明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日、芭蕉記念館で『タウン誌深川』のエッセイ用の写真を撮りに行ったとき、どなたか私のブログを見た方がいたようで、酒ばかり飲んでいるようだが、芭蕉庵はいつ完成するのだ、といわれたと聞いた。私のブログなどは、駄法螺ばかりで、酒を飲んだ、と言っている時は、そう書いているだけで実際は飲んでいないのである。 ことあるごとに、全国の芭蕉像は適当でいい加減な爺ばかりだといっているが、それは門弟達の師匠の実像を肖像画として伝えた想いを不憫に思うからではあるが、多勢に無勢、私が勝手に下手クソな芭蕉像を創作した、と思われたくない、というのも当然ある訳で、記念館の職員にさえ「髭が濃すぎるのではないか?」などと、まるで先週芭蕉と打ち合わせしたばかりだが、みたいに言われる始末である。 ある芭蕉研究家が芭蕉の肖像について“もし人間の容貌というものが、その人の精神生活の履歴を物語るものであるとするならば、芭蕉の肖像に認められるそれらの特徴は、その作品からかれの人間を解く重要な鍵を提供するものではないだろうか”と言っている。私が作家本人をわざわざ作中に登場させ、またその鼻筋一つにこだわるのも、そう考えるからであり、そこをないがしろにしたら成り立たないのである。そのせいで、作家シリーズを始めてから今日まで、一から作るのであれば一年に六人がせいぜいなのである。よって、残りの時間を考えると、すでに頭部がある人物以外はもう実在した人物は作らない、と決めたのである。

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次号の『タウン誌深川』は暮れに芭蕉記念館で芭蕉サミットがあり、各施設でも芭蕉関連の催事があるので、松尾芭蕉特集で、今年の新作が表紙に使われることになり、急遽エッセイ用のカットを撮影に出かけた。大正時代に、芭蕉が愛蔵したとされる石蛙が見つかった所から、東京府が、芭蕉庵跡地と認定した所に芭蕉稲荷神社があり、記念館はその目と鼻にある。神社を背景に、と見に行ったが、鳥居も現在は木製でもなく、絵にならなかったので、記念館敷地内の“古池や蛙飛びこむ水の音”の碑の前で撮影。久しぶりに合成でなく、人形を国定忠治の刀のように捧げ持ち、カメラを額に当てる『名月赤城山撮法』は芭蕉像が重すぎ片手では無理なので、職員に持って頂いた。 思えば”俳聖“松尾芭蕉、“劇聖“九代目市川團十郎を作り、ジャンルは異なるが、いずれ寒山と拾得、豊干の“三聖“を作る。ついでに“角聖”常陸山谷右エ門、”拳聖”ピストン堀口まで、なんて考えたりして。三遊亭圓朝も”聖”が付いても良さそうだが、ゴロが悪いのか。常陸山に対し、双葉山に値する古今亭志ん生まで作っているのだが。 芭蕉庵を作るに辺り、芭蕉の日常品に対する記録があれば集めておいて欲しい、とお願いしておいたが、芭蕉のために、門弟達が持ち寄った米を容れておいたヒヨウタンは、60センチほどの大きさであることが判った。当然備えることにする。 記念館の最寄り駅の森下には、各時代の絵師の手になる芭蕉像のパネルが掲示されている。これが見事に各人各様、一人として門弟の描き残した肖像を反映させた物は無い。いくら有名絵師だとしても、芭蕉庵の所在した地元がいかがなものであろうか。 館内の展示物にも、各時代に描かれた芭蕉像がいくつも展示されているが、ようやく、後世門弟の芭蕉像を参考にした物を一つ見た。妖怪画を多数残した鳥山石燕である。妖怪という、イメージの産物を画いておきながら、いざ実在した人物を画く際には、ちゃんと門弟の作品を参考にする。『解るぞその気持ち,!』私も常に本当のことはどうでも良い、現実より夜の夢だ、といいながら、実在した人物を作る際には、鼻筋一つ実像にこだわってしまう。数百年前の、妖怪画の石燕に共感するとは思わなかった。

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