反比例関係にある愛国心教育と客観的認識能力教育

2006-05-18 06:40:29 | Weblog

 5月16日(06年)、衆院本会議で教育基本法改正案をめぐる質疑が行われた。朝日新聞から小泉首相の発言に関わる箇所を拾ってみる。

 ①「教員は法令に基づく職務上の責務として児童生徒に対
  する指導を行っているもので、思想、良心の自由の侵害
  になるものではない」と述べ、職務として「愛国心」の
  指導を行うべきだという考えを示した。
 ②「愛国心」規定については、教育現場での強制や評価に
  つながるとの批判があるが、首相の発言は教職員が「良
  心の自由の侵害」を理由に愛国心の指導を拒むことがで
  きないとの認識を示したものだ。一方で、首相は児童生
  徒については「これまでも児童生徒の内心の自由にかか
  わって評価することを求めておらず、このことは本法案
  により変わるものではない」とも語った。(『朝日』の
  別の記事から)改正後も「児童生徒の内心に立ち入って
  強制するものではない」と語った。
 ③児童生徒が学習する内容を定めた文部科学省の学習指導
  要領(道徳)では「国を愛する心を持つ」という記述が
  盛り込まれている。首相は答弁の中で「これまでも学校
  教育において実際に指導が行われているが、その重要性
  から今回、法案に明記するものだ」と説明した。法制化
  されることにより、教職員の指導に対する強制の動きが
  より広がる可能性がある。
 ④改正案が「宗教に関する一般的な教養は教育上尊重され
  なければならない」としている宗教教育について、首相
  は「宗教の役割を客観的に学ぶことは重要なことだ。国
  家神道を教育現場に復活させる意図はない」と強調した
  。
 ⑤「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからな
  る歴史的文化的な共同体としての我が国を愛すると言う
  趣旨だ。時々の政府や内閣を愛するものではない」
  小泉首相は衆院本会議でこう答弁し、「愛国心」をめ
  ぐる表現は排他的な国家主義に結びつかないと強調。法
  改正は「こどもたちを戦争へと追いやるようなものでは
  ない」とも述べた。

 ①・②番について――、改正後も「児童生徒の内心に立ち入って強制するものではな」く、「これまでも児童生徒の内心の自由にかかわって評価することを求め」ることはしてこなかったことが事実だとしても、「我が国を愛する」教育を繰返し繰返し習慣づけて慣れさせ、それを当たり前の感覚とすることで「児童生徒の内心に」抵抗感もなく受け入れさせることは可能である。となれば、「評価することを求め」る必要は元々生じない。「国を愛する」気持を一般化させるからだ。それを狙った「これまでも児童生徒の内心の自由にかかわって評価することを求め」ないであり、「児童生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と言うことなのだろう。

 そのことのどこが悪いと言う反論があるだろうが、そのことは後に述べる。

 ③番について――、「国を愛する心を持つ」教育を「これまでも学校教育において実際に指導が行われている」とするなら、具体的にその授業方法・授業内容を示すべきであろう。何の支障もなく行われていたなら、法案明記によって教育現場での強制や評価につながるとの批判や懸念は起こりようがないはずだからである。

 人が同じ人を殺す生きものでなければ、〝汝人を殺すなかれ〟と十戒の一項目に銘記する必要は生じないし、また仏教が地獄なる威しを設ける必要も生じなかっただろう。そのことの裏返しの事実としてある人を殺しもするし犯罪も犯す人間存在の実態の逆バージョンでしかない、「学校教育において実際に指導が行われてい」なかった実態へのもどかしさ・苛立ちが仕向けた法案明記ということでなければ、矛盾をきたす。

 ④番について――、宗教教育によって「国家神道を教育現場に復活させる意図はない」としているが、国をどういう姿で把えるかは個人に任されるべき選択であって、それを日本という国はこういう姿をしています、こういった伝統・文化を持っていますと一定の形をつくり与えて「愛する心を持」ってくださいと要求する。当然の経緯として「愛する心」を可能とさせるには日本の国、伝統・文化が優れているとする自尊意識(=自民族の優越性)を裏打ちさせることが必要条件となることを考えると、その行き着く先が天皇を頂点とした国家体制への希求へとつながらない保証はない。

 なぜなら天皇の存在は日本民族優越性の最大の証明装置であり、証明事項として〝万世一系〟、あるいは〝世界に例のない男系〟を絶対的な看板としているのであって、日本民族の優越性を証明したいばかりに天皇制を復活させたい衝動を抑え難く抱えている日本人が今の時代に於いても無視しがたい数で存在するのである。天皇制を成り立たせる根拠にその方法しかない神秘性を前面に打ち出すべく、戦前と同様に皇室神道を主たる土台として、それに日本人が生活の一部としているためにその精神に既に浸透させている神社神道を結びつけ、そのことによってその正統性に疑問を抱かせることなく打ち立てることができる国家神道を再び国家体制のイデオロギーとしない恐れなしとすることはできない。

 小泉首相自身もそうだが、日本の歴代総理大臣は毎年正月に伊勢神宮を参詣する。伊勢神宮は皇祖神である天照大神を主神として祀り、皇祖神であるがゆえに国家神道の頂点に位置し、戦前まで国家神道の中心施設となっていた。そこを参詣すること自体、国家神道を体現していることにならないだろうか。

 暴力団幹部が組を脱退したと言いながら、組事務所を折に触れて訪れていたら、その脱退は偽装としか受け取れない。戦後は国家神道が禁止され、消滅したと言っても、GHQの指令によってそうさせられたのであって、日本人自身が決定した禁止・消滅ではない。国家神道を精神に残している日本人が無視しがたく存在するし、戦後生まれの日本人でも国家神道を自らの思想とするに至っている者もいる。そういった精神的状況下にありながら、政治家が自分に限っては国家神道とは無関係だと言っても、証拠立てることは不可能だとタカをくくった偽装ということもある。

 天照が歴史上の実在の皇祖ではなく、神話上の架空人物だったからこそ、その絶対性・優越性を都合よく演出でき、それを受け継ぐ者としての天皇を現人神と定めることができたのであって、天皇共々そのような存在を日本民族優越性の象徴とした虚構空間に現実主義者でなければならない、あるいは合理主義者でなければ務まらない政治家が今もなお足を踏み入れている。手を合わせ拝む一体感行為でしか日本民族の優越性を実感できないからだろう。経済大国・政治後進国と言われる所以がここにある。真に日本民族が優越的であるなら、世界政治の舞台で政治を手段としてその優越的であることを証明してもらいたい。

 ⑤番について――、「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国を愛すると言う趣旨だ。時々の政府や内閣を愛するものではない」と小泉天皇は畏(かしこ)くも宣(のたま)っているが、既にここで「歴史的に形成されたきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国」とする把え方・考え方自体が疑いもなくそれらを〝善なるもの〟=誤謬なきものとする自尊意識(自民族の優越性)を背景として成り立たせている。

 大体がどこが「文化的な共同体」なんだろう。浮気は日本の文化だといみじくも言ったタレントがいたが、天下りも日本の文化でなくてはならなくなる。

 「児童生徒の内心に立ち入って強制」しなくても、〝善なるもの〟=誤謬なきものとする習慣的な植えつけ教育によって、悪く言うとそれとない洗脳によって、戦前の侵略戦争といった負の歴史やいつの時代にもあった貧富の格差、あるいは男尊女卑、在日朝鮮人差別といった各種差別、さらに「時々の政府や内閣」の国民を裏切る不正行為や犯罪行為、国民を犠牲とした無為無策や不作為といった政治の劣位・矛盾と、それらをつくり出してきた日本人の精神文化に目を閉じさせて無抵抗に受け入れる学習態度が身につき、そのような客観的認識能力に反した独善性を自らのパーソナリティとして自尊意識(自民族の優越性)と共に成長し大人となり、それが揺るぎのない確固とした主義・主張と化したとき、「『愛国心』をめぐる表現は排他的な国家主義に結びつかない」可能性は非常に危ういものとなる。

 「国を愛する」気持を一般化させることの危険性がここにある。このことを裏側から説明すると、負の歴史や国家の矛盾・社会の矛盾を、即ち日本人の愚かしい部分を〝愛国心〟教育によって巧みに隠して見えなくさせ、日本という国そのものに、あるいはその歴史・伝統・文化に優越的正統性を与える作業となることを意味する。

 日本の政治・外交が戦術はあっても戦略なしと悪評されるのは、だからこそ政治後進国にとどまっているのだが、日本人が客観的認識能力に欠けているからであって、欠けているからこそ学校教育から育みそだてなければならない客観的認識能力を〝愛国心〟教育のために犠牲とする。ますます日本人に戦略性なしと悪評される。その愚かしさにも気づくべきだろう。

 「国家主義と結びつ」く可能性の芽が無きにしも非ずとなれば、「法改正は『こどもたちを戦争へと追いや』」なくても、「国家主義」(自尊意識=自民族の優越性)を背景とした偏狭なナショナリズムの頭をいとも簡単にもたげさせて、険悪な外国敵視感情を時代風潮としない保証はなくなる。

 そんなことは杞憂だ、呉牛月に喘ぐの類いだと言うなら、「歴史的に形成されてきた国民、伝統、文化などからなる歴史的文化的な共同体としての我が国を愛する」とする授業内容を具体的に示して、それが「時々の政府や内閣を愛するものではない」こと、排他的な国家主義に結びつかないこと、「こどもたちを戦争へと追いやるようなものではない」ことなどを明確な形で証明すべきではないだろうか。こういった授業を行います。皆さんの心配は当たりませんと。

 決して自尊意識(自民族の優越性)に則った性格の授業ではないこと、どう転んでも客観的認識能力の芽を摘む授業内容ではなく、逆に客観的認識能力を強力に育む授業内容であることを証明すべきであろう。そのためには醜い姿をも曝し、観察・批判の対象としなければならない。侵略を侵出と歪曲するのは、醜い姿を隠して美しく見せようとする作為に他ならない。

 証明が成され、その証明に反論を許さない内容ということなら、〝愛国心教育〟に納得もする。

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