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佐佐木信綱さん

2016-05-19 17:43:50 | 日記
 説明するまでもなく、国文学者で、歌人のことである。プチ ラルースで信綱さんが登場したので、その続きで信綱さんの書籍の整理をしてみようと思い立った。我が家には信綱さんの本がかなりあるはず。本棚は二重に本が置かれているので、後ろに行ってしまった本の所在がわからない。あっちの本を引き出して後ろを見たり、こっちの本を引き出して、はと探すと、まとまって信綱さんの本が出てきた。15,6冊、いやもう少しあるだろうか。本棚に立ててあるだけなのだが、それでも本はシミや埃で汚れている。万葉集や万葉辞典はよく使ったが、ほかの歌集や著書は手つかずのものも多い。ほとんどは信綱さんから直に頂いたものである。

 佐佐木信綱記念館を探すと、三重県鈴鹿市にあった。そこで本をもらってもらえないかどうかメールをした。市の文化財課が電話で対応してくれ、本をもらってもらえることになった。今朝のことだ。佐佐木信綱さんの思い出も添えてほしいというので、急いで思い出をまとめて、宅急便で送った。これで昨日に続き、ふた仕事終わった。まだまだ本はたくさん残っている。できるだけ役に立つところにさし上げたい。

下は書籍に添えた説明文↓


 佐佐木信綱さんのこと

 私は熱海生まれの熱海育ちである。今は真鶴町に住んでいるが、真鶴岬には佐佐木信綱さんの
「真鶴の 林しづかに 海の色の さやけき見つつ わが心清し」という歌碑がる。

 「佐佐木信綱」という名前を覚えたのは小学校6年生のとき、授業で文化勲章を取り上げ、文化勲章が制定されたのは、私たち6年生の生まれた年という説明があった。そして「熱海に文化勲章受章者が何人いるか調べてきなさい」という宿題が出た。当時、熱海にお住いの文化勲章受章者は6人、そのおひとりが信綱さんだった。再び「その方々がどういうお仕事をされたのか調べてきなさい」という宿題が出た。ここが子どもである。直接、お宅を訪問して本人に聞いてしまおう、ということになった。そこで初めに伺ったのが学校から近かった徳富蘇峰宅だった。そのとき蘇峰さんはご病気で臥せっていられたのだが、子どもたちに会うために、着替えをして玄関まで出てきてくださった。お話は伺えなかったが、気をよくした子どもたちは「明日は佐々木信綱さんちに行こうね」と家に帰り親に報告した。驚いたのは親たちと教師だった。結局、以後、受章者宅の訪問は禁じられてしまった。だからその時は信綱さんにはお目にかかれなかったが、すぐ信綱さんは私たちにはなじみの深い方となった。熱海中学校(当時は1市一校)の校歌を作ってくださったからである。もちろん信綱さんの和歌は、教科書でずいぶん暗記したものだ。

 西山の信綱邸にお使いに行くようになったのはいつからだろう。物腰もお話しぶりも優しい方だった。いつも和服を召していられた。伺う度に先生は、「万葉集が○○語に翻訳されましたよ」と嬉しそうにお話しされていた。私が語学が好きなことを覚えていてくださったからである。そして帰りにはいつもご本を下さった。ここにある多くはそのとき頂いたものである。大学のとき、「田中館博士がローマ字で書いたご本人の和歌ですよ」と折本を頂いた覚えはあるが、どこかに紛れ込んでしまったらしくそれは見当たらない。
先生からの手紙は、能筆なうえに、万葉仮名で書かれていたのでほとんど読めなかった、でも、いつも横にカナがふってあったのを覚えている。
先生が亡くなって、西山のお宅でのお別れには、父が亡くなったのは先生が亡くなった翌年、すでに病で臥せっていたので、私が代わりにお別れに行った。榊を供えた記憶がある。

 今年、何十年ぶりに西山の旧宅「凌寒荘」の前を通った。凌寒荘は開館されている。よくうかがった日々が思い起こせて、とても懐かしかった。

註:私たちは信綱先生を親しみを込めて「信綱さん」とよんでいる。
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