人にとって一番大切なのは、「自分はどう考えるのだ?」という事、そしてそれを他人にどう伝えるか? 言えるか? ということだ。
曖昧という物を日本人は愛する、なぜならこの手法がもっとも楽だし、平穏をかき乱すことなく、悪だと見なされること無いからだ、
でも・・・
上の子も下の子も、「自分はどう思のだ?」ということを幼いころより問うてきた。
褒めて育てるなんちゅ~考え方の現代教育からすれば、ある意味いじめ、出るはずのない答えを出させ、でも人間関係に明確な答えなどけして無いのが現実。
なら、「何故に問うのか?」 これに子供達は強烈に抵抗し、反発し、相当苦しんだ事と思う。
現実に上の子は不良行動しまくりだったし、下の子は幸運にもその道へと走らずに、反発エネルギーを自分の成長に使っている。
どちらが親として良かったのかと問われれば、そのどちらも正しいとしか言いようがない。
しかし、この経験が将来、対人関係に苦しむことなく人生を切り開いていける力になる、なぜなら出せない答えを出す過程で人の心のあり方に関して
膨大な考察を繰り返して悩むからだ。
困った事(バカ親父そのものです)に、同じ事を嫁(息子の)にもやってしまっている。
けして出ることのない答え、それを投げかけ、ある意味最低の義理親でしかない。
でも、自分を囲っている全ての盾を取り払い、人の持つ本能の声を聞き、それを中心に物事を考えられる事(武士道)は、人の持つ不変の法則を
学ぶことに等しいからだ。
人の心のむき出しの姿を知り、どこに人の本心が有るのかを考え、判断出来ることが、どれだけ幸せな事であるか?
というのは、老いて直面する現実をみて初めて悟るか、それとも若くて感性の豊かな時分に得ることが出来るか、という違いでもあるだけれど、事は至極単純であり、生きていく上に置いて
幸せという物をどう感じ、受け取れるか面において底知れなく大切なものだからだ。
ある人は言う、億万のお金持を持つことが幸福だと言うし、又逆に不幸だと言う。 又有る人は手の中にあったほんの僅かな幸せさえも放棄し、ブルーシートに囲まれた生活にまで
逃げ込んで理想だと言うし、理想の幸せなど見えないとも言う。
当たり前のことだけれど、人は本能にそって生きている、本能が求めるのは常に素直な人のあり方でしかなく、それは貨幣や物量に支配される事のない世界で生きられる事こそが最も大切であり、
その過程における付属品として付いてくる様々な付録がまた幸せを感じさせてくれるのだけれども、そう伝えることはかなり難しい。
有りもしない権利、平等、自由。
有りもしないものだから、得たように思えた瞬間は感激もあろうし、感動もある。
ところが、それが当然あるものだと幼い頃から刷り込まれて成長すれば、なんら感じえるものは無いだろう。
感じられないとは、感覚を失う事で、それはまた意味(喜び)を得られないということであり、これが人として最も不幸なのだと僕は思うし、そう子供達に問うてきた。
今は理解なんて出来なくても良い、クソ親父でも、バカ親父でもかまわない、子供達に好かれ様なんてけして思うことは無い。
過ぎ去りし日々に、悩むことあらばふと思い出してくれる。
そんな存在になれるのなら父親としてこれほどの幸はあるだろうか・・・・