近いうちに家の子となる息子のフィアンセ、Sちゃん。
実はその子が家に来たら、家から学校へ通ってもらおうかと僕は考えている。
もう一度学生生活をしてもらうという意味だ。
「なんのこっちゃ?」と、長い間このブログを読んでいただいている方達は思われるでしょう。
本来であれば大学生でもおかしく無い年齢のSちゃんですが、結婚しているから(したから)学生になってはいけない等という根拠もなく、むしろ二人の将来にとって良い結果をもたらす可能性を広げられるなら、親になる義務の一つと考えているし、”むしろ必要なことではない”かとも考えている。
これを言い出したのはSちゃんではなく僕ですが、本人の意志がこの場合には非常に大切ですから、もちろん進学の意味と目的をきちんと説明したのですが、一応その気になってくれているらしく、それが心より嬉しい。
もちろん無意味に進学する訳ではなく、きちんと目標を持ってということになるのだけれど、それが叶うかどうか?、なしえるかどうか?、等という小さな事を言うつもりは一切無い。
うまくいかなくても駄目人間と見なすことも、思うこともない。
なぜなら僕も、家内も、そして家の子達みんながこれまで失敗ばかり繰り返してきたわけで、特に長男は元不良でナイフ持って喧嘩するような仲間達と荒れた時代を過ごしてきたし、今でこそ大学を卒業して親方日の丸で働いているが、みんな優等生ではなく、頭がよいわけでもなく、どちらかというと落第生一家というほうがピタリ。
Sちゃんには二年間の学生生活を送ってもらいたいと思っているのだけれども、これにはもう一つ意味がある。
人間の一生には無駄というものがとても大切で、無駄に思える時間と経験が無駄ではなく、後になって非常に重要な意味を持っていたのを知ることは多々ある。
これは自分が嫌というほど経験している。
高校を卒業し、本来ならまだ数年は無駄な時間を消費せねばならないのに、それを失うことは若い時分にはもったいなすぎる。
今は子供が友達と遊んでばかりいると、それが無駄だとばかりに、下手すりゃ幼稚園時代から習い事だ塾と通わせ、ひたすら時間を減らすことに満足と充実感を覚える親がいるけれど。
学力は単なる技能でしかないうえに、それを使いこなす人間性があって初めて意味を持つのだという事を忘れている。
自分の幼い頃は、朝から晩まで真っ黒になって遊んでいた、勉強なんか全くしなかったし、当然成績はビリから数える方が早く、宿題なんか当然しなかったので学校の忘れグラフは常にトップだった。
いわゆる薄汚いバカガキそのものだ。
ところがその時にさんざん経験した友達同士の遊びが社会や職場で快適な人間関係で過ごすための暗黙のルールを学ばせてくれ、喧嘩した経験はもっとも難しい人間関係の形成と修復方法を学ばせてくれ、いじめたり いじめられたりは忍耐をはぐくみ、泣くことで人の心の痛みを覚えた。
何一つ無駄は無かったわけだ。
人は嫌でも年をとっていく、故にその時にしか得られないことは沢山あり、再び学生生活を心からエンジョイしてもらうことは、利益こそ有っても損というのは無い。
僕の考え方として、儀式である結婚式にお金を出すつもりは殆ど無い、なぜなら式というのは自分達の出発そのものであり、二人がおこなう初めての建設的共同協力作業である以上は、それすら自力でなしえない二人に明るい未来等有るはずもないからだ。
現実、自分は家内と二人で親に頼らずにそれなりの式を挙げた。
こうしたものを派手にするための財産消費というのを僕は好まず、その分を別の財産として残す道を選ぶわけだけど、
注意: これはあくまでも僕の考えで、良いとか悪いとかという話とは全く違うえに、他人を批判するつもりはないので勘違いしないでもらいたい。
それは、親が我が子に残せるのは、お金や土地のような財産ではなく、幼き頃からのたくさんの思い出と人間性、そして無駄であって無駄ではない無形の財産そのものなのだと僕は思っている事から来ている。
と、偉そうに書いているわけですが、現実に少し厳しいな~と思うのは、下の娘の大学進学が二年後に控えている現在、学費をどうやりくりするかというのが、もっかの課題となっている。
一部を奨学金でまかなえるかな・・・・・
えへへ