警察官の犯罪は愛国心教育で直せるか

2006-05-31 07:07:54 | Weblog

 1985年出版の『日本警察の生態学』(ウォルター・L・エイムズ著・勁草書房)なる書物に、「日本の警察官の自画像(自己イメージ)は、誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちたものだ」との一節がある。

 既に20年も前に一読した書物であり、その内容は完璧に近い形で忘却の彼方に沈んでしまっている。上記の一節はノートのメモから発見したもので、改めて読み直すエネルギーはもはやない。前後の脈絡も忘れてしまっているから、どういう意味合いで書き入れた文章なのかもわからない。

 あくまでも日本の警察官自らが自らに対して描いている「自己イメージ」を単に解説しただけのことであって、著者自身が「自画像(自己イメージ)」と実像が一致していると見たわけではあるまい。一致していたなら、自己イメージであることを超えて、社会的イメージとなっているはずである。社会が警察官一般の姿に「サムライのイメージ」を持ったことがあるだろうか。かつても、特に現在もないだろうと断言できる。

 警察官自身が自分たちを「誇り高いサムライ」に見立てて行動し、何ら疑問も感じなかったとしたら、自己認識能力が極端に貧弱であることを示すものだろう。いや、幼稚で未発達な状態になければ、できない技であろう。初期的には自分を「サムライ」に見立てることはいくらでもできる。だが、日常的な職務上の行為が自らがイメージしている〝サムライ〟の感覚を常に満たしてくれる内容のものかどうかである。いわば仕事自体がサムライに与えられる種類の仕事となっていて、サムライとして仕事ができるかどうかである。

 そうであるなら、イメージと仕事の実態とが一致し、「誇り高いサムライ」としての達成感を得ることができる。その逆なら、「自画像(自己イメージ)」は裏切られて、イメージと仕事の実態との乖離が生じて、心理的な破綻が生じる。

 この本が出版された当時も、それ以前も警察官の犯罪が決して少なくなかったのは職務との乖離と〝サムライ〟であることの破綻を示すものだろう。それはすべての警察官に関してではないと言うだろうが、大体が日本人がイメージするところの〝サムライ〟なるものは存在しない。架空の期待像でしかない。

 人間が道徳的・倫理的に出来上がっていたら、宗教は存在理由を失う。宗教の存在理由は非道徳的・非倫理的人間を道徳的・倫理的生きものに導こうとするところにある。だからこそ宗教は存在することとなった。

 武士道の存在理由も同じ原理上にある。支配階級に所属する武士の支配の正当性(=人間の違い)を被支配階級に理解させるために現実は体現していないからこそ必要とした〝武士道〟なる姿であって、いくら武士道教育を以てしても、武士も同じ人間として武士道を体現できなかったことは商取引上の、あるいは買官のためのワイロ・談合の横行、あるいは年貢取り立てに於ける不当なえこひいきやワイロの請求等が証明している。

 親が子どもに勉強しろ、勉強しろと口うるさく言うのは、子供が勉強しない状態にあるからだろう。親が要求するまでもなく自分から勉強していたら、口うるさく言う必要はどこにもない。いわば宗教も武士道も人間の実際の姿の裏返し要求をテーマとしている。

 武士の場合は一般の武士は所属する支配階級の中で被支配の立場に置かれていて、彼らを支配する立場の支配者がいたことが一般の宗教とは異なる。武士道なる道徳観で武士を律し、型にはめることによって、支配者は管理上の利益が獲得可能となる。いわば、武士道は支配者を利する支配者のための期待像でもあった。

 勿論職業が担うべき社会的役割に添った使命感を持ち行動する警察官は多いだろうが、だからと言って「自画像(自己イメージ)」を「誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちたもの」とするのは行き過ぎであろう。「礼儀正しく威厳に満ちた態度」をいつも取っていたら、仕事に支障をきたすだけではなく、したたかな犯罪者にバカにされるだけだろう。「お前何様か。たかが警察官じゃないか」と

ではなぜ「誇り高いサムライに似て、きわめて礼儀正しく威厳に満ちた」といった「自画像(自己イメージ)」を取るに至ったのだろう。

 他からの注入がなかったなら持つに至らなかった「自画像(自己イメージ)」のはずだから、警察の上層部が警察官を教育し、その行動を律するために、「お前たちはサムライだ」という意識を植え付けようとしたのだろう。「サムライとして行動せよ」と。

 そのように教育された警察官各々が教えられた以上、そう自負せざるを得ないから、「自分たちはサムライだ」と世間向けの態度を取ることとなった。あくまでもタテマエとして。そのことは結果として宗教や武士道の裏返し要求と同じ姿を取るに至っていることが明瞭に証明している。

 しかし、教育する側にしてもサムライとして行動し得てはいないだろう。既に指摘したように多くの日本人がイメージする〝サムライ〟なる存在など虚構でしかないからだ。人間は支配階級に属そうが、被支配階級に属そうが、自己利害を本質としていて、だからこそ精神的・物質的執心から離れられず、他人と比較した昇給・昇進にも一喜一憂し、それが満足のいく状態なら誇りを感じることができるが、不満足なら、妬みや怒りの種となる。

 妻子ある同僚が若くていい女を愛人にすれば、羨ましくなって、俺もと思って柄にもなく無理をして手痛い失敗をやらかし、職を棒に振るといったこともする。

 清貧さの象徴として語られる「武士は食わねど高楊枝」にしても嘘っぱちもいいとこである。人間、食べていくことも生きる目標の重要な柱だからだ。目標である以上、その最低限の達成である食えるに越したことはない状態を獲得するのが人間たる者の務めであり、人間の条件であろう。

 かつて日本の警察は優秀だとされていた。先進国の中で犯罪発生率は低く、安全な国だといわれていた。それが警察の力によってもたらされていたと信じられていたからこそ、日本の警察は優秀だとの評価を得たのだろう。しかし、現在では犯罪は多発化と凶悪化の二重の傾向を帯びているのに反して、警察の検挙率は低下の一途を辿っている。

 かつては優秀だったが、現在では優秀ではなくなったとするのは、日本人のお得意な、特に政治家が妄信している〝日本の歴史・伝統・文化〟論に反する。

 かつても日本の警察は優秀ではなかったし、現在も優秀ではない。以前の犯罪は人間関係からの犯罪が多く、そうでない犯罪が少なかったに過ぎない。人間関係犯罪は被害者の人間関係を徹底的に洗い出して辿っていけば、犯人に行き着く確率が高いから、そのことに比例して検挙率も高くなるが、加害者と被害者との間に人間関係を持たない犯罪は、目撃者がいたとか、あるいは出所が簡単に割り出せる遺留品や前科のある指紋とかが残されていなければ、辿りつく線そのものが最初からないのだから、いくら優秀な刑事を以てしても当然犯人逮捕は難しくなる。東芝府中工場からの3億円強奪事件にしても、グリコ・森永事件にしても、世田谷一家4人殺しにしても、警察庁長官狙撃事件にしても、犯人逮捕に至っていないのはそのためだろう。数多くある未解決事件のうち人間関係事件が多々含まれているとしたら、日本の警察はまるっきり無能集団と化す。

 世の中がカネに対する手段を選ばない執着が強まり、一攫千金を狙って、関係もない人間・関係もない場所を襲う犯罪が一気に増えた。そうなると、目撃者とか指紋が残されているとか、幸運に頼るしか犯罪捜査はなかなか前に進まない。「日本の警察は優秀だ」は人間関係犯罪に限った能力発揮に過ぎない幻想だったと言うことである。

 警察官自身の犯罪も多発化の一途を辿っている。個人的な強力犯罪だけではない。裏ガネづくりや捜査協力費の流用、あるい職務怠慢等は警察組織全体の構造的なものだろう。〝サムライ〟意識教育が何ら役に立っていないことの証明でもある。自己利害の生きものである人間がどう逆立ちしたってサムライ足り得ないのに、サムライという意識を植えつけようとすること自体が既に自己に対するを含めた人間の現実の姿に対する認識能力の幼稚さを示すもので、新人警察官を教育・訓導する資格は最初からない。最初からないにも関わらず、教育の役目を担う。だからこそ警察官の犯罪がなくならないとも言える。

 人間は自己利害の生きものであり、物心両面に亘る執心から離れられず、損得で人殺しもすれば、カネを盗むこともする。警察官も同じ人間なのだから、いくらでも人殺しもするし、強盗も働く。痴漢行為もするし、強姦事件を起こすかもしれない。しかし警察官と言う役目上、犯罪を犯す側に立つことは特に許されない立場にある。誘惑に負けないよう、常日頃から心していなければならない。

 そのように警察官にしても犯罪を犯す同じ人間であるという前提に立って、上司・部下共にお互いに向き合っていたなら、警察官の採用で本人の犯歴、あるいは近い親類縁者に前科のある者がいるかいないかで採用・不採用が決まる基準はそれほど意味のあるものではなくなる。そのことは警察官自身の犯罪が既に立派なまでに証明している。

 新人教育だけではなく、それ以降もそのような前提に立った人事面での危機管理を行っていたなら、警察官が役目に反する何かを仕出かしたとしても、現実に即した対応策を講じることも可能なのに、それとは逆にサムライ足りえない人間の現実に考慮を払うこともできず、君たちはサムライだ、サムライだと存在しないし、体現できないサムライ精神の一層の発揮に期待するとしたら、輪をかけた愚かしさを犯していただけのことである。

 警察は、また警察官は自らが掲げてきた「自画像(自己イメージ)」を〝歴史・伝統・文化〟的に裏切ってきた。裏切ったとしても、警察官も同じ利害の生きものであり、同じ人間としての猥雑性を一般大衆と共に所持しいるのだから、当然な姿でもある。

 〝サムライ〟教育が警察官教育に無力であるなら、〝愛国心〟教育に変えたとしても、同じ結果に陥るのは目に見えている。「国を愛する心」にしても、殆どの人間にとって自らが生きていく上での最優先条件としている自己利害の糧とはならないからである。

 学校での生徒にとっての自己利害に関わる最優先条件はテストの点を一点でも多く取ることであり、そのことは親や学校自体が仕向けている生存条件でもあるだろう。まさにそういった生存条件そのものによって、生徒への〝愛国心〟教育は「日本の警察官の自画像(自己イメージ)」がタテマエ・幻想で終わっているのと同じく、「国を愛しています」と口先の言葉で終わらせることは間違いない。偽りの人間を育成するようなものである。

 大体が政治家・官僚からして愛国心には無縁な自己利害を最優先させている生きものと化していながら、いわば彼ら自身にも役立っていない〝愛国心〟意識でありながら、〝愛国心〟を憲法に盛り込もうだとか、教育基本法に規定しようだとかすること自体が自分自身がさも愛国心を体現しているかのように欺くあくどい詐欺であり、さも体現しているかのように見せかけて、自らの存在理由を正当化しようとする狡猾な誤魔化しそのものであろう。

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