06年5月27日の朝日新聞夕刊に次のような記事が載っていた。全文を引用してみる。
「窓 論説委員質から 小沢氏の『自立と共生』」
「『共生』というキーワードを民主党の小沢一郎代表が強調している。党機関紙『プレス民主』の菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長との鼎談では、こう語っている。
『ここが自民党とは違うというものを見せる。理念として「共生」を掲げ、すべての面での筋の通った「公正な国」を目指して、新しい日本の設計図をきちんと示す』
ふと引っかかった。小沢氏と言えば『共生』より『自立』志向ではなかったか。
『個人の自立』『地方の自立』『国家としての自立』・・・・。自立は小沢氏が93年、自民党を離党する直前に出版した『日本改造計画』の決めゼリフだった。
自立と共生が並ぶようになったのは新生党の理念からだ。翌年、野党勢力を糾合した新進党の理念では『自由・公正・友愛・共生』とキーワードは一気に増えた。
新自由主義的な色彩が濃い自立だけでは幅広い結集は難しい。中道・左派も馴染みやすい共生などが加わっていったのは自然の流れだったのだろう。
だが、自立の旗印は小泉首相に奪われ、格差批判を浴びてもいる。ここは自論である自立より、共生に軸足を置くべきタイミングだ――。小沢氏の最近の発言からは、そんな計算が感じられる。
民主党の理念は『自立した個人が共生する社会』をめざす、と玉虫色だ。
ブレのなさが身上の小沢氏である。小泉流『自立』改革と、小沢流『共生』改革とはどこが、どう違うのか。鮮やかな説明を期待したい。(恵村順一郎)」 * * * * * * * *
どうも言っていることが分からない。「共生」と「自立」――両者が相容れない関係、対立する関係にあるかのような主張となっている。
「新自由主義的な色彩が濃い」言葉かどうか知らないが、「共生」とはそれぞれが自立(もしくは自律)した人間を基盤としなければ正当性を得ることができない世界なのではないか。裏返して言うなら、自立(自律)した人間を基盤としてこそ、「共生」は正当性ある一個の世界として確たる姿を取るのではないか。
自立(自律)の反対を成す語は「依存」、もしくは「被支配」であろう。「依存」は「他のものに頼って成立・存在すること」と辞書(『大辞林』・三省堂)に出ている。「被支配」は言うまでもなく支配されている状態を言う。人間は他者に依存することによっても、支配される状況をつくり出し、そのような関係で「共生」を可能とし得る。しかしそのような「共生」に正当性を与えることができるのだろうか。
例えば官庁と企業の取引上のいわゆる〝官民談合〟は、企業が官庁に依存し、依存することで官庁に支配された状態の共生関係にあると言える。決して官庁・企業共に自立(自律)した関係下の「共生」とは言えない。
政官財の癒着と言われる状況も、〝財〟の被支配を基準とした相互依存に立脚した自立(自律)なき共生であろう。かつての護送船団方式といわれた日本の産業政策も、政・官の特定産業の保護とその保護に依存した〝共生〟であった。それが馴れ合いに近い色彩を抱えていたから、官が暗に仄めかせば、高級クラブ・高級料亭、あるいはゴルフに接待しなけれがならなくなり、世間には隠しておきたい保護を求めるときは政にヤミ献金を献じたりしなければならなくなる。
現在どれ程に自立(自律)できているか疑わしい限りである。低所得者の犠牲の上に成り立たせたゼロ金利政策、金融機関に対する公的資金注入等々、何かというと、保護政策が優先する。
いわば「共生」は「自立(自律)」を条件としなければならないことを証明している。決して相容れない関係にあるわけではない。相互に「自立(自律)」していてこそ、「共生」は小沢一郎の言葉を一部借用して説明するなら、「すべての面での筋の通った『公正』」さを獲得する条件を整え可能となり、正当性を求めることができると言える。
「『個人の自立』『地方の自立』『国家としての自立』」が小沢氏が「自民党を離党する直前に出版した『日本改造計画』の決めゼリフだった」状況、そして現在民主党新代表として「自立した個人が共生する社会」を党の実現すべき理念に掲げている状況、「格差批判を浴びて」はいるものの、「自立の旗印は小泉首相に奪われ」、小泉首相の総合的理念となっているそれぞれの状況は、日本、あるいは日本人が様々な局面で自立(自律)していない状況、あるいは自立(自律)できていない、そうと認めざるを得ない状況を図らずも暴露する動きとして現れたそれぞれのシーンであり、その是正として「自立」を政策理念に掲げる必要が生じたということを物語るものだろう。
ではなぜ日本人は自立(自律)できていないかと言うと、自立(自律)を否定要素とし、反対状況の「依存」・「被支配」を肯定要素としている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の存在様式(そのような態様の主たる一つである政・官が民を従わせ、民が政・官に従う存在様式)に日本人の多くが縛られているからに他ならない。
裏返して言うなら、日本人それぞれが「自立(自律)」を獲得するためには、まずは以て権威主義的存在様式から離れなければならない。
しかし日本人が歴史・伝統・文化とし、優れた民族性そのものとしている存在様式である。その血を薄めるには簡単な作業ではない。〝民族改造〟とも言える難事業であろう。小沢一郎の『日本改造計画』を読んでいないから分からないが、基本的には日本人の存在様式である権威主義性を打破する内容でなければ、真の自立(自律)獲得は難しく、さして意味はない。
権威主義の打破は大人への成長を形作る役目を担っている学校社会で知識の授受を下に従わせる形式でもって権威主義的思考様式を日々刷り込んでいる暗記教育を排して、その代わりに生徒が教師に対しても、同級生や上級生に対しても、自由に自分の意見を述べることができ、お互いの意見を闘わす習慣を身につけさせる授業形式を採用することから、長い時間をかける覚悟で地道に始めるしかないのではないだろうか。
自由な意見の述べ合い、自由な言葉の闘わせが、例え相手が教師、あるいはその他の目上の人間であっても、上級生であっても、それぞれを相互に対等な立場に置く。対等な立場の構築こそが、上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的な存在様式の排除・否定につながっていく。地方役人が中央省庁に赴いたときの中央省庁の役人にペコペコと頭を下げる習性・慣行は対等な立場を築けていない状況、それとは正反対の上下・優劣の権威主義的態度を当たり前としている状況を示すもので、如何に日本人の血に権威主義が染み付いているかを証拠立てる光景であろう。まさしく道遠しである。