≪「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ≫
5月2日(07年)の朝日新聞朝刊は≪おせっかい?子育て指南 再生会議、親に「常識」提言 子守唄歌おう はやね・早起き・朝ごはん≫と見出しをつけて、安倍教育再生会議が<子育ての留意点や教えるべき徳目などを盛り込んだ緊急提言「『子育てを思う』保護者そしてみなさんへ」を連休明けに公表する。>と伝えていた。
失礼な、<おせっかい>と言うことはないだろう。美しい親切心からに決まっている。安倍晋三サマは間違ったことは言わない。日本国民は安倍晋三サマを親と思い、自分たち国民を親である安倍晋三サマの子供と思って、食器の持ち上げ方から箸の上げ下ろしまで親である安倍晋三サマの指導を受けて、1億2600人の国民すべてが一から十まで、軍隊の行進さながらに安倍晋三サマがおっしゃるとおりの一糸乱れぬ同じ動きをする。あるいはスイッチが入っている間は1年中同じ動きしか見せない何かの機械群のように国民全体が決められたとおりの生活の動きをする。
これこそ「美しい国」の大完成である。
同記事に載った<「子育てを思う」保護者そしてみなさんへ(案)要旨>を見てみる。
●保護者は子守唄を歌いおっぱいを上げ、赤ちゃんの瞳をの
ぞく。母乳が十分出なくても抱きしめるだけでもいい。
●授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビ
デオを一人で見せない。
●インターネットや携帯は世界中の悪とも直接つながってし
まう。フィルタリングで子供を守る。
●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人とし
ての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」など
社会性を持つ徳目を教える。
●「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おか
げさまで」日本の美しい心、言葉。
●子供たちをたくさんほめる。
●PTAは父親も参加。――
言っていることはみな正しいことではないか。これくらいのことなら、言うだけなら誰でも、いや誰でも以上にバカでもチョンでも言える〝正しいこと〟に過ぎない。特に<「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おかげさまで」日本の美しい心、言葉>などは日本人以外の人種・国民にはない<日本の美しい心、言葉>なのは言を俟(ま)たない。
と言うからには、言を俟たない根拠を示さなければならない。4つの言葉はどこから見ても日本の<言葉>である。その点は間違っていない。
だが、決して「日本の美しい心」としてのみ存在する精神ではない。英語等の外国語に訳せない言葉は一つとしてないのだから、訳せる以上、言葉の持つ精神は外国人も持っているものであり、「日本」限定発売の「美しい心」というわけではないだろう。どの国にもある常識的な精神であって、<日本の美しい心、言葉>だと限定するのは客観性を置き忘れていることから可能としている日本人の優越に向けた思い上がりに過ぎない。
それを<日本の美しい心、言葉>だと口に出さなくても(口に出したら最悪である)、そうだとする意識に立って子供に教えただけでも、子供はその意識を受け継いで大人そっくりの価値観で日本を優越的中心に置いた視野の狭い思い上がった客観性を継承させていくことになるに違いない。
安倍首相を筆頭に教育再生会議の面々の客観性の欠如を明らかに証明する項目がある。<●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」など社会性を持つ徳目を教える。>がそれである。
例えば「うそをつかない」は過去から延々と引き継がれてきた教えであろう。子供に最初にウソをつかれる大人は一般的には幼稚園の保母や学校の先生であるよりは親だろうし、ウソをつかれることによって不利益を蒙るのも一番に親だろうからである。親がウソつきであっても、子供にウソをつかれると親の利害に関係してくる。
当たり前のことだが、子供のウソが親の利益となるなら、「ウソをつくな」とは言わない。そのウソを許すことになるだろう。子供に万引きさせる親がいるが、運悪く店の人間に捕まり、子供が正直に親に言われたから万引きしたと正直に告白するのは都合が悪いが、つい欲しくなって万引きしてしまったとウソをついたなら、親は自己利害に合致するから許すに違いない。
子供のウソの一番の被害者は殆どは親だから(最終的には親の教育がなっていなかったということにされる)、親は上から言われなくても、子供に「ウソをつくな」と教えてきたはずである。戦前の強権的な国家主義が幅を効かしていた時代は巡査でも国家権力を背景に威張り散らしていて怖い存在であったから、親は子供がウソをつくと、「おまわりさんに連れて行ってもらうよ」とか、「おまわりさんに言いつけるよ」を常套句に子供のウソを戒めてきた。
別の常套句に「ウソをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」があったが、仏教世界の存在者である閻魔は<地獄で人間の善悪や罪業を審判する王(『日本史広辞典』山川出版社)であると言うところから、仏教がより広範囲に信じられていた遡った時代、江戸時代やそれ以前にも子供のウソを戒める教えとして親が使っていた言葉ではあったのではないか。
「バチが当たる」も仏教の因果応報としての〝罰(バチ)〟を利用した戒めであろう。
大体が常識という価値観に照らすなら、「あいさつをする」ことができないこと自体も、あるいはウソをつくこと自体も「恥ずかしいこと」であって、「恥ずかしいことはしない」を<次の段階>に置くこと自体が客観性を欠いた矛盾した措置だが、いずれにしても遥かな昔から親は子供に<最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本>、<社会性を持つ徳目を教え>てきたはずである。
だが、<社会性を持つ徳目を教え>られて育ったはずの政治家・官僚にもウソをつく人間、「恥ずかしいことはしない」ことはないどころか、いくらでもやらかす破廉恥な人間がゴマンと転がっている。勤勉・勤労の見本として二宮金次郎がその代表格だが、政治家の中から現在のウソつきの代表格を挙げるとしたら、安倍晋三、松岡と言ったところだろう。
要するにこれこれは正しいことだから行うようにと言うだけなら、誰でも言えるし、そのように言われる前から言われていることの大概を誰もが心がけている。だが、人間の現実は心がけとはかなり異なる姿を見せている。子育ての教え・戒めの類が延々と有効ではなかったと言うことだろう。その有効ではないことを、再び繰返そうとしている。
時代的な違いを言うなら、無効化が低年齢化したということではないか。小学生低学年までの間は親の「早寝・早起き」の教えを守っていたが、高学年、あるいは中学生にもなると言うことを聞かなくなって無効化する。
この時代性の違いをを認識できないから、その無効性が歴史・伝統・文化としてあるとする認識にも立てないのであって、そのように認識できない状況が同じ繰返しをそのままに犯す客観性の欠如そのものを物語ることになっている。当然、「提言」よりも教え・戒めがなぜ有効ではないか・有効ではなかったかの検証・分析が必要であって、その原因が判明したとき、その対策を考案して、考案した対策を「提言」すべきであるのが順序ではないだろうか。
尤も順序ではあっても、「提言」自体はそれぞれに任せるべき事柄である。<要旨>に書いてある殆どの「徳目」は、これくらいのことは誰に言われてするのではない、親に限らず自分で判断して自分で決定しなければならないごくごく常識的な人の務めであって、そうである以上、人それぞれの判断させるべきだからである。
例えそうすることが社会的常識に照らして正しいことだとされていたとしても、それを人それぞれの判断に任せることができずに上からの指示に従わせようと意志するのは、自己発でなければならない判断事項を国家発の判断事項に代えて行わせようとする権威主義的な国民管理行為であって、当然そこに国民それぞれの判断力、自律性を阻害する逆の力が働く。
日本人は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力学に捕縛されて、国民に対する国という上、子供に対する親と言う上は、下の国民、下の子供を上に従わせるべく、どうしてもああしなさい、こうしなさいと管理したがる。特に国は自己責任、自己責任を連発するくせに、国家管理思考からいつまで経っても抜け出れない。
それぞれが指示と従属の支配関係ではなく、上も下もなく個としての対等関係を結ぶことができなければ、真に自己責任を体した自律した存在となり得ない。自律した存在となり得たとき、「提言」は賛否両論が起きる暇もなく、完璧に<おせっかい>だとして国民から総すかんを食うことになるだろう。