英語必修化是非論に見るズレ

2006-05-23 06:55:41 | Weblog

 『きょうの論点・小学校から英語を必修?』(06・4・24『朝日』朝刊)なる記事の中の「文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の外国語専門部会が、小学校5年から週1時間程度の英語を必修化する必要があるとの提言を纏めた。国際化時代の英語教育は如何にあるべきか」との問いかけに、国際教養大学長・中嶋嶺雄氏が賛成の立場から、同時通訳者の経験がある鳥飼玖美子立教大教授が反対の立場から述べている。同時通訳の経験があるのだから、賛成の立場かと思ったが、反対とは意外である。

 最初に断っておくと、私自身は大いに賛成である。但し、「必修化」しても、今まで同様に話せない・使えない英語で終わるだろうと予想している。〝話せない・使えない〟は何も英語に限ったことではなく、英語ほどではないにしても国語・数学・社会・歴史、すべての科目に亘って、そこそこのコマ切れ知識、あるいはテレビのクイズ番組の解答に役立つ程度の知識は身につけるが、人間営為に関わる出来事についてそれぞれに独自の考えを創るところまでいかなければ、ある意味、〝話せない・使えない〟と同じ状態と言える。

 徳川時代は何代続いたとか、鎖国政策を取っていたとかはコマ切れ知識に過ぎず、考えとは言えない。

 中嶋嶺雄氏は、英語を「地球規模の意思伝達手段」と位置づけ、英語を話せるようになって、「多くの子どもたち」に「『地球市民』としての発信力」をつけてもらいたいとしている。

 「地球規模」とは大袈裟に過ぎる感がしないでもない。また、英語を話せるようになることと「地球市民」としての資格を得ることとは全然別個の問題であろう。住民票を届ければその資格を獲得できるといった行政的な区分けによる〝市民〟とは違って、「地球市民」とは高度に文化的・道徳的意味合いを持った抽象的な存在形態であるはずだからだ。つまり、英語で情報を発信したからといって、即「地球市民としての発信」とするわけにはいかない。

 私自身は世界共通語を設けるとしたら、英語が近道と言う単純な理由で賛成しているに過ぎない。英語が世界共通語として殆どの国から認知されたとしても、英語を話す人間が「地球市民」としての感性・哲学を自分のモノとしていなければ、どのような情報も「地球市民」のレベルからの「発信」とはなりようがない。中には英語が話せるようになって、海外に買春に行っても、女を選ぶにも値段を交渉するにも何一つ不自由しなくなった、便利なもんだといった人間も結構大勢いるだろう。買春するしないは本人の自由だが、そのような人間が「地球市民」の数に入るのだろうか。私自身にしても「地球市民」のうちに入りたいとは思わない。一個の俗物で十分である。カネがあれば、海外に買春に出かけかねない人間だからである。

 勝手な解釈と誤解されないように、新聞に書いてあるとおりの中嶋嶺雄氏の言葉を書き写しておく。

 ――「開国か鎖国か。それに近い激論が起こる要素が、この問題にはある。小学校の英語教育に賛成の私は、開国論をとりたい。
 90年代初めに冷戦体制が崩れ、ここ15年の世界の変化はすさまじい。今後もさらに変わるだろう。そんななか、『地球市民』としての発信力をつけなければならぬ多くの子どもたちを、鎖国時代的な状況に閉じ込めておいていいのか」――

 何とも大仰な把え方である。

 また中嶋嶺雄氏は、「『ジェスチャー(gesture)』という英語。これを知っていても、『身振り手振り』という立派な日本語を今の子供は殆ど使わない。それが『ジェスチャー』を元に『身振り手振り』を教えることで日本語をよみがえらせることもできる」との事例を挙げて、「英語教育を通じて異文化を紹介することで逆に日本文化の素晴しさを教えられる」ことの可能性を説いている。

 英単語を使うことで日本語として用を足せるほどに流布しているなら、既に不都合もなく日本語化していることを示すものであろう。元々の日本語が死語となっていたとしても、生きものとしての言葉が何らかの社会的、あるいは時代的な利便性を受けて変化した日本語化であって、何も無理して「よみがえらせる」こともなく、そのことを英語必修化の理由の一つとするのはどこかズレを感じる。

 また「異文化を紹介することで逆に日本文化の素晴しさを教えられる」は聞こえのいい可能性だが、「小学校5年」以上を対象に「週1時間程度の英語」必修化の是非を話をしているのである、そこまでいくのだろうか。そのことを英語で教えて、小学生に理解させることができるなら結構な可能性だが、日本語で教えなければならないなら、そのことに力を入れすぎると、英語の授業から離れて、日本語の授業になってしまう。文科省のマニュアルに指示事項として書き入れてあろうものなら、実現できなければ英語教育失格の烙印を押されることを恐れて、日本全国一律に右へ倣えして、日本語の授業なのか、英語の授業なのかどっちつかずにならないとも限らない。

 習慣や文化は人それぞれがどう感受するかにかかっている。それぞれの判断に任せるべきで、任せずに「素晴しい」と教え、無条件に「素晴しい」と受け止める知識の授受を形式とした場合、客観的認識能力を排除して優越意識だけを育むことになりかねない優劣で価値判断する偏向を生じさせる恐れが無きにしも非ずとなる。

 また中嶋嶺雄氏は、「国語力さえ落ちているのになぜ英語か、と言う意見がある。では、国語の時間を増やせば国語力がつくのか。国語力の衰退は、言葉に対する日本社会全体の認識や、感性の低下による点が大きい。原因の一つにテレビの俗悪番組の影響もあると思う」と述べているが、「国語の時間を増やせば国語力がつく」状況にないとなれば、「小学校5年」からの必修化で英語の「時間を増や」したとしても、英語力がつくはずはなく、自らの賛成論の展開と矛盾を犯している。

 英語の理解は国語(=日本語)の支えがあって初めて機能する。例え英語の授業で日本語禁止となっていても、頭の中では日本語で対応している。英語で対応できるようになるまでには余程の時間が必要だろう。

 中嶋嶺雄氏はこうも言っている。「問題は中学から大学まで10年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育にある。時間と労力の膨大な無駄を繰返している。この立て直しこそ国家百年の計と思う。それには早期教育の一環としての学習が必要で、中学からでは遅い」

 「従来の英語教育」の「立て直しこそ国家百年の計」で、その解決策が「早期教育の一環としての学習が必要で、中学からでは遅い」とする論理に整合性を見い出すことができない。「10年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育」のどこに問題があったか、その問題点の解明とその具体的な解決策の発見がなくては、例え幼稚園・保育園から英語を必修化させたとしても、何「年間習っても大半が身につかない、従来の英語教育」を繰返すだけで終わるだろう。

 〝話せない・使えない〟は英語だけの問題ではないと指摘したが、すべての科目ということなら、原因は暗記教育にあるのは自明のことであろう。テストの点数を上げることには力を発揮するが、暗記教育は自分の考えを入れたり、あるいは考えを発展させたり、他人の考えと自分の考えを比較・検討したりすることで得ることのできる知の喜びはそこにはなく、単にテストの点を取ったという即物的な喜びしかない。だから習慣的な営為と化す。勉強してテストの点を取り、また次の段階のテストのために勉強して点を取るという繰返しを習慣とする。そこに成績の発展、学歴の発展以外に人間性に関わるどのような発展があるのだろうか。

 最後に中嶋嶺雄氏は「文科省が教育方針を変えるたびに現場が混乱するという指摘がある。しかし、英語の必修化は、日本が国際文化国家として生きていくために不可欠な、国家のあり方にかかわる問題だ。過去の『揺れ』とは同列には扱えない大きな歴史的選択なのだ。そのための条件整備には万全を尽くしたい」と言い、結んでいる。

 大学の学長ともなると、地位に応じて物言いも大上段に構えることになるのか、「国際文化国家」だ、「大きな歴史的選択」だと言うことのスケールが大きくなるらしい。

 英語が話せる日本人が大半を占めることになったとしても「日本が国際文化国家」となれるわけのものではない。「文化国家」は英語が話せることを基準として規定されるものではなく、そこに住む大半の人間が道徳の面、教養の面で文化的でなければ、「文化国家」の体裁を持ち得ない。いくらモノづくりの技術が優れていても、政治家・官僚が代表者の地位を占め、企業的に社会の上層を占める人間が続いているが、人間が道徳的・精神的に程度が低く仕上がっていたら、とても「文化国家」とはいえない。

 このように中嶋嶺雄氏の英語必修化の賛成論の論拠を見てくると、素朴に詰めていけば済むと思うのに、大きく構えすぎて、そのような文言が学習指導要領にそのまま盛り込まれた場合、形式だけ大袈裟なものとなって却って現場を混乱させるのではないかという心配から反対の立場に席を移したくなる

 次に同時通訳者であったという立教大教授の鳥飼玖美子氏の反対論を順を追って独断と偏見を恐れずに俯瞰してみると――、

 まず次のように始めている。「提言を読むと、小学校の英語教育の目標は、ALT(外国語指導助手)を中心とした外国人との交流を通して、音声やスキル(技能)より、国際コミュニケーションをより重視することを基本にする、としている。
 『コミュニケーション』と簡単に言うけれど。実は大変なことです。それは人間同士が思考と論理を言葉に乗せてぶつかり合うことで、相手の言い分を聞いた上で、自分の主張を相手に分かってもらう。反論に応え、持論を展開し、理解しあう相互作用です」

 「国際コミュニケーションをより重視する」――。中嶋嶺雄氏の「国際文化国家」だ、「大きな歴史的選択」だと同じで、中央教育審議会・外国語専門部会にしても、どうも偉い人たちは物事を仰々しく把えなければならないと決めてかかっているようだ。それをバカッ正直にまともに受けて、鳥飼玖美子氏も仰々しく応じている。

 小学校5・6年生を対象とした週1時間、月4時間程度の英語必修化に望むべくもない事柄を中央教育審議会・外国語専門部会は望み、鳥飼玖美子氏はその不可能性をムキになって論じている。例え将来的な期待事項だとして、早期に英語勉強を始めて、大学で一般的に英語を話せるようになったとしても、「国際コミュニケーション」を可能とするためには英語で話そうと日本語で話そうと、それ相応の知識と教養に裏打ちされた高度の内容を備えていなければならない。それを育むとしたら、英語授業にとどまらず、教育全般に関する問題となる。尤も英語で外国人と話したら、それを以て即「国際コミュニケーション」だとするなら話は別である。

 鳥飼玖美子氏は反対論の根拠の一つとして、「今日の日本は、大人ですら隣人や見知らぬ人との会話が満足にできない状況にある。母語で考える力、生きる力をつけること。それこそ、小学校という人間の根っこをつくる時期に、英語を教えることより大事だと思う」と述べているが、そのことと週に1時間程度英語を必修させることとは別個の問題であろう。中嶋嶺雄氏の「10年間習っても大半が身につかない」英語と同じで、「会話が満足にできない状況」はそれ自体として把えるべき問題である。いわば「母語で考える力、生きる力をつけること」ができていない日本の教育そのものの問題であり、現在のテスト教育・暗記教育のままでいいというなら話は別だが、問題点としたことが解決できなければ、英語必修化も含めて一切合財が前に進まない。

 要は日本の教師にとって、教科書の内容をなぞり、それを生徒に暗記させてテストの回答に当てはめさせる暗記教育(=なぞり教育)がロボットに代用させることができるくらいに機械的にできて楽で、「母語で考える力、生きる力をつける」教育は難しくて手に余るというだけの話であり、その結果としてある風景に過ぎない。このことは教師自身が暗記教育で育ったからに他ならない。

 鳥飼玖美子氏はさらに続けて「中教審部会の提言を読んでも、これから具体的にどうするかが見えてこない。一番大きな問題は、英語を教える教員をどうするのか。ALT (外国語指導助手)を増やすことなどを提言しているが、英語が母語と言うだけで教育なんかできない。さらに、英語を必修にすることで有形無形の圧力が子どもにかかること、英語優先主義の誤った刷り込みの可能性が排除できないことを私は危惧する。それよりは、国語教師と協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と言っているが、言っていること自体の矛盾に気づいていない。

 国語教師が国語の授業で「母語で考える力、生きる力をつける」教育ができていないのに、その前提を無視して、「協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と提案しているのである。

 勿論「母語で考える力、生きる力をつける」教育を担うのは国語教師だけの任務ではなく、日本語で話すすべての教科の教師、さらに生徒と会話を交わすすべての大人が(親を筆頭に授業を受け持たなくても、朝礼とかで話をする校長・教頭、入学式や卒業式で来賓として話す市長や議員、教育委員会の面々も含めて)担うべき事柄である。大人たちが日常普段の会話を通して「考える力、生きる力をつける」に役立つ内容ある情報を発信し得ていたなら、生徒に自然と伝わって、知らず知らずのうちに蓄積されていくものである。口先だけの偉そうな話からは退屈や軽蔑を誘うだけで、それ以外には何も伝わらない。

 鳥飼玖美子氏の次の主張となると、感情的反応としか言いようがない。「グローバル化というけれど、今日、人々が国境を越えて自由に動き回ることによって、世界は他文化主義になっている。グローバル・スタンダードから自分たちの文化や言語を守ろうと、としている人々もたくさんいる。多様であるからこそ世界なのであり、どこに行っても同じようになったら、海外旅行など面白くもなんともない。」

 「多文化主義」に進む進まないも、あるいは「グローバル・スタンダード」を受け入れる受け入れないも、それぞれの人間の「文化」にかかっていて、英語を世界共通語とすることと関係ないことであろう。それぞれの国の経済が発展して主要都市にビルが建ち並び、風景が欧米化し、どこの国の都市か見分けがつかなくなる状況は民族服を脱ぎ、背広を着てズボンを穿く習慣と連動するもので、やはり英語の世界共通語化とは関係ない別種の機能性を原因とした表面的な変化に過ぎないのではないか。日本人が着物を脱ぎ、背広を着ズボンを穿いたからといって、日本人が血とし、肉としている「根っこ」の行動様式・思考様式は簡単に変わるわけのものではない。

 英語が世界共通語となったことで「人間の根っこ」が「どこに行っても同じようにな」ったとしたら、その程度に脆い「多文化主義」を抱えていたに過ぎないことを証明するだけの話である。誰かが心配して、防げると言う問題ではない。

 最後に「『国際人』とは何か。それは『向こう三軒両隣』と言うように、お隣さんとのお付き合いから始まる。例えば小学校のある地域に住むブラジル人や中東からの人たちと接して、世界の多様さを体験する。そうしたことこそ大事なことで、英語は中学からでも十分できる」と結んでいる。

 譬え話だとしても、言っていることが無茶苦茶である。すべての生徒に望むことのできる「体験」であるなら、成立する譬え話だが、そうではない。日本人タレントがブラジルのアマゾンを旅行するテレビ番組でワニを食べたり、あるいは大ナマズと格闘して捕獲したりを見て、へーえ、こんなこともあるんだと感心したり、印象に刻み込んだりしたとしたら、それだけで無意識下に「世界の多様さ」を間接「体験」していることになる。そのことが「考える力、生きる力」となって役立つことになるかどうかは、日常普段の関係する人間・その他の人事から発信される情報の質と、それを受け止めるその子の感受性に関わる問題であろう。チャンネル選びにしても、感受性が決め手となる。

 「世界の多様さを体験」するためにわざわざ「地域に住むブラジル人や中東からの人たちと接」する機会を作ること自体がどこか見当違いで、相手がつまる人間かつまらない人間かによっても受ける影響に違いが生じて、体験できると保証できるわけのものではない。

 「国語教師と協働で『言葉(コミュニケーション)』の教育ができないか」と提案しているが、考えられる方法に〝朗読劇〟を挙げることができる。教師と生徒が〝言葉を獲得する〟方法(いわゆる「国語力の育み」)として私自身のHP「第49弾  雑感AREKORE part9」の「有田芳生氏の『テレビ、乳児から見せて大丈夫か』を批判する」(2002.1.15・火曜日アップロード)で既に提案しているが、興味のある人は覗いてみてください。

 HPで提案した方法と少し違うが、まず国語の授業で1クラスすべての生徒を適宜グループ分けして、各グループに小学校5・6年生のレベルにあった舞台劇を素材に朗読劇として演じさせる。勿論最初は台本を見ながら朗読する。教師は演技や劇の内容、言葉の意味などの説明、解釈、役づくり、すべてに亘って生徒を交えて議論し合っていく。あるいは作品の時代、作者の生きた社会・時代等も議論の対象とする。それぞれの議論が教師・生徒双方の〝考え〟を創り、発展させていく。また各グループの朗読劇を比較検討し、批評しあう。批評には別の議論を伴う。

 回数を重ねるごとに生徒の劇に対する解釈は深まっていくはずだし、各グループが同じ劇を朗読することで、それぞれの解釈の違いが微妙に反映することで生じる演技の違いが対人感受性の勉強にもなる。生徒それぞれが上達に違いはあるものの、朗読を高めていく過程で、台本を見なくても朗読できるようになり、台本を手から離すことができたなら、実際の舞台劇のように、自然と身振り手振りが出てくるはずである。顔の表情もシーンに合わせてつくっていく。

 国語の授業での朗読劇がある程度進行したなら、今度は同じ朗読劇の英語版を使って、英語で朗読劇を演ずる。既に国語の授業で意味の解釈、役づくりなどが先行しているから、後は英語で朗読するだけであるが、やはり最初は台本を見ながらだから、英語を使ってイントネーションをどう変化させるか、感情をどう込めるかに意識を集中すればいい。楽しみながらできるのではないだろうか。回数を重ね、上達させていく過程で、英語のセリフそのものを暗記し、自由に話せるようになる。それが会話に役に立たないはずはない。朗読劇向けの発音の指導には外国人のALT(外国語指導助手)が必要であろう。

 演ずることの楽しさは本能的なものとして誰もが抱えているはずだから、後は最初の恥ずかしさを克服しさえすれば、上達を励みとして夢中になっていけるのではないだろうか。そのためには教師のよき指導と生徒同士の励ましが必要なのは言うまでもない。

 HPでは「朗読劇は成績の良い子を特定して演じさせるものであったなら、人間に関わる感受性の育みは限られた生徒にのみ片寄ることになる。クラスのすべての生徒に平等な資格と平等な機会を与える形での参加としなければならない。平等な資格と平等な機会を与えるとは、劇中のヒーロー・ヒロインを特定の生徒に振り分け、いいとこ取りをさせるのではなく、すべての生徒がヒーロー・ヒロインを演じ、同時に端役・脇役を演じるということである」と断っているが、すべての生徒に分け隔てなくヒーロー・ヒロインを交代で演じる方法が最善だと思う。

 この国語と英語の授業での〝平行朗読劇〟を中学・高校でも行う。「10年間習っても大半が身につかない」英語の現状、〝話せない・使えない〟英語授業の未消化は相当に改善されるのではないだろうか。なぜなら、朗読劇に喜びを覚えたら、英語で書いてある他の舞台劇の台本等を自分から手に入れて読む生徒が必ず出てくることが予想されるからである。

 また議論の習慣が英語のみではない〝離せない・使えない〟教育状況の解消を他の科目にまで広げていくキッカケとなると信じている。

コメント (2)
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