明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




芭蕉庵の設置は、ケースではなく台になりそうである。その方が良いだろう。ところで芭蕉の樹ってどうやって作れば良いのだろうか?“必要のない物は身に着けるべからず、必要になってから身に着けるべし”をモットーにしているので、まったくのノープランである。言い変えれば、その期に及んで慌てる。ともいう。設置台になったのなら1~3本欲しいところだが、1本ごとに台座を作り、設置台に合わせレイアウト出来るようにしたい。 こんな駄文より、芭蕉庵の制作工程画像をアップしたいところだが、しないのには当然理由がある。 “独身者の部屋はノックしないで開けるな”という。人形は作れるが実はぶきっちょな独身者の部屋は、なおさら覗いてはならない。どんなことをしでかしているのか判ったものではない。結果のみを待たれよ。ウソは書かないが都合の悪い事は書かないというルールをかたくなに守り続ける当ブログである。 本日も材料を入手し、外壁と屋根裏の一部に取りかかる。今は細部に渡り、おおよそのデイテールはイメージしている。頭にさえ浮かべば、後は祈るだけである。内装に着手はいつになるか、最後の山となるのはおそらく左官作業であろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここに来てようやく、すべてのデイテールが見えて来た。窓も完成。実際の家と違って屋根は最後になりそうである。芭蕉記念館ではケースを作ると聞いたが、案の脇に芭蕉の樹を立てるとなると相当な大きさになる。出来れば古池まで作りたいが。立体という物は、サイズでイメージするのと実際見るのとは、往々にしてズレが生じるものである。近日中に担当者に見て貰う方が良いだろう。 我が家の寒山拾得水槽は、虎柄が消えて無くなり、虎役をクビになった朱文金は、特に役もないのに買ってしまったアイアンコメツト二匹と共に、ベランダに出向となつた。他の丸型体型の連中と違い、フナのような体型の長物である三匹は、すばしこくて餌も食べ成長も早い。この三匹がいなくなったら、なんだか落ち着きを見せ始め、私を見るたび餌くれとジタバタしていたのが、落ち着いて泳ぐようになってきた。兄弟の多い人はどうしても早食いが多いが、あれと一緒だろう。大食いのライバルがいなくなり、慌てることもない、という訳であろう。 水墨画は、禅と共に日本に入って来たそうだが、寒山拾得も数え切れないほどモチーフになっている。しかし私はすべてカラーで行くつもりである。最初のジャズ、ブルースシリーズ、初期の作家シリーズはモノクロだつたが、エクタルアという印画紙が廃版となり止めた。今でもモノクロ時代の作品の方が良い、という人もいるが、私のように念写が理想などという人はあまり聞いたことがなく、多くの写真家は外側の既存の世界にレンズを向ける訳である。つまり被写体には最初から色が着いている。だがしかし、写真という物が、私のように被写体を自分で作り、着彩する物であるならば、モノクロが良い、なんて人はおそらく一人もいないだろう。自分でやった事は見せたいのが人情というものである。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




篠山紀信撮影『男の死』を購入した方にメールでご意見を伺ったが、私と同じ様な印象だったようである。発売を知った時も予約する気にはなれなかったが、今のところ入手の予定はない。5カットメールで送ってもらったが、拡大して詳細を、という気にもなれず。今をさること何年前か、これは三島にウケるだろうと、いやウケるにはこれしかない、と考えたのが三島が三島好みの死に方で死んでいるところを作る事であった。いずれも“理智に犯されぬ肉の所有者”でなければならない。結果汚穢屋にまでなって貰い、さる方面から差し障りがありやしないか、という心配の声もあったが、あるとしたら三島が『彼になりたい』と書いた『仮面の告白』すら読んだことのない輩であり、三島に喜ばれこそすれ、と私は思っていた。5月にタッチの差で先に発表出来たのは三島からの褒美だと、未だに思っているが、この出版により、私の三島への想いへの介錯が、首の皮一枚残さず済んだな、と一人ごちた。 芭蕉庵に漆喰状の物を塗って見たいのだが、一面だけ塗るというのは、後から不都合が起きるかもしれず、そのままにしている。やはり、あれが足りない、かにが足りないというのが出てくるので、思い付くたびホームセンターへ。今日は屋根の下地となるベニヤを2枚カットしてもらう。2度目。これを置いたり退かしながら様子を見る。早く貼って小屋の状態を眺めたいが、屋根は最後にしないと暗くなり。中に電灯を仕込める訳もなく、展示はどうなるだろう。閉める予定の窓も開け放った方がが良いかもしれない。それにしても手に接着剤がベタベタ付いて不都合が起きるというのは子供の頃からプラモデルで良く失敗してきた馴染みのパターンである。人はそう変われるものではないようである。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





芭蕉庵、壁の2面が塞がった。今日が冷え込んだせいかもしれないが、スカスカよりもなんとなく落ち着く。屋根はがら空きで、操り人形の舞台のようである。この辺りから制作工程を良く考えないと、やりにくくなるだろう。寒山拾得水槽は、豊干の乗る虎役の朱文金の成長が早く、それは良いのだが、肝心の虎模様が色抜けし、ただオレンジ色の金魚になつてしまったのでクビ。ベランダに出向。同時にアイアンコメツト二匹も。こちらは真鍮色だつたのが赤銅色に、いずれも色揚げ用の餌が良くなかった。これで水槽に余裕が出たので、明日も行くであろうホームセンターで黒らんちゆうを買ってしまいそうである。 寒くなり木製角型の手焙り火鉢は、埃を防ぐために蓋をして仕舞おうと思っているうちに、使う時期が来てしまった。老人の盆栽が、毎日ニヨキニヨキ伸びて忙しくてしようがないという感じなのだろう、と想像が付くようになってしまった。これは長い間制作して来て培った時間感覚、ペース配分に狂いが生じる、ということでもあり、あくびをしている間に二日も経ってしまう。気を付けなければならない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日深川江戸資料館で、知らないで良いことも知ってしまった。私のイメージでは、もっと単純なはずだったが、昔の大工は余計なことまでしてくれており。 本日は屋根の一部と壁の一部。といつても、単に塞がっただけたが。あまり塞ぐと、やりにくくなるので、そこそこにして進めて行く。 一つ残念なことあり。当初、私の人形に合わせて作ろうと考えたのだが、あまりに大きくなりすぎるので、芭蕉の座像で40センチ位の作品を3Dで25センチ位に縮小することを考えていたのだが、国内の出力する場所が撤退していた。よって撮影は日本で出来るが、出力はドイツで、ということで2ヶ月かかるという。とても間に合わない。実物大の人形は作れても、小さい人形は作れない。込める情報の最小単位が私の作品サイズなので。 もっとも人形を中に配したいと、私が思っていただけであり、問題は特にないのだが、ただどうせなら芭蕉が良く見えるように、正面の戸をとっ払い、立てかけるつもりでいたので、芭蕉がいないのならあここまで開け広げる必要はない。少々考えどころとなった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




天井裏の梁の制作は先延ばしして、深川江戸資料館に向かう。16年に個展『深川の人形作家 石塚公昭の世界』を開催した。その時点で展示出来る作品をすべて展示し、中締めともいえる展示であった。これにより、作家シリーズも長くやり過ぎたかも知れない、と思い始め、以後変化の時を迎えることになった。この後石塚式ピクトリアリズムにも拍車がかかって行った。 ゴールデンウィーク中でもあり、清澄白河が観光地となっており、8000人超の入場者を数えたが、なんといっても江戸時代の深川を再現した家並みが見事である。再現といっても、技術の保持者を集め、無い物は道具から作り、材料、その他こだわった文化財である。多少貢献してきたこともあり、三遊亭圓朝、泉鏡花他の背景に使わせて貰った。来月からの松尾芭蕉関連の催事の際には、今年制作した松尾芭蕉像も、こちらに展示される予定である。今日はスマホ片手に、各部分の見学に行って来た。天井や外壁、軒下等を観て回った。見なければ良かった、なんて部分もあったが。 そこから近いホームセンターへ、記憶を頼りに材料の調達。今週は屋根裏、外壁に着手する事になるだろう。屋根は板葺きに決めた。 昨日届いたマックミニはまだ箱から出しただけである。パソコンで出来ることは好きだが、パソコン自体が好きな訳ではない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





昨日、梁に使う材料を御茶ノ水に買いに行ったのだが、画材店の前を通り、先にギター用ストラップとピックを買い、画材店に戻るとシャッターが閉まっていた。梁を作ってから、と他の部材を取り付けず足踏みして我慢をしていたのが無駄になった。そんな自分に腹を立て、腹の虫を鎮める為に地元に帰って店に飛び込み、アルコールにて腹中を消毒した。 本日こそ、と鼻息を粗くしていたら、注文していたマックミニが届く日ではないか。メールを見ると配達中である。仕方がない、窓枠など、先に作りながら待っていると、街に流れる四時半のチャイム。何故昨日、ストラップなど、昨日でなくともかまわない物を先に買った?作ることとなると気がせいて、せっかちに変身する私は、イライラ。本日も腹の虫を鎮める対処の必要が生じたではないか。こうなると、明日御茶ノ水に行くと、この二日間がよけい悔しくなりそうなので、明日は行かないことにする。昔は、家を出て、忘れ物に気が付くと、頭に来て別の道を通ったりした。梁は後回しにして、いつものホームセンターに行き、外壁材を入手することにした。懸念といえばそこにいる黒らんちゆうが欲しくならないか、である。 屋根は茅葺き藁葺きも考えないではないが、丁度良い材料があればだが、なんだか如何にもであり、普通な気もする。いっそ所々ペンペン草が生えたような屋根にしたくもあり。芭蕉庵は門弟、支持者によるサロン的な場所であったようで、茶碗が10個置いてあったとも聞く。 母は明日退院。子供の頃は私がチック症になるほど口煩い母であったが、その代わりというか、ホームで楽しくやってくれており、そんな親の話はあまり聞かないので、有難いことである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしても。芭蕉庵を制作するということは、どう考えても、背景を日本的逆遠近法に作る為の前振りとしか思えない。こんな工作などしたことがない。どこかで絵図を描いている客観的な存在があるのか、と空を見上げたくなるが、お姉さんが、バックから取り出し、クランクを回すと始まるブーフーウーに出演する豚になったような気分である。出来るだけ性能の悪い頭で考えずに、腹の中から湧いてくる声だけに耳を澄ませると、何かに導かれるような連鎖が起きる。私はそれには無条件で必ず乗る。まだ芭蕉庵の制作に入っていない頃、画像処理で逆遠近法をやっても上手くいかなかったので、これは最初から歪めた背景を作ったらどうか、思い付いた時、この後芭蕉庵を作るのだ、と。こういう偶然の連鎖という物は私にはお馴染みであり、このお陰で、思いもしないあらぬ方向に枝葉を伸ばし変化してきた。 そのために最も危険視していたのは、余計な情報を取り入れ、余計なことを知ってしまうことであった。ただ学べばいいとは思えない。一度学んだ物は出て行かない。それがいずれ自分の首を絞める時が来る。それを恐れ、身を守り、余計な頭を使わないことを心がけた。ずっと独学を貫いて来たが、博物館に行けば分るが、親から子へ、師匠から弟子へ、先生から教え子へ、学んで行けば良くなるはずが、今では作り方さえ判らなくなっている物さえある。師がいれば、回り道を避けられたのではなかったか、と昔は考えたが、他人から学んだ時に、大事な物を取りこぼし、取り逃がす事がある。それを逃がさない為には独学を貫け、と博物館は私にいうのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





朝からくしゃみ鼻水が止まらず。母が膝から下の蜂窩織炎で入院。もう五回目くらいだろう。蜂窩織炎にも色々あるようで、痛々しく腫れるが、さほど痛みがないようでいつもケロツとしている。入院手続きと、御茶ノ水に材料を買いに行くつもりでああったが、今日は止めておいた。 屋根の制作に入ったが、設計通りだと、高さが低く、屋根裏的な、うねる太い梁が設置出来ない。これこそが作りたいので、設計変更し、屋根裏のデイテールがある程度造れるスペースを作った。例によって行き当たりばったりである。他人のマイホームを作っているのではないのが幸いである。 先日某女優が家族との団欒を過ごした後、自殺した。都会の中の孤独については江戸川乱歩も書いているが、家庭の中の孤独というものもあるだろう。それはお父さんが家族と同じ洗濯機でパンツを洗って貰えない、等という自業自得としかいえないような安っぽいものではない。私は自分が家族に囲まれ、楽しい団欒であるほど孤独感に苛まれ、いたたまれなくなる自分を容易に想像が出来る。それは楽しければ楽しいほど、それに相反して。これは私が幼い頃家族とナニがあったという訳でなく、そういう性質なのであろう。その代わり、夜中に、こんな馬鹿な物を制作しているのは地球上で私だけだろう、という時、えもいわれぬ幸福な孤独感に襲われる。先日、同じく鍵っ子であった創作家の友人と、あの頃空想に耽った経験が我々の基礎になっているな、という話しをしたばかりだが。あの女優は、頭でイメージした家庭と自身にズレがあったのではないか。頭でこうすべき、などと考えるより、己の奥底から沸く声に耳を傾けるべきである。私はずっとそれに従っているうちにこんな事になってしまったが。 子供が口を開けたまま東の空を眺めていたなら、頭をはたくなりアンモニアを嗅がせるなり対処すべきだが、その時はすでに手遅れかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


ミニチュアだろうと檜の断面からは良い香りがする。床を張り終える。実際の家と違い、床を張ったことで強度がさらに増した。昨日は朝から作業していて食事をとったのは夜。お陰で腰痛出る。慣れない切り出しナイフで指を切り、張ったばかりの床に血を垂らす。松の廊下の人傷沙汰。これで明日からは屋根に取りかかる。毎日ホームセンターに通っているが、決まっているのは外側のサイズだけなので、作りながら決めて行かないと、部品のサイズを間違えてしまうので、結局はこうなる。お陰で金魚売り場で、我慢出来ずに、背びれが無い魚なんでおかしいだろ、なんていってたのに、らんちゆうを買ってしまう。水槽に入れてみると、金魚の赤色は、考えられる全色が揃った。 先日、芭蕉記念館で、設置される予定の場所を確認して来たが、入るだろうが、入るというだけで、予定している芭蕉の樹や出来れば古池まで手を出したいところであるが横一列に並べることになってしまう。やはり数字だけで想像するのと、立体は違って来る。担当者にその旨伝える。新たにケースを作る事になりそうである。 銀座奥野ビルの白石ちえこさんの個展に行き、白石さんと、白石さんの旧友と飲みに行く、その友人が寒山拾得について一家言ある人で驚く。さらに白石さんの知り合いで海苔巻きを切ると寒山拾得、なんてアーティストが居るそうで、私がいうのもなんだが、変わった人はいるものである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





屋根を残して小屋部分の骨組みできる。部品が増えるたび、強度が増すのを感じ、面白くなってきた。この調子でいくと今週中に、屋根を含めた骨組みが、すべて出来るかもしれない。江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』で屋根裏を作ったことがあるが、あの時同様、丸太をちようなで削ったような梁を作ろう。来週には床を張り、窓も作りたい。 屋根裏といえば、工芸学校を出て、岐阜の瑞浪にある製陶工場に就職した。一人暮らしの婆さんが大家の二階建ての離れに二人で住んだ。一部屋は屋根裏部屋で、太い梁が行く手を阻む、まさに屋根裏。普通はどちらが屋根裏てに住むかで揉めるものだろうが、私は当然のように屋根裏を志願。当時は写真には興味はなく、まして後に尻はしよりして、屋根裏に潜む江戸川乱歩を作るとは思わす、一枚も残っていない。 父が土日の休みに就職した息子の顔を見に来た。夜は二人してコタツに足を。っ込んで寝た。隙間から外が見え異様に寒い晩であったが、母に一緒に行かないで良かった。あまりに可哀想で連れて帰りたかった、と亡くなった父が言ったと聞いたのは最近だが、私の知っている父とは思えない台詞に本気で驚いた。しかし、この辺りが父と母の違いだが、どっちに住んでると思う?と母に聞けば”屋根裏に決まってる“と母は苦笑いだろう。そんな訳で、覗けば見える芭蕉庵の屋根裏は、羽織の裏のように力を入れてみたい。 画像処理で日本的遠近感的に背景を歪ませてもイメージ通りにならないので、最初から背景を歪ませて作ればどうだろう。その場合効果的なのは、直前的な室内の調度品や壁、障子、襖であろう。と先日書いたが、書きながら、これから芭蕉庵を作るんだよな。それが経験、布石になるのだろう。と頭の隅で。誰が絵図を書いているのか、こうやって偶然が関連付けされ、毛細血管を少しづつ伸ばすように、新たに変化をして行くのが私の通常パターンである。といいながら、なんでこうなるのか不思議である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 


それにしても様々な事を経て、コロナという彩りまで加わり開催された今年5月の『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』だが、5ヶ月後に篠山紀信版が出版されるという、誰が一体絵図を書いている?という結末であった。企画者である薔薇十字社の伝説的編集者の内藤三津子さんに新宿の中村屋でお会いした時の事を思い出す。あれが出ていたら薔薇十字社は潰れなかった、とおっしやつていた。またモチーフはすべて現代であり、サムライなどの時代物は絶対に無い、企画者の私が言うのだから間違いない、とも聞いたが、おそらく『仮名手本忠臣蔵』四段目判官切腹の場をイメージしたであろう、死に装束の武士が頸動脈に刀を当てているカットが掲載されていた。ある編集者から、そのカットを撮影中の篠山の背後から撮られた写真のコピーを貰っていたが、つまり企画者に知らせず、内密に三島と篠山紀信が撮影を行っていた事になる。権利はすでに篠山に譲られていたが、この事実を50年ぶりに知り、内藤さんはどう思われたろうか。 撮影は三島のアイデア、主導で行われ、篠山はただ撮らされているようで、面白くなかった、と言っている。その通り、三島のマスターベーションに篠山は付き合わされただけ、という感じである。しかしそれもこれも、あの事件の直後の出版なら、マスターベーションだからこそ意味があった。 昨晩は久しぶりに痛飲してしまったが例によって、何事もなかったかのように目覚めた。こんな時くらい二日酔いで、なんて言いたいところであるが、二十代の頃、一度しか二日酔いはしたことがない。愛想のないことである。 作業台の上が、ミニチュアの資材置き場のようになつていたが、ようやく屋根を残し、東屋の基本的部分が立ち上がった。これで、後どんな材料が必要かが、目で見て明らかになって来た。土台の基礎作りより、まず天守閣から、というこの性格を見越しての、元大手ゼネコンの部長のアドバイスが効いている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




写真という物は時間も含めて記録する。というメリットがある。私はそんな点をあまり意に介さず、記録といっても、もっぱら自分の脳内に浮かぶイメージにのみにピントを合わせている。よって普段カメラは持ち歩かない。たまたまシャッターチャンスと出会おうとも、それは所詮外側の世界のできごとであり、あまり関心はない。そんな調子であるから、写真の事は良く解っていないのだと思う。男性がペニスを被写体に向け、シュートして歩く、というようイメージが拭えないところがある。巨匠アンセル・アダムスも大の苦手で、窓外にあんな景色か広がっていたら、ウンザリである。女性写真家に好きな作家が多いのもそんな理由からであろう。写真の事など良く判っていない私の個人的趣味など、ここで書き連ねても迷惑なだけである。 ところでついに50年を経て、篠山紀信撮影『男の死』が刊行された。入手した方から数カット、メールで送っていただいた。中に白バイ警官の死があり、シチュエーションは違えど手掛けようとしたことがあった。ある週刊誌の『私のなりたいもの』という企画で三島が白バイ警官に扮していたからだが、死んではいないものの、本人は実現させているのだから、と止めた。しかし本当に好きだったんだな、と私の考えた眉間に銃撃を受けて、路肩で死んでる白バイ警官は、やるべきであったな、とちょっと思った。 被写体のピークを見抜くタイミングの天才、篠山紀信氏がタイミングを失って50年とは、色々あったのは耳にしていたが、想像していた通り、事件直後に出版されてこその『男の死』であり、思っていた通り、三島の無念が思われ哀しさが残る。願わくばこれにより生前のように誤解と嘲笑に晒されない事を願う。 私はこの本家の出版を恐れ十数年、その影に怯えながらも今年5月に個展『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』を行った。この刊行を知ったのは会期中の会場であったが、5ヶ月先んじられたのは、三島本人のウケだけを願って制作してきた私への、三島からの褒美だと本気で思っている。 表紙は目を瞑る三島の死に顔だが、私には嬉しくてわくわくしながら死を演ずる三島が感じられ、哀れさに胸を打たれ、送られてきた数カットのスマホ画像を拡大することも出来ずにいる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本日も朝から柱や何やらに印を付け、切断し、並べている。作ることになると普段のぐうたらがせっかちに変身する。下手をしたら今ごろ四本の柱を立て、呆然としていたかもしれない。今日も組み立てられる所はとっとと組み立てたくてしようがないのだが我慢し、ジョイント部分を作っている。さらに足りない部品や道具をホームセンターに買いに行く。私の事であるから、気が変わったり、思い付いたりで、変更が起きるだろうから、いっぺんに揃えることが出来ない。 帰宅すると、先日再会した、幼馴染みのYから電話。この間に、らんちゆうの愛好会で、審査員までやった彼に聞きたいことが貯まっていた。 例えば昨日今日行ったホームセンターに、ある有名な養魚場の今年生まれた当歳魚を売っていたが、というと、まずはねられた物ばかりで、良い金魚はいない、という。良い金魚は大きくしてから売った方が良いからだが、素人からみて、二歳魚から三歳魚にかけて、急に高価に感じるのも、選別されているからだ、と知った。彼くらいのレベルが手をたすような金魚は、普通に販売はされていないらしいが、大量に入荷したときに、ほんの数匹良いのが混ぜられているから、それを選ぶのが良いと聞いた。 小学生の時、江戸川区の養魚場に辿り着き、もの凄く怒られたのだが、俺達何したんだ?と聞くとまるで覚えていなかった。当時の養魚場が、水田に大量の金魚が泳いでいるようにしか見えず、興奮して中に入ってしまったとしか、オヤジの激怒ぶりが理解出来ない。 昔馴染みには、よくそんな事を憶えているな、と必ずいわれるが、この知らない間に蓄積している記憶が、社会人としてはまったく役には立たないが、私の渡世にどれだけ役に立っているか計り知れないのである。幼稚園で、東京湾で船に乗る母親同伴の遠足があった。彼とはまだ口をきいた事はなかったが、彼は女言葉を使っていた。彼は自分が女言葉を使っていたのは覚えていないのは、小学生の時に確認済みであるが、Yが自分がゲイだと気付くのは、まだずっと後の事であった。 久しぶりに長電話をしたが、学校で散々話して話し足りず、帰宅後さらに長電話した、私の鍵っ子時代を思い出していた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしても、とりあえず四本の柱を立てようとは。実に幼稚な発想であった。本日は屋根は別として、主要な材料をサイズにカットした。それを横に積んで、“これでこそ家の建築現場だ。”この後の予定としては、ジヨイント部分を加工し、仮組みをしてみて、接着はそれからである。もっともこれも、大手ゼネコンの元部長に私の雑な性格を考慮し、つまり下から次々固めていってしまって、歪みを生じさせ、辻褄が合わなくなる、ことを見越してのアドバイスである。私の人生と一緒だ?そんなことはない。だとしたら、今までの歪みの積み重ねがシワ寄せとなり、自称我が大リーグボール3号こと石塚式ピクトリアリズムということになってしまいそうである。話としては面白いが、冗談でも、そんなことをよぎらせてはならない。 昨晩、何カ所か、暗くなってもウロチョロしたせいか、午後節々が痛くなり、風邪の初期症状が出た。以前居たところでは、こんな時は、陳建一麻婆豆腐店の麻婆豆腐さえ食べれば、喉からくる風邪でなければ必ず治ったが、間違えて買った磨り潰していない山椒を沢山入れたお粥を食べて回復。山椒はたいした物である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »