(最終部分、少し書き直しました)
民主党が自民党教育基本法改正案の対案を纏めた。「焦点の愛国心表記については『日本を愛する心を涵養(かんよう)する』という表現を盛り込み、『国』という表現は避けた」(毎日新聞)と言うことである。
同じ毎日新聞の記事から以下の経緯をたどると、「愛する対象を『国』ではなく『日本』とした理由について、鳩山氏は記者会見で『「国」というと政治機構が予想される恐れが消えないが、(日本という)名前を書き入れることで、その恐れも消える』と説明した」
また、「条文ではなく、理念をうたう前文に位置付けたことに加え、自然に養い育てる意味の『涵養』という表現を用い、教育現場での押しつけにつながらない『工夫』(鳩山由紀夫幹事長)を施したとしている。」
「小沢一郎代表は9日の記者会見で、愛国心について『愛国心や愛するということを字面に並べても、本当の意味で国を愛する気持ちが起こるものではない』と指摘。『国民の中に、郷土を愛し国を愛する気持ちが生まれるような社会を作るためにどうすればいいのかを考えるのが大事だ』と述べ、愛国心の明記に否定的な考えを示していた。対案策定にはこうした小沢氏の意向も反映している」
「『日本を愛する心』の部分は、与党間協議の過程で自民党が公明党に譲歩して取り下げたとされる文案と同一。自民党保守派内の不満に火を付ける形で与党揺さぶりの材料ともしたい考えだ。」
「愛国心表記をめぐっては、同党内でも日教組を支持母体とする参院議員を中心に『愛国思想の強制につながる』との慎重論が根強かった。しかし『涵養という表現は強制という言葉とは相いれない』との座長説明に『思想・信条の自由が確保されるなら愛国心そのものが悪いわけではない』(平岡秀夫衆院議員)などとして、慎重派も了承した」
次に<前文要旨>を同じ毎日新聞から転載してみると、
「我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に共生の精神を醸成することである。
我々が目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義を愛し、美しいものを美しいと感ずる心をはぐくみ、創造性に富んだ、人格の向上発展を目指す人間の育成である。
さらに、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯で取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成である。
日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い、子孫に想(おも)いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」
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まず「愛国心表記」に関する経緯だけを見ると、鳩山幹事長の説明として、「国を愛する」とすると、「政治機構」が対象となる恐れが生じるが、「日本」だと、その「恐れが消える」だとか、「条文ではなく、理念をうたう前文に位置付けたこと」と「涵養」なる表現は「教育現場での押しつけにつながらない『工夫』だとか言っているが、そんなことは解釈次第、運用次第でどうにもなる。日本国憲法でさえ、解釈の運用で禁止しているはずの「陸海空軍その他の戦力は、これを保持」するに至っている。
自治体の長や教育委員長、あるいは各学校の校長といった上に位置する人間が「『日本』とは『天皇も国家権力もすべて含めた日本という国全体』を指さずに何を指す」と言い始めたら、あるいは個々の人間による上からの指示ではなく、時代の風潮がそう受止める勢いを持ったとき、解釈次第、運用次第で、「工夫」はいともたやすくいくらでも別の「工夫」へと走る。
問題はそういった〝言葉の使い方〟、悪く言うと、〝言葉いじり〟ではなく、また「政治機構」を対象としているか否かといったことでもなく、「日本を愛する」、あるいは「国を愛する」教育(=評価要求)が、少なくとも日本に於いては否応もなしに自尊意識(自民族の優越性)を恃み、そういった意識を背景として行われることへの危惧である。それは日本人が民族性として権威主義を行動様式、あるいは思考様式としていることから起る。
上が優れ、下が劣るとする権威主義性によって、日本、もしくは日本人が優れているとしなければ、〝愛する〟教育の対象とはなり得ない。優れているとすることによって、対象となり得る。
いわば日本の歴史・伝統は優れている、日本人・日本は優れているとすることによって、「愛国心」教育は成り立つ。
「国を愛する」、あるいは「日本を愛する」教育(=評価要求)によってただでさえ日本人が先・後天的に精神的慣習として受継いでいる民族的優越意識をより確かに意識化したとき、従来的にも外国人の受入れへの拒絶反応や指導的地位からの排除(大相撲でモンゴル人が横綱であることを快からず思っている日本人が多くいるはずである)が見られるところへ持ってきて、外国と対立的な状況が生じた場合、民族的優越意識が噴き出して戦前の世界支配意志を包摂した〝八紘一宇〟思想とまでいかなくても、「日本」、あるいは「国」という〝国家〟の絶対性を一方的に訴える排他性を持った自国〝賛美〟、あるいは〝熱狂〟へと向かわしめる偏狭なナショナリズムにいとも簡単に反転する危険性を持つことへの恐れである。
これは決して大袈裟な把え方ではない。昨年の中国の反日デモが中国人の自国を絶対規準とした排他性を持った自国〝賛美〟・〝熱狂〟の日本を攻撃対象として形を取ったもので、そのことに反撥した日本国内の感情的な反中国意識も本質的には「日本」や日本という「国」に対する同種の〝賛美〟・〝熱狂〟が実体化したものであったはずである。
このような把え方が大袈裟だとして無視することが妥当であっても、国と国が世界を一つの舞台として相互に密接に関わり、交流する世紀を踏まえて「人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に共生の精神を醸成すること」を考えるなら、「日本」に拘らない精神の「涵養」が必要ではないだろうか。
あるいは「他国や他文化を理解」することを求めるなら、自尊や自尊がつくり出す軽蔑からは「理解」は生み出せず、対等な位置づけによって可能となる精神行為であって、「日本」もしくは「国」を〝愛する〟教育が自尊意識(自民族の優越性)を恃む性質のものである以上、二項対立をきたすもので、対等な位置づけによる〝他者理解〟をこそ優先事項とすべきだろう。他者を知ることによって自己、もしくは自己の位置を知ることができる。
対等な位置づけによる〝他者理解〟を世界に向かって広げるとするなら、人種・民族・国籍といった枠を取り外し、それらを超えて、一人一人を基準としなければならない。一人一人とは基本形である〝人間〟を基準とするということであろう。同じ人間であるという認識。相互に人間としてどうあるべきか。自己と他者との関わりに於いて、どう存在すべきか。もう超える時期に来ているのだはないだろうか。既に指摘した「日本」に拘らない精神の「涵養」である。
「日本」とか「日本人」という意識に拘るから、「国を愛する」とか「愛国心」といった考えに行き着く。
このことは国家の否定ではない。国家を最上位社会に置くことの忌避であって、世界を最上位社会に置くべきという考えに立つ。いわば国家を世界に次ぐ下位社会に置いて、国家なる存在を世界との関係で相対化する。
我々は階層社会に生きている。最下層の家族社会から始まって、学校社会、あるいは会社社会、さらに市町村社会、その上の地域社会(県単位、地方単位)、そして日本国家を最上位に置いた日本社会に日本人として生活している。それぞれの社会はそれぞれに必要不可欠であって、どの社会も否定・抹消は不可能である。それぞれの経営は相互に関係し合い、影響し合う相互関係にあるのはいうまでもないから、それぞれの社会成員の利益を図るべく経営を成り立たせていかなければ、社会は混乱する。国家経営に関しては、経営者は政治家であり、官僚であるが、政治家は国民の選択にその存在がかかっており、官僚の働きは政治家の雇用姿勢にかかっている。国民は国家と言う経営体に於ける株主に当る。
また日本という国の国家経営はアメリカや中国、その他の国家経営と関係し合い、影響しあう相互関係にある以上、国家経営は国家経営として常に状態のいい形で経営を心がけなければならない。
但し、それぞれの国家はその国に限定した最上位社会であって、さらにその上に世界と言う上位社会を想定して、民族や国籍を超えたそれぞれに対等な場所と見定め、相互に関連性を持たせることで自国の利益と世界の利益との相互性を心がけなければならない。
そのような世界観に向けて、〝教育基本法〟で、日本人を育成すると言うよりも、基本的な存在性としての人間を育成すると言う姿勢に先鞭をつけるべきではないだろうか。少なくともそういった視点に立つべき時代に来ていることを認識すべきだと思う