チャンネルを回すと、おや、見覚えのある赤松良子さんの顔が映った。年を取ったとはいえまだまだお若い感じ。なんだろう。それはNHKアーカイブス「男女雇用機会均等法の施行から30年」というものだった。憲法で男女平等がうたわれていても、当時の世相では、女の地位は低く、働く女性は30歳になったら退職するという不文律があった。仕事を続けたくとも女性たちは泣く泣くやめざるを得なかったのだ。
時はちょうど国際婦人年、先進国はすでに男女雇用機会均等法があったが日本にはなかった。世界の女性たちは、どの国もが均等法を持つべきだと訴えた。何とか作らねば、と赤松良子さんをリーダーに労働省婦人少年局のメンバー(女性は3人)が法律を作る、その任務に就いた。法の成立には、それこそ戦いの日々だった。基本的な女性の現場調査、無理解な経済界、男社会そのものの論理への説得。審議会の軋轢。彼女たちの必死な努力の結果、1985年、法は成立した。見ていて涙が出た。
もう一人、懐かしい名前が出てきた。山野和子さん。当時総評の婦人局長。彼女の活躍が目覚ましかったのを覚えている。
もちろん、男女雇用機会均等法が成立したことは知っていた。法そのものが、まだ不備であることも知っていた。その後改正されていくのだが、その時はこれでいいのだろうかと思っていたものだ。しかし今、当時の彼女たちの戦いぶりを見ると、あの時不備であっても、法を作る必要があったのだ、ということがうなづけた。そして、これに限らず、女性の道を切り開いてくれた、先人たちの努力に改めて頭が下がる思いだった。
明治や昭和の初めならいざ知らず、たった30年前の話である。改善されたとはいえ、現実、女性の地位はまだ低い。女は・・という偏見や差別はまだまだある。それを改めて行くのは働く女たちの前向きな努力以外ない。がんばれ、女たち、能力は十二分にあるのだから。
とはいえ、女たちの問題はすべての女たちの問題、力を合わせて、一つ一つ改善していこう!
時はちょうど国際婦人年、先進国はすでに男女雇用機会均等法があったが日本にはなかった。世界の女性たちは、どの国もが均等法を持つべきだと訴えた。何とか作らねば、と赤松良子さんをリーダーに労働省婦人少年局のメンバー(女性は3人)が法律を作る、その任務に就いた。法の成立には、それこそ戦いの日々だった。基本的な女性の現場調査、無理解な経済界、男社会そのものの論理への説得。審議会の軋轢。彼女たちの必死な努力の結果、1985年、法は成立した。見ていて涙が出た。
もう一人、懐かしい名前が出てきた。山野和子さん。当時総評の婦人局長。彼女の活躍が目覚ましかったのを覚えている。
もちろん、男女雇用機会均等法が成立したことは知っていた。法そのものが、まだ不備であることも知っていた。その後改正されていくのだが、その時はこれでいいのだろうかと思っていたものだ。しかし今、当時の彼女たちの戦いぶりを見ると、あの時不備であっても、法を作る必要があったのだ、ということがうなづけた。そして、これに限らず、女性の道を切り開いてくれた、先人たちの努力に改めて頭が下がる思いだった。
明治や昭和の初めならいざ知らず、たった30年前の話である。改善されたとはいえ、現実、女性の地位はまだ低い。女は・・という偏見や差別はまだまだある。それを改めて行くのは働く女たちの前向きな努力以外ない。がんばれ、女たち、能力は十二分にあるのだから。
とはいえ、女たちの問題はすべての女たちの問題、力を合わせて、一つ一つ改善していこう!