上の子の時と異なり、とにかく話す時間が多いのが下の娘の特徴。
小学6年生ともなれば、話の内容も高度、特に友達に絡んでのことは難しくなります。
人と話すということは、学ぶ事と同じです。 連続してなされる思考は待ったを許さず、
ゆえに相手が狡猾であれば心の底までずるずると引き出されてしまう事にもなります。
瞬時に判断しつつなされる会話は、やはり訓練によりある程度の駆け引き能力を高める事で
可能ですが、それはその根底に人間性という土台が有ればこそ。
ある人間はやたらうまく話し、しかし中身もなく。 ある人間は言葉少なく、しかし、一言一言に魅力がある。
私が生きてきた年月を通してみるに、どれだけ人として辛い思いや苦しみを
乗り越えてきたかが人間としての厚みを増すのだとしたら、自分はまだまだ鼻ったれ小僧なわけで、
そんな自分が純粋無垢な娘に何を伝えられるだろうか? どれだけの事を伝えられるであろうか?
言葉は言葉でしかなく、それ以上にはなりえず、言葉の力は、それを受け取った人間が自分に
もたらされる経験を通して、自分の言葉として熟成させる事であって、そうして初めて他人の言葉は
意味を持つ。
親の言葉は、けして大きな力になりえず、それこそ霧の向こうにおぼろげに見える光でしかなくても、
灯台の光であれば良く、けしてある線を越えて近づくべきものではなく、かといって無くてよいものでもない。
それくらいが良いのかもしれない・・・・
私の手を取って、「暖かーい!」と嬉しそうな瞳の中に明日の幸せを願わずにはいられません。
台風の雨にそんな事を思うのです・・・・