明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一休宗純の仕上げ。雲水姿の一休は、写真作品には朱塗りの大太刀、展示には竹竿にシャレコウベに持ち替える予定にしている。今回の朱塗りの大太刀も、同じく左手に持つように作ったが、同じようなポーズが気になり、鞘を引き摺って歩いたという説もある。腰に差すことにした。間が抜けていて、そちらの方が面白いだろう。 境の町中のエピソードだが、町の風景の代わりに町民と共演させようと思っていたが、私の過剰癖かとも。もっとも陰影がないと周囲の影響は受けないので、後から作って加えることも可能なので、慌てることはない。ようやく一周巡って再び寒山拾得に戻るか。 なんとなく作るべき人材が他にいるような気がするのだが、それは丹田辺りのもう一人の私がそう感じるだけで、考えても今のところ思い当たらず。このへそ下三寸の自分と頭のズレに悩まされた時期もあるが、とっくにポンコツな頭は見限った。その結果が〝考えるな感じろ‘である。放っておこう。



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一休和尚に朱塗りの大太刀を太刀持のように持たせると、竹竿にシャレコウベのように、またもや縦長画面になる。それを避けるためにも腰に差すことにした。横に乞食か夜鷹の女を考えていたが、やり過ぎならば犬一匹でも良い。動物は出来れば本物を使いたいが、室町時代の野良犬はどんな犬がいたのかが判らない。 一作目の竹竿にシャレコウベの〝門松は冥土の旅の一里塚‘’の時も、当初門松を配するつもりだったが、今の門松とは相当違っていたことだけは判ったにとどまった。ところが縦長の画面に上部にシャレコウベ。空間が空いている。シヤレコウベに鴉がまとわりついている画が浮かんだが、冬の鴉はどうしている?と調べてみたら、はたして初鴉は正月の季語であった。これ幸い。それに一休はある晩、鴉の声を聴いて悟りを開いたという。元々門松など野暮臭いと思っていたので上手く収まった。 今回、横に夜鷹の女は胸をはだけて、一休が自ら告白するところの〝ハラワタの奥まで好色が詰まっている‘’を匂わせてみたくはある。

 



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