これが今日のニュースだ、知ったとたん怒りと涙が出てしまったのは私だけだろうか?
事件は昨年、今年21の母親は、20のときに事件を起している、という事は、子供は16のときに身ごもったわけです。
この3歳の子が、どのような親(女)の人生から生まれてきたかについては、私が知るよしはありません。
しかし、彼氏に嫌がられるから? だから食事も与えず死に至らしめる?
この亡くなった子が、どのような思いで毎日をすごしていたか、いくら幼いとはいえ、泣きもしただろうし、騒ぎもしただろう、ママという言葉もいえたはず。
その子供を黙らせる為に殴る蹴るの暴行を働き、食事を与えなかった。
突き詰めれば、この女は自分の為だけに生きている訳で、相手の事すら考える事が出来ない、自分が幸せになるなら何でも使う、相手がいなければ子供ができる筈も無く、それなら前の彼はなんだったのか?
そして今度の彼とでは、邪魔だと考える。
私が理解できないのは、この女性と生活していた彼とやらが、何故気が付かなかったのか? こどもがいると知っていながら暮らし始めて、子供の姿が見えなくなったことにおかしいと思わなかったのか? 屋根裏で死んでく3歳の子が何にも音を出さないわけが無い、気付かない訳がないということだ。
そしてこの女の親、自分の娘が妊娠していない事に気付かないわけなどなく、出産だって知っていたはず。
親に衰弱した子供の事が発覚する事を恐れたからと、意図的に死に至らしめたわけで、これほどむごくて残虐な行いはありえない。
よく受容という言葉を聞く事があるが、このような事をした娘も受容するのか? 「いいのよ、いいのよ、苦しかったのね、しょうがないわ、何時かは分かるはず」と・・・・・・そもそも、受容という言葉の意味を、いい加減取り間違っているのが分からない親が多すぎるのではないか?
特に非行の子を持つ親が好んで使うその言葉は、単なる甘やかしを受容という聞こえの良い言葉に置き換えただけの事でしかなく、それで、親としての責務を免除されたような気になっているのが目に付いて仕方が無い。
もし私の娘が同じ事をしたなら、娘と共に命を絶つし、その覚悟はいつでもできている。
死ぬ事が解決になるのとか何とかいうどうでもいいような、他人の無責任な干渉は一切廃除し、受け取る気はないし、親として取らねばならない責任は取らなければならない。 少なくとも世の中に於いて、人様に最悪最低の害を与える人間にまでなった自分の子供を野放しにして、それを受容という言葉でごまかすほど、私は自分に甘くはない。
子供を育てる事は、命がけでかからねばならないのだから・・・