写真という物は時間も含めて記録する。というメリットがある。私はそんな点をあまり意に介さず、記録といっても、もっぱら自分の脳内に浮かぶイメージにのみにピントを合わせている。よって普段カメラは持ち歩かない。たまたまシャッターチャンスと出会おうとも、それは所詮外側の世界のできごとであり、あまり関心はない。そんな調子であるから、写真の事は良く解っていないのだと思う。男性がペニスを被写体に向け、シュートして歩く、というようイメージが拭えないところがある。巨匠アンセル・アダムスも大の苦手で、窓外にあんな景色か広がっていたら、ウンザリである。女性写真家に好きな作家が多いのもそんな理由からであろう。写真の事など良く判っていない私の個人的趣味など、ここで書き連ねても迷惑なだけである。 ところでついに50年を経て、篠山紀信撮影『男の死』が刊行された。入手した方から数カット、メールで送っていただいた。中に白バイ警官の死があり、シチュエーションは違えど手掛けようとしたことがあった。ある週刊誌の『私のなりたいもの』という企画で三島が白バイ警官に扮していたからだが、死んではいないものの、本人は実現させているのだから、と止めた。しかし本当に好きだったんだな、と私の考えた眉間に銃撃を受けて、路肩で死んでる白バイ警官は、やるべきであったな、とちょっと思った。 被写体のピークを見抜くタイミングの天才、篠山紀信氏がタイミングを失って50年とは、色々あったのは耳にしていたが、想像していた通り、事件直後に出版されてこその『男の死』であり、思っていた通り、三島の無念が思われ哀しさが残る。願わくばこれにより生前のように誤解と嘲笑に晒されない事を願う。 私はこの本家の出版を恐れ十数年、その影に怯えながらも今年5月に個展『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』を行った。この刊行を知ったのは会期中の会場であったが、5ヶ月先んじられたのは、三島本人のウケだけを願って制作してきた私への、三島からの褒美だと本気で思っている。 表紙は目を瞑る三島の死に顔だが、私には嬉しくてわくわくしながら死を演ずる三島が感じられ、哀れさに胸を打たれ、送られてきた数カットのスマホ画像を拡大することも出来ずにいる。