花鳥風月・・・気ままな写真日記

ようこそ、どんこの小部屋へ。ゆっくりくつろいでください。
日常を出来得れば自然と融合したいと思っています。
 

創作ステージ・海達公子(その2)

2016-10-29 | 創作ステージ 
 平成28年10月29日(土)

 海達マツエは公子を出産します。



 長野県飯田での産声でした。



 親子3人は炭鉱の町・荒尾へ引っ越してきます。公子は荒尾北尋常小学校に学び、母マツエは荒尾の炭鉱住宅で行商し、生活の糧としていました。



 公子は良く手伝いをし、炭鉱住宅の子どもたちとも仲良しでした。



 写真左端が公子。



 父松一は勤めていた万田坑もやめ、貴文(よしふみ)というペンネームで文芸の道に邁進していましたが、地元では少しは知られる文士になったとはいえ生活力はなく、母の行商の収入での生活を余儀なくされていました。



 公子は賢い子で父の影響もあり、自然との触れ合いの中でどんどん詩才を伸ばしていきます。



 時代は第一次世界大戦直後の大正デモクラシー、自発的活動を重視する教育が重んじられ、芸術教育運動も盛んになってきます。月刊誌「赤い鳥」が鈴木三重吉たちにより発刊、鴎外など名だたる作家たちが寄稿しています。“子どもたちを豊かな感性ももった人間に育て上げる”ことを標榜しています。
 これに呼応して松一は公子に詩を書かせ、どんどん投稿させていきます。有名な詩人・歌人たちから絶賛を浴びるようになりました。



 「赤い鳥」に掲載された詩がバックスクリーンに投影される中、詩のイメージがダンスにより次々に演じられていきます。

















 公子が有名になるにつれ一部からは公子の詩は父親が書いたのではないか、などのねたみややっかみが生じてきます。



 しかし、公子の担任・松尾トドメ先生は公子の良き理解者であり、噂を否定してくれます。



 農園などで子どもたちを遊ばせて子どもたちの感性を育ててくれる優しい先生でした。



 子どもたちの生き生きした表情をご覧下さい。



 先生は公子の「夏豆の葉裏の筋が見える。」と言う観察力に驚愕します。【続編はいよいよ公子の女学校時代になります。】

コメント (12)
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