明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



蘭渓道隆、無学祖元が、着彩残してほぼ完成した。あとは一休宗純の仕上げ。つまり作業的なことを残すのみで、ようやく寒山拾得で始まった一連の制作が、ふたたび寒山拾得で一巡り、ということになる。こうやって寒山拾得を軸に何回転か繰り返し、寿命を迎えるのも満更悪くはない。そもそも寒山拾得など、陰影がないからこそやれている訳で、この手法あってのモチーフである。 私が小学校の図画工作の時間、写生になるとガッカリ。目の前に在るものを、在るのに。それを描いてどうするのだ?まったく面白さを見出せず。それがしいては写真に興味が持てなかった事につながった。しかし自分の作品を撮ることにより可能性を見出だし、さらに陰影を無くしたことにより、ようやく〝念写”が可能になり、中国にも行かず、居もしない寒山と拾得を、比喩でなく撮る事ができた。 鍵っ子だった幼い私の疑問〝頭に浮かんだことはどこへ消えて行ってしまうんだろう?”は結論がようやく出た。〝どこへも行かず消えてもいない”。そして写真はちゃんとまことを写せるんじゃないか、というオチまでついた。



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最近はショートメールくらいしかしないが、同じ幼稚園、小学校の同級生に「八岐オロチじゃないけど龍作ってる。それとあの時企画だけで終わった鳩も作ってる。」八岐のオロチは私演出の学芸会の出し物で、鳩は、やはり学芸会の出し物だったが、何かとてつもなくくだらないゲームめいたものだった気がするが、彼と実物大の鳩を作ることになり、今のように材料が潤沢ではなかったので、新聞紙を煮て紙粘土を作ろうとして上手くいかず挫折した。粘土で鳩というと、我々の当時のバカさ加減の象徴として二人の記憶に残る。 別な幼稚園からの同級生の家の洗濯機が壊れ、庭に置いてあった。回転部分を取り出し、陶芸家のようにロクロをやろうぜ、と。その時は紙粘土を買って来て、スイッチを入れたとたん高速回転。紙粘土で庭が一瞬で真っ白になった。 ついでに思い出した。小学一年の時、油粘土でゴジラを作った。翌日学校へ行くと、ゴジラの腹の中から死んだフナが出てきた。どうやら私のゴジラの出来が良すぎたらしい。



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無学祖元の袖から顔を出す龍と、膝上の鳩を着彩残し完成。展示の場合、喉元に剣を向ける蒙古兵と並べるつもりでいたが、無学祖元が弟子に、自分の姿を刻むことあれば袖の龍と膝の鳩を、と伝えたのが事実だとしたら、こちらの方が重要である。だったら私が、と。人形を展示する場合は、おそらく左右に白鹿、膝に青鳩、袖に金龍にして、蒙古兵は隣に置きたい。その代わり写真作品としては、禅師と蒙古兵は歌舞伎の名場面のようにしたい。 もう一人、建長寺の開山蘭渓道隆は、今のところ無学祖元のような伝説は知らない。しかし立体の木像はあるものの本人が、宗より携えて来た肖像画が、もっとも実像を伝えていると判断した。何しろ曽我蛇足の一休像と同様、本人の賛が書かれている。 斜めを向いた一カットを立体化したのは30年前くらい前に作ったブルースミュージシャン、ブラインド・レモン・ジェファーソンとトミー・ジョンソン以来だろう。この2人と違うのは、軽く700年は誰も正面の顔を見たことがないことだろう。



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一日  


一休宗純3体目、8割乾燥終わったところで『タウン誌深川』用の撮影。制作中ということで、写る部分だけ着彩.どうせなら普通は撮らない調子で撮る。それにしても、この不信心者が、毎日坊様ばかり作ることになるとは昨年の私は想像しなかったろう。長い目標を立てないからこそである。 子供留守番禁止条例案、ふざけた話である。寒山拾得を手掛けて以来、はっきり自覚したのが、その虐待とされる鍵っ子時代に私の創作者としての基本が作られたということである。頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのだろう?その疑問がイメージを頭から取り出し、やっぱり在った、と確認することが、私の創作行為の原点となった。孤独こそが創作の源である。それをバックアップするのが、人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている。という思いで、結果、外側にレンズを向けず、眉間にあてる念写が理想ということに至っている。もっとも、妹は友達は家に呼べないし、寂しかったらしい。



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頂相彫刻の傑作と言われる重文、円覚寺開山、仏光国師こと無学祖元師の坐像が現存するのに、私如き者がわざわざ作ったのは、来日前の宗で、元寇を恐れ他の僧が避難している中、一人坐禅中に、蒙古兵に剣を喉元に向けられたところ平然と漢詩を口に、その様子に感服した兵は去っていった、という名場面が、私の知る限り可視化されていないからで、これは見てみたい、と始めた訳だが、もう一場面、円覚寺創建当時、無学祖元の法話を聴きに白鹿が集まったことから、円覚寺の山号が『瑞鹿山』となった。白鹿に囲まれる禅師、これまた見てみたい。 ところが最近、やはり宗で坐禅中に金色の龍と青い鳩を伴った神が現れ、どこの誰とは名乗らなかったが、我が国に仏法を伝えよ、と何度も現れた。龍は禅師の袖に、鳩は膝上にとまった。北条時宗に招かれ来日すると、鶴岡八幡に鳩が沢山いるのを見て、あれは鶴岡八幡だったのだと悟る。後に死後、私の姿を刻むことあれば、袖に龍、膝上に鳩を、その因縁を伝えよと弟子に言い残したという。件の坐像は、何故だか椅子の背もたれに龍と鳩が刻まれている。ならば私が、ということに。彩りも考え、袖に金龍、膝に青鳩、白鹿はここに持ってこよう、と考えている。



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私の大リーグボール1号は人形の脚を鷲掴み、カメラを手持ちで街で撮り歩くものである。泉鏡花は金沢、寺山修司は三沢、永井荷風はカツ丼吐いて死んだ部屋でも撮影した。江戸川乱歩はまだご家族がお住まいの時に土蔵で撮影した。今はスマホで誰でもやっているが、周囲と人形に同じ光が当たるので実在感満点。街に出ると面白そうな人材が写りこむ偶然を待ち構えた。 しかし大リーグボール3号たる現在の手法は、三脚立てて撮影、すべて切り抜き使用するのでポテトチップの袋が写り込もうと関係ない。つまり写真の特質である、陰影描写だけでなく、偶然性の類も一切排除したことになる。 しかし二刀流の一方の被写体制作が、40数年、完成をひたすら祈る、というほとんど最初から最後まで偶然性を粘土で固めるような作り方であり、むしろこの手法で、被写体制作と撮影の、双方のバランスがようやく取れた、という按配である。考えるな感じろでやっていると、こうして計ったように辻褄が合うように出来ている。



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無学祖元は坐禅姿に喉元に剣、を向ける蒙古兵と並べるつもりだったが、写真作品だけにして、もっと重要なエピソードを仕上げることにした。袖から金色の龍、膝上に青鳩。無学祖元は、私が死んで、我が姿を刻むことあれば、袖に龍、膝上に鳩その因縁を伝えよ、と弟子に言い残したという。しかし円覚寺の重文の無学祖元座像は何故か椅子の背もたれに龍と鳩が刻まれているだけである。私はさらに白鹿を加えることにした。 午後久しぶりに電車に乗り『歴史画研究会』に出かけた。むしろ『小堀鞆音研究会』という趣きである。貴重な下絵が興味深い。修正する心の動きが、そのまま画面の動きのように見える。何故日本人は陰影を描かなかったのか?質問してみると、画家の方がおられて陰影や遠近法は説明だから、とのこと。だとすると、葛飾北斎のドラマのセリフで、西洋画を見だ北斎が「そのまんま描いていやがる。」をさらにいうと「見りゃ判ることをいちいち説明しゃがって、野暮な連中だ。」ということだろう。もっとも本人は、よせば良いのに野暮方向に首を突っ込み死んだけれど。



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一日  


今までずっと行き当たりばったりで来たが、三島由紀夫でやり尽くした感を初めて味わって、とっ散らかしたまま次のモチーフに、というのはもう止めようと思った。いつ作れなくなるか判らない。ラインナップのバランスを考え、たとえ途中で何かあっても、夜逃げの後のような状態に後悔しないようにしたい。なので、ラインナップの充実を優先し、今じゃなくても良いものには手を付けないようにしたい。 昨年の個展では、仙人など道教的モチーフを多く扱ったが、今年に入って宗時代の中国から来日し、日本に本格的な禅を伝えた蘭渓道隆と無学祖元を加えた。今後も気になった実在者がいたらラインナップに加えて行きたい。一休禅師は今回で予定していた作品は終わる。 長い目標を持たないことが、途中挫折を避ける最良の方法と考えたが、これで未制作の寒山拾得の深山での日常を制作できれば。一区切り。その後は保留にした滝に打たれる不動明王など、改めて考えてみたい。



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まずは小学校の学芸会のために作った八岐のオロチ。ストッキングに腕をいれ、口を開けて牙を作った。作ったのは八本の首のうちの一本だけだが。私の演出で、運動会では張り切るが、文化活動となるとカラキシのボンクラ集めて、お芝居をやった。ボンクラが恐れるのは仲間外れである。クラスのジャイアンに、クシナダ姫の役を与えたら泣きそうだった。 東宝映画で観たキングギドラのスケールに度胆を抜かれた。授業中ノートに随分描いた。『海底軍艦』にはマンダも出て来た。 工芸学校では陶器窯に空きがあるというので、『竜頭角徳利』を作った。友人にあげたが、竜の口から酒がよだれのように出る、と実用的でなかった。随分経ち、2011年の一回目の『三島由紀夫へのオマージュ展』での『仮面の告白』から、ドラゴンに噛み砕かれる王子の死。幼い三島は、絵本の王子が噛み砕かれ死ぬのが好きだったが、その度生き返るのが気にいらず、そこを手で隠して読んだ。根っからそういう人である。マンションの屋上でドラゴンを手持ちで撮ったが、こんな物作らせてくれて三島に大いに感謝した。そして今、無学祖元の袖から顔を出す龍を制作中である。

 



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午前中から無学祖元の袖口から顔を出す龍を作る。小さいので楊枝の先で作った。視力がメガネで補正できないレベルらしいのだが、頭で補正しているのか、裸眼でなんとか。 昨日のブログの続きだが、作り物なのに実写に見えるAIの時代に、陰影を排除し、逆に作り物にしか見えない手法に至った私。なんだかAIの時代に間に合った、みたいな気になっていたのだが、果たしてそうだろうか、という気がして来た。一人、王様の石の塔に幽閉されているようでいて、時代の空気というものは鉄格子の隙間から漏れ伝わって来て、自覚がないまま、浮世絵、日本画に関心が向いたのではないか? 当時、急遽母と同居したこともあり、気分転換で図書館に避難?したものだが、浮世絵、日本画ばかり眺めていた。いったい何が気になっているのか当初全く自覚がなかったが、そうこうして、写真や西洋画にない、この自由さは、陰影がないからではないか?私が単なる写真家なら知り合いの人形作家の作品で試すところだが、立体という陰影を作り出したのも私である。グズグズと躊躇したが、やってみたら一晩で出来てしまった。



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断念した『昇龍図』だったが、ここに来て龍を作ることになるとは。昇龍図としては、私ならではの龍は浮かばなかった。そもそも浮かんでしまって作らざるを得ず、私は何故作ったのか?後から考えるくらいが私の本来である。無学祖元師の袖から金の龍、これなら私ならでは、ということになるだろう。 作家シリーズに転向したのはジャズ、ブルースシリーズの個展で、写真作品を展示したら、被写体もその場に展示しているのに、写真を人間を撮った実写に間違えた編集者がいたことである.随分オッチョコチョイがいたものだが、まだ〝夜の夢こそまこと”な人間という自覚がなかったものの、私が作った、とわかる物を、と浮かんだのが屋根裏に尻はしょりで潜んでいる江戸川乱歩で、翌年作家シリーズに転向.それでもピストル持ってアドバルーンにぶら下がる乱歩を作っても、実写と思う人はいた。その挙句が陰影がなく、袖から龍が顔を出している人物である.ここまで来ればもう安心であろう。



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相変わらず寝入るのは早い。〝ピストルで撃たれたよう”に寝る。母と一時期同居していた時、話していると思ったら返事がなくなるので、脳溢血でも起こしたのか、と何度も起こされ迷惑した。それが最近は9時、10時に寝ることがある.それは良いとして、よく寝たつもりで起きるとまだ1時2時だったりでがっかりする。 本日も真夜中に目が覚め、だったらと飲酒しながら無学祖元の袖から顔を出す金龍、膝上の青鳩について考える。 我が姿を刻むことあれば、と弟子に言い残したのが事実ならば、七百年の間に戦災、天災で失われたのかもしれない。このエピソードを知る前に考えていたのは、円覚寺創建時に白鹿が現れ無学祖元の法話に聞き耳をたてたという。そこから円覚寺の山号を〝瑞鹿山”という。正面向いた無学祖元に白鹿を配しようと考えていた。であれば来日前と後のエピソードではあるが、いっそ白鹿、金龍、青鳩の共演はどうか。〝及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”をモットーとする。これで決定。

 



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長らく続けた作家シリーズだが、作家が昔亡くなっていようと、出来ればご本人の意向に添い、ウケたいと考えていた。なので江戸川乱歩は、いくらでも残酷描写に走れるけれど、実は常識人であったことを考慮し、バラバラ殺人のシーンでも、むしろユーモラスに描いた。本人を登場させるので、単なる挿絵とは違う。最たるものが個展『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』である。三島にウケる事以外全く考えなかった。まさに私と三島の2人の世界である。 しかしたまに例外もある。泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』を制作した時、例えば、この人物は、どっちに向かっている?鏡花の描写が判り難く、頭に来て、あるシーンで河童に蝿を3匹止まらせ、鼻水を垂らした。極端な潔癖症でバイ菌恐怖症の鏡花が卒倒するところを想像し溜飲を下げた。 さすがに七百年前の人物にウケようとは考えないが、無学祖元が、自分の姿を刻むことあれば、袖に龍膝に鳩を、と言い残したのであれば、坐禅もやったことのない私で良ければ、と思うのである。



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一休宗純、編笠を残し乾燥に入る。今まで2カット制作したが、今回は始めて全身作り、一休はこれで満足。 伝説として伝わるエピソードを解釈、可視化するのは面白くやりがいがある。宗より来朝した蘭渓道隆、無学祖元の二人の禅師の撮影はこれからだが、例えば鎌倉は円覚寺の開山無学祖元師。宋において坐禅を組んでいると、金色の龍と青い鳩をつれた神人が現れ、自分の国へ来て仏法を広めるよう繰り返し頼んだ。鳩は禅師の膝に止まり、龍は袖に入り込んだ。後に北条時宗の招きで鎌倉に来ると、鶴岡八幡には何百羽という鳩がいた。あの神人は鶴岡八幡だったのだと悟ったという。禅師は自分の示寂後に姿を刻むことがあったら、膝に鳩を、袖に龍を添えて彫り、この因縁を伝えてほしいと円覚寺の弟子に伝えたという。 円覚寺の重文の無学祖元師の木彫は椅子に龍と鳩が刻まれているが、禅師が希望した袖に龍、膝に鳩ではない。もし七百年放ったらかしなら、私の出番ではないのか?



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