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プチ ラルース

2016-05-17 19:26:23 | 日記
本棚の羅仏辞書の隣にかくれるようにプチ ラルースがあった。背表紙の印字が消えかかっていたのでわからなかったのだ。
プチ ラルースは、フランス人が子どもに与える最初の国語辞典と言われている。

このプチ ラルース、50年以上前、学生だった私が英文学科のクラスメイトのおばあさまから頂いたもの。おばあさまは、航空工学、というよりローマ字の創設者として私たちにはなじみ深い、田中館愛橘さんの一人娘である。

 私の両親は熱海にお住いの文化人たちとの交流があった。そのおひとり、国文学者で歌人の佐佐木信綱さんのところには私がよくお使いで行っていた。おばあさまは若いころ信綱さんとお知り合いだったとかで、お会いしたいと言われ、母が手はずを整え、おばあさまを西山の信綱宅へ案内した。戻ってきたおばあさまは信綱さんとお話ができて、とてもたのしかったとよろこんでいた。帰られたあと、母が笑いながら「先生(信綱さんのこと)とおばあさまとの会話、とてもついていけなかったわ。だって鹿鳴館の話なのよ」と。おばあさまも信綱さんも鹿鳴館に出入りしていた紳士淑女だったのである。
「田中館さんはとてもお美しくて、若い男性のあこがれの的でしたよ」と信綱さん。
「先生だって、とてもハンサムでいらして、ご婦人たちがあこがれておりました」なんて会話がなされたそう。ほほえましい限り。
確かにおばあさまはお年を召してもかわいいお顔で、若かりし頃はさぞやと思える品のいいお顔立ちだった。

 その日、お土産で頂いたひとつに、プチ ラルースがあった。「古いものだけど使ってね 」と一言がついて。さっそく本を開くと、当時の日本の辞典にはないような、カラーつきの挿絵も入ったきれいな辞典だった。喜んだのはいうまでもない。辞典を開いては、関心のある項目を読んでいた。ただ一つ難点があった。それは愛用されていたので、表紙がかなり傷んでいたことである。
そこで、同じくクラスメイトのお父上が、製本の仕事をなさっていたので、表紙を直してくれるように頼んだ。返ってきたプチ ラルースは、シンプルな装丁になっていた。私が学生だからと心して、実用的なものにしてくれたのだろう。

 プチ ラルースそのものは珍しいものではないが、この一冊の本には愛用していた人の思いと時間が詰まっている。そこでクラスメイトに連絡を取り、この本をお返ししたいが受け取ってもらえるかどうかきいてみた。承諾を得て、本は、50余年ぶりに、元の持ち主のご家族のもとに帰る。「よかったね」と本に話しかけながら、一番ほっとしているのは私である。


 
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