日本のインド接近から窺う日本民族優越意識

2006-05-12 08:34:50 | Weblog

 朝日新聞のアジアネットワーク欄にインド人女性記者(なかなかの美人)東京特派員が、『インド 日本に期待する三つの役割』という記事(06.4.22.朝刊)を寄せている。

 インドの国会議員がこのほど日本を訪れ、日本の政財界と広く意見を交わしたが、インドが日本に期待する役割は、急増する電力需要に応えるエネルギー技術、インフラ建設、高齢化する日本の労働市場へのインドの若者の受入れだそうだ:

 但し「日本がインドを単なる経済拠点としてのみ見て、対等なパートナー関係を築く視点に欠け」ていることと、「日本がインドに急接近を図っている裏に、関係が悪化している中国に対する対抗軸としてインドをとらえている」ことが日本の利益だけを考えた関係志向から出ていることで、そういった思惑は外れるだろうと議員たちが見ていてることを紹介している。

 インドが〝対中カード〟足りえない理由として、「かつては戦火を交えた間柄だが、対中貿易は日本との貿易の4倍にも膨れている」ことを指摘している。いわば、インドにとっては日本との関係はこれから大切だが、インドは既に中国と大切な関係に入っている。日本と関係を深めることで中国との関係を損なうわけにはいかない。あるいは、インドの中国との関係を日本との関係と交換するわけにはいかない=対中カードとなるような政策に組みするわけにはいかないということなのだろう。

 日本のインドに対する民間投資に関しても、「政府の『ODA頼り』という従来の手法を変える必要がある」と議員たちは指摘して、「欧米などからの投資が増加し強力な産業基盤が生まれているインド市場では、自らリスクをとって競争するのでなくては生きていけないと議員たちはアドバイス」していると伝えている。

 「アドバイス」の裏を返すなら、日本の民間企業が日本政府のODAや円借款事業で官の後ろについいく形で国外事業を展開し、利益を上げる官頼りの権益構造によって企業規模を拡大してきたことを示すものだろう。だが、この官頼りの構造は国内に於いても同じで、国内の官民一体体制を国外にも持ち出したに過ぎない。とにかく護送船団方式といわれた官による民保護の産業政策、あるいは官との談合で相互保身を図ってきた伝統的体質なのである。

 さらに言えば、この伝統は国営企業を安いカネで民間に払い下げることで日本の産業を育成してきた明治以降の殖産興業政策を出発点としていて、現在に至っても日本人の身体に染み付いている官依存体質を内容としているのは言うまでもない。
 
 問題は、「対等なパートナー関係を築く視点に欠け」ているという指摘と共に、「相互の理解と尊敬に基づく関係を築こうとするとき、日本の伝統とも言える閉鎖的な外国人受入れ態勢や指導的位置からの排除が障害になる」という指摘である。

 「対等なパートナー」意識の欠如も「閉鎖的な外国人受け入れ」体質も、「指導的位置からの排除」姿勢(日系企業の現地社員の低い登用率、あるいは国内日本企業の外国人登用率の低さ)も、〝差別意識〟が下地とならなければ反映不可能な構図であろう。

 これらの場合の〝差別〟とは言うまでもなく「自己を優越的位置に置き、他者をそれより低く見る」ことによって成り立たせることができる。極端に走った場合は劣る者と見る。

「自己を優越的位置に置く」意識の根拠はいうまでもなく日本民族優越意識以外に想定不可能である。他に何を根拠とすることができるだろうか。まさか日本国憲法の前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって」とか、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と言った文言を根拠として日本民族優越意識をバラ撒いているわけではあるまい。

 日本民族優越意識が実体のない自惚れ・思い上がりの類いでしかないのは、その優越性を言うからには〝比較優位〟を条件としてはならず、〝絶対優位〟を以てして初めて成り立つ意識であるにも関わらず、対外的には白人種にコンプレックスを持つことによって、その絶対性・優越性に自ら綻びをつくって相対的位置に貶め、国内的には男尊女卑思想で同じ日本人でありながら女性を一段低く置く品分けを行うことで、やはり自己(日本人男性)を比較対照的に優秀であるとする絶対性への裏切りが明確に証明している。

 日本人を優秀であるとするなら、相手が白人種であろうとなかろうと、日本民族は優秀であるとし、それは男・女に関係なく同等に優秀であるとしなければ整合性を持ち得ない。

 実際行動で証明することができないからこそ、その矛盾を覆い隠して絶対性を象徴的・精神的に証明する装置として、〝世界に例のない男系〟だとか〝万世一系〟とかを根拠とした、それらが形式でしかないにも関わらず、天皇という存在を頭上に押し戴いて、日本民族優越性の代名詞とし、さらに「国に殉じる」という国家への犠牲・貢献に至高性と絶対性を持たせて、それを日本が優越国家であることの証明とすべく、現実に「殉じる」ことによって国家への犠牲・貢献を表現した者を祀る靖国神社を必要とし、至高性と絶対性に共鳴する一人であると同時にその精神を自ら体現する優越民族の一人としてそこに参拝する。

 いわば靖国神社は日本民族優越意識を表現する絶対空間となっている。

 そういった日本人が意識下に抱えている優越心がインドとの関係でも障害となる形で否応もなしに現れているということではないか。

 記事の最後は、「アジアが統合と共同の市場、通貨を目指して模索している今日、インドとの関係構築は日本にとって大きな挑戦課題になっている」と結んでいる。

 そう、インドとの関係構築が単なる経済関係で終わったり、中国との関係を〝比較下位〟に貶めたりする「挑戦課題」となってはならないという指摘であろう。

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