“角聖”常陸山谷右エ門、”拳聖”ピストン堀口まで、なんて考えたりして。三遊亭圓朝も”聖”が付いても良さそうだが、ゴロが悪いのか。常陸山に対し、双葉山に値する古今亭志ん生まで作っているのだが。 芭蕉庵を作るに辺り、芭蕉の日常品に対する記録があれば集めておいて欲しい、とお願いしておいたが、芭蕉のために、門弟達が持ち寄った米を容れておいたヒヨウタンは、60センチほどの大きさであることが判った。当然備えることにする。 記念館の最寄り駅の森下には、各時代の絵師の手になる芭蕉像のパネルが掲示されている。これが見事に各人各様、一人として門弟の描き残した肖像を反映させた物は無い。いくら有名絵師だとしても、芭蕉庵の所在した地元がいかがなものであろうか。 館内の展示物にも、各時代に描かれた芭蕉像がいくつも展示されているが、ようやく、後世門弟の芭蕉像を参考にした物を一つ見た。妖怪画を多数残した鳥山石燕である。妖怪という、イメージの産物を画いておきながら、いざ実在した人物を画く際には、ちゃんと門弟の作品を参考にする。『解るぞその気持ち,!』私も常に本当のことはどうでも良い、現実より夜の夢だ、といいながら、実在した人物を作る際には、鼻筋一つ実像にこだわってしまう。数百年前の、妖怪画の石燕に共感するとは思わなかった。
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