自民党の「教育基本法改正案」全文が06年4月29日の朝刊(朝日新聞)に記載された。問題の〝愛国心〟表現は自分の勘違いか、前文に盛り込まれるばかりと思っていたが、(教育の目標)第2条 五 「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際平和の発展に寄与する態度を養う」となっている。
「尊重」すべき「伝統と文化」とは、社会の上層に位置する政・官・財の日本人たちが時代を超えて延々と引継いできた不正私利私欲の風習を言うのだろうか。江戸時代、談合・ワイロは当り前のこととして行われてきたという。かつて「談合は江戸時代以来の美風だ」と開き直ったゼネコン幹部がいた。
利己主義は今に始まった傾向ではない。長島茂の「巨人は永遠に不滅です」ではないが、〝利己主義は永遠に不滅の命を保つ〟。愛国心教育で利己主義を断つことができると思ったら、自らの単細胞を自ら証明するようなものである。教育で〝不滅の命〟に挑むには、日本人を含んだ人間の生きて在る現実の姿を教え込むべきである。確かに懸命に働き、懸命に努力する。しかし人間に占める生の営みはそれだけではない。ウソも言い、誤魔化しもする、他人の財産や容姿、地位、才能を妬みもするし、邪な欲望も抱き、簡単に犯罪に手を染めもするし、楽してカネを儲けようとしがちであるし、手に入るカネが励みで、それが人生の目標となるといったこともある。
そういった誰もがそうならないとは限らないし、そうなりがちな人間の姿というものを現実の人間の生きざまを教材として教え(政治家・官僚の日常的な生態をほんのチョット取上げただけで教材に事欠かないはずである)、そうならないことの戒めとする。それでも利己主義はなくならないし、犯罪がこの世から消滅することはないだろう。政治家・官僚の私利私欲行為の蔓延に幕を降ろすこともないに違いない。
だが、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」との文言で表現されている「伝統と文化」、あるいは「我が国と郷土」に優れた価値を与える美しい包装紙は、その存在が事実だとしても、かえって人間の現実の姿、人間の常に美しいとは限らない営みを包み隠すこととなり、自己を含めた人間の現実の姿に対する客観的な認識能力を鈍らせて、自分がしていることへの自覚(客観的自己覚知=自分を見つめる目)を麻痺させる。
鈍らせ、麻痺した状態が、現在の政治家・官僚の恥じることのない私利私欲行為の蔓延や自らの職務に反する無為無策の数々、教育する立場にある者の姿にもとる教師のワイセツ行為や万引き行為の跡を絶たない光景、あるいは取締る立場の警察官の職務上からも人間としても責任を忘れた各種不正行為や犯罪行為の横行等々の露出を可能とさせているのだろう。自己を見つめる目を元々持たないからこそ、社会的なあるべき姿と自己の現在の姿との乖離に無神経・無頓着でいられるからだ。
「伝統と文化」、あるいは「我が国と郷土」といった美しい包装紙で人間の現実の姿を包む程に人間は自己の姿への自覚(自分を見つめる目)が遠のく危険性が生じる。その最も過剰包装した状態がかつての日本人優越論であり、日本民族優越意識であって、今も尾を引いて抱えている。日本人優越論・日本民族優越意識を絶対としたら、いつ如何なる時代の日本の社会にあっても犯罪は存在しなかっただろうし、貧富の格差も存在しなかったはずである。政治家・官僚の不正行為も勿論のこと未経験としていたことだろう。社会の矛盾とはどのようなものか知らない人間であり得たであろうし、知らない民族であり得ただろう。
ところが犯罪も貧富の格差も政治家・官僚の不正行為も、様々な社会の矛盾がいつの時代も、いつの社会も無視できない状態にありながら、日本人優越論・日本民族優越意識に浸っていたのだから、如何に日本人は日本人自身を見る目がなかったか、証明して余りある。日本人は合理的精神に欠けると言われること自体が客観的認識能力の欠如を物語っている。戦争中の例で言えば、対B29戦闘爆撃機竹槍武器がそのいい例だろう。
いくら「伝統と文化」が優れているとしても、いくら「我が国と郷土」が美しいとしても、人間は常に美しい姿を取らない。いや、取らないことの方が多い。それを教えずに、結果的に隠して優れているとするだけで、あるいは美しいとするだけで人間の現実の姿を逆説的に見えにくくしたとき、社会の上層に位置して国民を支配する立場の人間にとっては自分たちの薄汚い犯罪行為・乞食行為、あるいは無能力を隠すことになって好都合ではあるが、常に美しくはなれない姿を「伝統と文化」の名のもと、あるいは「我が国と郷土を愛する」という口実のもと、一般国民にのみ美しい姿を求める強制を行うこととなった場合、それは既に全体主義意志の表れを示すものだろう。一般国民共々自分たちにとっても架空である姿を国民にのみ求める不公平で恥知らずな思い上がりが強制を必然とさせるからだ。既にその一歩が教育基本法の銘記に現れている。