安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(6)

2007-05-12 02:14:26 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S20/2月14日(水)近衛文麿(10・20-11・20侍従長病中に付、木戸内大臣侍立。重臣〔拝謁〕のつづき也)。

 〈注〉重臣拝謁の近衛の日である。このとき近衛は「勝利の見込みのない戦争を、これ以上継続することは、まったく共産党の手に乗るものというべきでありましょう」といい、軍部の中の〝かの一味〟を一掃することが緊要である、と天皇もア然となることを奏上する。そして「上奏文」を奉呈した。その中に、この戦争は一貫した陸軍の計画基づく侵略戦争であり、日本を共産革命化する〝五十年戦争計画〟によって進められている、などと驚くべきことが書かれていた。
     
 ――「軍部の中の〝かの一味〟」とすることで、自分たちの責任・無能を逃れることができる。責任転嫁のために持ち出した陰謀説。自分で東条英機を後継推薦しておき、自分で東条打倒の先鋒に立った木戸と同じ責任回避の構造。

 S20/3月9日(金)〔10日〕0・15-2・40、B29 120機帝都来襲、中心部を爆撃す。被害甚大なり。

 〈注〉深川・本所・向島など東京下町が、夜間の低空による焼夷爆弾攻撃という新戦法で、一夜で壊滅した日である。死者8万9千。総指揮をとったルメイ少将は「日本の家屋は木と紙だ。焼夷爆弾で十分に効果があがる」と、それまでの昼間の高高度からの爆弾攻撃作戦を変更した。B29の大編隊による日本本土焼尽夜間攻撃が、この日からはじまった。戦後、そのルメイに日本政府は最高の勲章を与えている。

 ――政治の中枢部である首都は防衛体制が最も堅固に準備されているはずである。それが一挙に120機もの空からの攻撃を許し、「死者8万9千」も数えた。防衛力が如何に脆弱化していたか、この時点でもはや国は持たないと悟るべきを徹底抗戦を掲げるばかりだったのだから、そのことを誰も悟らなかった。

 S20/3月16日(金)17日前2・00過より、B29数十機神戸付近を盲爆す。

 〈注〉この日、硫黄島で頑強な戦闘を続けていた総指揮官、栗林忠道中将からの訣別の電文が大本営に送られてきた。
「・・・・今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り、熟熟(つらつら)皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず・・・」
 この電文を最後に連絡が絶える。
 3月26日、日本軍玉砕。硫黄島の戦闘は終る。日本軍の死傷者2万数百人(うち戦史1万9900人)、米軍の死傷者2万5千900人、

 S20/3月18日(日)戦災地巡幸(8・55-10・07)。今回の行幸は極秘にて、遽(にわ)かに仰出されたるものなり。従って、御警護など常侍る依らざりき。

 〈注〉藤田侍従長の『回想』にある。深川から本所へ、さらに浅草から上野へと一巡した。焼け跡に立つ都民は驚きと敬虔のまざった複雑な気持で、金色の菊の紋章のついたあずき色の車を迎えた。天皇はいった。
「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内をまわったが、こんどのほうがはるかに無惨だ。(略)侍従長、これで東京も焦土となったね」
    
 ――心象風景としては、天皇が置かれていた裏切られた自己状況を象徴する焼け野原だったのではないだろうか。そのときは気づかなくても、戦後のある時点で気づいたに違いない。蚊帳の外に置かれていた末の結末。蚊帳の外で見舞わされることとなった最終局面。

 S20/4月1日(日)敵は沖縄本島に上陸する。

 〈注〉この日の午後2時には島の中央部にある読谷、嘉手納両飛行場が占領される。なぜこれほど容易に?そこには沖縄戦を事実上の本土決戦と見る海軍と、これを来るべき本土決戦のための出血持久の前哨戦とする陸軍との、戦略戦術的対立があったからである。それにしても地上戦闘は悲惨を極めた。組織だった戦闘といえるものはなく、沖縄県民をまきこんでの〝火と鉄の暴風〟による殺戮に近かった。死者は軍関係(中学生や女学生の義勇兵も含む)10万9千600人、一般県民10万人を超える。

 S20/4月5日(木)小磯首相(10・37-10・50.辞表奉呈)。(中略)鈴木〔貫太郎〕
 枢府議長(9・58-10・05)組閣の大命拝受。(後略)

 〈注〉この日、モスクワでソ連外相モロトフから佐藤尚武駐ソ大使に、日ソ中立条約延長せずの通告があった。『大本営機密戦争史』4月7日の項にある。
「佐藤駐ソ大使より日ソ中立条約破棄通告時におけるモロトフとの問答経過を報告し来る。モロトフが案外冷厳なる態度を持しある点より観て、既にソ連は帝国を准敵国視する腹なるべし」
 ここまで正確な判断をしながら、なお条約有効期間をあてにするとは、日本人は甘かったというほかない。
  
 ――元々ソ連とは敵対関係にあった。日本が負け犬となれば、なおさらいつまでも付き合ってはいないだろう。分かっていても、溺れる者、藁をも掴む。当てにするしか方策なし。最初から方策らしい方策もなく、猪突猛進的に戦争を始めたのではなかったか。

 S20/4月13日(金)宮内大臣(ルーズベルト死去奏上)。(後略)
     
 ――S20/5月5日(土)」の日記の〈注〉に、「4月30日、ヒトラー総統自決。そして5月7日、盟邦ドイツは無条件降伏する。9日には日本政府は、トイツ降伏にかかわらずわが国の戦闘遂行決意は不変である、と声明した。」とある。結果的に広島・長崎の原爆を招いた「声明」となったに違いない。

 S20/5月16日(水)B29百数十機、夜間、名古屋に来襲す。熱田神宮、本殿及屋根一部炎上。
 S20/5月25日(金)B29 二百五十機来襲、焼夷弾を投下す。都下に大火災発生す。――宮城も火災。

 〈注〉宮殿本殿を焼いたのは、皮肉にも三宅坂上の参謀本部からの飛び火であったという。満州事変以来の陸軍の横暴の歴史を、何か象徴するようである。(後略)
 
 S20/6月8日(金)前10時より正午迄、御前会議。重要国策に付、審議せらる。

 〈注〉この御前会議で決定された大事なところは次のとおり。「方針=七生尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもってあくまでも戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的の達成を期す・・・」
 すなわち徹底抗戦、最後の一兵までの決意である。天皇はこれを裁可した。
    
 ――相変わらずの精神論一辺倒。聞こえは勇ましいが、具体策のなさに比例して、言葉は勇ましさを否応もなしに獲得するに至る。
 
 戦争を終らせるのは難しいと自ら言っていた困難な道を敢えて採るべきを、勢いで取り掛かることができる簡単ではなるが、より最悪な徹底抗戦を天皇は「裁可した」。愚かしいこと。

 S20/6月15日(金)本日は、終日御床にあらせらる。御回復は極めて御順調に荒らせらる(昨夜より御下痢あらせらる)。

〈注〉天皇は戦争勃発いらい、風邪を引くことはあっても政務を休んだことは一度もなかった。「聖上昨日から御不例に渡らせられる」と野田海軍侍従武官の日記にあり、陸軍の尾形侍従武官も「聖上昨日よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝より休養なり」と日記に記した。この小倉日記でいっそう確認されたことになる。仮説であるがわたくしはこのとき天皇は戦争終結の決意を固めたと考えている。

 ――ヒステリー症状のように人間は自身の感情の許容量を越える感情を発すると、身体の変調を伴う場合がある。

 S20/6月22日(金)本日午后3時より開催せられたる、最高戦争指導会議に臨御あらせらる(総理、陸海両総長、同両大臣、外相)。
 約30分にて終了す。本日の会議には特に〔天皇の〕御召に依り、開催せられたるものと拝す。

 〈注〉この会議における天皇の発言は、諸資料でほぼ共通している。
「戦争指導に付ては、先の御前会議〔6月8日〕で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」
 だれもが口に出せなかった「戦争終結」を天皇がはじめていった。このときに終戦への第一歩がやっと踏みだされたのである。
     
 ――例え天皇が「戦争終結の決意を固めた」としても、従の関係にある天皇は軍部という障害を越えたわけではない。「決意を固めた」ものの、みなの意見を聞かなければならなかったのは、そのためだろう。

 S20/6月23日(金)(前略)聖上には、自分の御生れ遊ばされてよりの御住居が、皆無くなった、高輪(大正震災)、御誕生の青山御殿、霞関離宮、宮城と四つなくなった。此処だけ残っている、と仰せあり。皇后宮にも、渋谷の御殿、麻布御殿など無くなってしまったと仰せあり。府中第三高女に御下賜の御花御殿の、戦災を免れたるを申上げたる処、御満足に思召されたる。(後略)

 <注>沖縄侵攻の米軍総司令部は、6月23日、沖縄戦の終了と正式占領を表明した。菊水第一号より第十号出撃まで、のべ2千867機を投入し、精根尽くした日本海軍の特攻作戦も、この日で打切られた。米艦隊の艦船の損傷368隻、沈没36隻、飛行機768機を喪失したと、戦後の米軍の記録は伝えている。
     
 ――6月23日の日記は沖縄に関しての情報は一切触れていない。沖縄がかくも無惨な結末を演出していることに反して、皇族は自分の住いの喪失のみに関心を寄せている。いい気なものである。住む場所を一切合財無くし、青空しか住む場所のない国民は頭にはないらしい。

 S20/6月27日(水)后0・50、上野発、長野県に向け加藤〔進〕総務局長、東部軍の井田〔正孝〕中佐、小林少佐、同道せり、と庫温泉に泊す。
 翌日午前、松代在の山中(烽山)に築造せる地下工事を視察す。

 〈注〉日本陸軍は、本土決戦となったとき、東京は海に近く平野にあるゆえとても守れないと考え、長野県松代に皇室ならびに大本営を移すという案を立てた。そこでひそかに築城工事をはじめたのが19年9月中旬、それが完成となったのであろう。が、この年の晩春ごろそのことは知れ渡り天皇の耳にも入った。天皇は不快げにいったという。
「私は行かないよ」
     
 ――天皇は戦争終結の方策の模索を言いつけているが、陸軍は着々と本土決戦に備えている。天皇の意志が日本を動かしているのではなく、軍部(特に陸軍)が動かしている。天皇一人の「決意」が如何に力を持たないかをも物語っている。天皇の意志は戦争終結に関するだけではなく、すべてに於いて最初から最後まで力を持つに至ってはいない。それが天皇の姿だった。

 S20/8月9日(水)ソ連、今暁零時を期し、日本と交戦状態にある旨、宣戦を布告し、ソ満国境並、北鮮国境を越え侵入、攻撃し来れり。我亦自衛の為め之に応戦す。事態極めて重大となれり。去る6日8時過、広島に対し原爆らしきものを投じ大被害を惹起。その際、李ぐう公殿下(李王垠の甥)御負傷、終に薨去遊ばされたり(7日前5時5分)。遺骸は海軍機を以て宮城に御運びす。

 S20/8月14日 本日異例の御前会議に於て、聖断に依りポツダム宣言を受諾することに決せる由。内閣全閣僚、内閣書記官長等、統帥部首脳出席。陛下には、卿等色々意見もあろうが、之以上国民の惨害を見るに忍びずと、御涕泣遊ばされつつ仰せあり。各員慟哭、茲に受諾に一決せる由。全く御聖断に依るもの、恐懼に堪えず。直に大詔を煥発あらせられ、夜、表拝謁間に於て、御放送録音。四句5日正午、放送せられたり。一億慟哭す。
     
 ――「之以上国民の惨害を見るに忍びず」ではなく、もはや打つ手を失ったからだろう。「国民の惨害」は口実に過ぎない。8月14日に言う通りの「聖断」が有り得たなら、S20/6月22日に「戦争終結の決意を固め」たその時点でも有り得た「聖断」となる。だが、その可能性を有効化させることもできずに引きずったまま1ヶ月半も経過した時点でのポツダム宣言受諾である。その間に広島原爆投下が8月6日、長崎原爆投下が3日後の8月9日と立て続けの形で受けている。それまで「戦争終結の決意」は「聖断」の形を取ることなく、かくまでも意味をなさなかった。「国民惨害」を言うなら、もっと早くに言わなければならない。

 文藝春秋掲載の『小倉庫次侍従日記』は上記8月14日で終っている。半藤利一氏の解説も合わせた全体を通して窺うことができる事柄は大日本帝国憲法に位置づけられた確固とした天皇の権力・地位に反した軍部・政府に従属した天皇の姿である。その姿は一般国民と同様に情報操作の対象とされるまでに軽い扱いを受けていた。天皇共々、軍部・政府が国民騙していたわけではない。情報操作・情報捏造に於いても天皇を蚊帳の外に置いていた。

 天皇がその当時は気づかなかったとしても、大本営発表の戦果や国の重要政策を含めて天皇自身に上奏された情報の数々が上奏者に都合よく捏造・操作したものだったことを情報の届かない孤島に閉じ込められていたわけではない、戦後、学ばなかったはずはない。自身の愚かさも学習したことだろう。「立憲国の天皇は憲法に制約される」として開戦責任を回避したのは敗戦の翌年のことで、まだ何も学習しなかった可能性も考えられる。
 
 それから20年30年と年数の経過と共に多くを学んだはずである。あの戦争は何だったのか。どのような国策のもとに遂行されるに至ったのか。そこで自分は何をなしたか、なさなかったか。自分は何者だったのか、どのような存在だったのか。

 言葉を替えて言うなら、何が〝真〟で、何が〝虚〟であったかということだろう。そして殆どが虚に満ちていたことを学んだに違いない。天皇自身も〝虚〟の場所に置かれ、〝虚〟の存在とされていたが、A級戦犯となった者、その他が聖戦だとか東亜新秩序だとか、アジア解放だとか八紘一宇だとかの〝虚〟を演出した。戦争遂行政策そのものが〝虚〟で成り立っていた。

 国を無惨に破壊し、国民に多大な犠牲を強いたそのような〝虚〟の主たる演出者を靖国神社に合祀する。天皇の名で犠牲になった国民と天皇の名で国民に犠牲を強要した側のA級戦犯が区別なく、そう区別なく合祀された。それは新たな〝虚〟ではないか。

 「A級戦犯合祀が御意に召さず」は人間として天皇として多くの〝虚〟を学び、学ばされた結果の自然な感情の行く末であったろう。

 もし「A級戦犯合祀が御意に召」して合祀された後の靖国神社をも参拝したとしたら、戦争中の天皇のありよう、天皇制の実体・日本の戦争の実態、その〝虚〟を何も学習しなかったことになる。

 昭和天皇が「A級戦犯合祀が御意に召さ」なかったということなら、A級戦犯合祀前の天皇の靖国差参拝は、国のため・天皇のためという〝虚〟の犠牲となった一般兵士を追悼する参拝だった。

 片やわが日本の美しい国家主義者・安倍晋三総理大臣は戦後A級戦犯容疑を受けて巣鴨プリズンに拘留され釈放された侵略戦争加担者である岸信介おじいちゃんの膝に美しい孫として抱かれ、自己正当化のために日本の戦争は自存自衛の戦争だった、アジア解放の戦争だったとする美しい日本ばかりを聞かされて御坊ちゃん育ちしたのか、〝真〟と〝虚〟を学ぶ合理的な客観的認識性を身につけるに至らなかったのだろう、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と彼らを〝真〟とする擁護を行い、それと同じ解釈で「侵略戦争の定義は定かでない。政府が歴史の裁判官になって単純に白黒つけるのは適切でない」と戦前の日本の戦争そのものを〝真〟としたい一方向のみの欲求に立った擁護を行っている。

 「国のリーダーたるもの、国のために戦った人に追悼の念を捧げるのは当然。次の総理もその次の総理も靖国に参拝してほしい」とする、天皇の〝A級戦犯合祀、御意に召さず〟とは真っ向から反する戦争正当化からの靖国思想信奉者にふさわしい靖国参拝首相義務化衝動にしても、戦前の日本の戦争を〝真〟としたいのと同じ文脈にある欲求としてある。

 安倍晋三の「A級戦犯合祀が御意に召」した靖国参拝は「国のために戦った人」と戦死者全体を指しているものの、追悼の主たる対象は戦争遂行者の側に立っていたA級戦犯、その他の戦争指導者ということになる。戦争肯定は一般兵士の肯定であるよりも、より優先的に戦争指導者の肯定へと向かうからである。

 A級戦犯やその他の戦争指導者を主たる追悼の対象とすることによって、安倍晋三は自らの国家主義に美しい一貫性を与えることにもなる。そして中国・韓国との関係で現在は靖国神社参拝の足止めを窮屈なまでに強いられているが、「A級戦犯合祀が御意に召」す意思表示に参拝・追悼の思い止み難く、足止めの代償に今年は4月21~23日の春の例大祭に合わせて内閣総理大臣と木札に書き入れた榊の鉢植えの供物に変え「A級戦犯合祀が御意に召」す思いを叶えさせた。その巧妙狡猾な小賢しいばかりの策士振りは戦争中の松岡外相なみである。そういえば名前だけではなく、人間まで似ているもう一人の松岡がいる。類は友を呼ぶというわけだろう。
 
 昨年7月、昭和天皇が靖国参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀にあったとする富田メモの発見に関して時の総理大臣小泉純一郎は、「詳細は分かりませんが、これは心の問題ですから。陛下自身に於かれても、様々な思いがおありになったんだと思いますね」

 「それぞれの人の思いですから、心の問題ですから。強制するものでもないし、行ってもよし、行かなくてもよし、誰でも自由ですね。あの人が、あの方が言われたからとか、いいとか悪いとかいう問題でもないと思っています」

 確かに「心の問題」であり、「人の思い」ではあるが、日本の戦争の〝真〟と〝虚〟にまで思い及ばすことができない「心の問題」、「人の思い」となっている。安倍晋三と同様に客観的認識能力が未発達で、軽薄短小な上っ面の洞察しかできないからだろう。そしてその年(07年)の年8月15日の終戦の日を特に選んで、A級戦犯合祀何のそのの首相としての最後の参拝衝動を満たした。

 小泉も安倍もその他も、戦前の軍部・政治権力者が天皇を軽んじていたからこそ、無謀な戦争計画を立てることができ、無謀な戦争遂行と無益な計り知れない犠牲者を国民から出すことができたように、「A級戦犯合祀が御意に召さず」の天皇の意志を無視、軽んずることができるからこそ、「御意に召」そうが召すまいが、A級戦犯合祀を自らの〝真〟として靖国神社に参拝・追悼の勲章を与えることができる。天皇制の二重構造を日本の歴史・伝統・文化として戦後も受け継いでいるからである。。

 何も学ぶことができなかった愚か者たち。
                  (終)

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(5)

2007-05-12 02:08:02 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S18/2月1日(火)朝11時、大本営発表。レンネル島沖海戦の大戦果、発表せらる。仍て、武官府へ清酒一瓶を被下(くださる)。

 〈注〉レンネル島沖海戦とは、1月29日にガダルカナル島南方で、米水上部隊を陸上攻撃機32機をもって電撃した戦いである。殆ど戦果なしであったのを「大本営発表」は例によって誇大に報じた。それよりもこの日、4日、7日と3回にわたって実行されたガ島撤退作戦の成功の幸運さを記しておくべきだろう。悲惨な餓死の運命から免れ、救出された将兵は1万652名。大本営発表は「転進」の名のもとに、2月9日、退却の事実を公表した。

 S18/3月27日(火)皇族各妃殿下が、皇后陛下の内旨を奉じて、戦力増強に関する婦人等の活動状況を視察する為、地方に御旅行遊ばさるることとなれり。その際、聖上より、学生の勤労奉仕は、度が過ぎて本分たる勉強をおろそかにする様な事例もあるようだから、視察箇所に入れるのはどうかと仰せあり。実施上は十分、思召を体して計画すべきことを申し上ぐ。
     
 ――「度が過ぎて本分たる勉強をおろそかにする様な事例」があったとしても、天皇の名のもとの全体主義に縛られて断れない環境にあるのだから、視察してどうにかなるものではない。そのことに気づかなかったらしい。

 S18/5月31日(月)吹上御還御。武官長、内大臣御召。海軍人事、杉山参謀総長、陸軍御允裁第10回御前会議。

 【還御】「かんぎょ・天皇皇后が行幸から還ること」
 【允裁】「いんさい・聞き届けること」(『大辞林』)

 〈注〉この日の御前会議で「大東亜政略指導大綱」が決定した。その第6項に誠に解しかねる文言がある。
「マレー・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。(略)これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」 
 アジア解放の大理想の裏側で、手前勝手な、夜郎自大のことを考えていた。
     
 ――驚くに当たらない。日韓併合、進出という名の中国侵略、満州国建国が既に自国領土化・植民地化を物語っていたのだから。アジア解放が事実なら、中国・韓国・満州国も同じ解放の線上に乗せて然るべきだが、日本は既に二重基準、三重基準のマヤカシの真っ只中に自らを置いていた。

 また、〝国の解放〟は人間の解放を伴って、初めて解放の体裁をなす。逆説するなら、人間の解放を伴わない国の解放は真の解放とは言えない。従軍慰安婦や強制連行労働で人間の解放とは真逆の人間束縛をやらかしていて、あるいは自国民を全体主義の束縛に絡めておいて、「解放」云々は口にする資格もなく口にした言葉に過ぎない。
   
 S18/11月8日(月)大東亜会議出席中。フィリッピン代表ラウレル、ビルマ代表バモ両名、風邪気味なることを聞(きこし)召し及ばれ、「尋ねてやるやう」仰せあり。仍て宮内大臣に思召伝ふ。

 〈注〉11月5日、大東亜会議が開かれた。中国は汪精衛、満州国は張景恵、フィリッピンはラウレル、ビルマはバーモと各国の首脳が来日。自由インドの仮政府のチャンドラー・ボースも臨席した。東条は彼等を前に獅子吼する。
「米英のいう世界平和の保障とは、アジアにおける植民地搾取の永続化による利己的秩序の維持にほかならない」
 すでに軍事的に苦境に立っていた日本は、アジアの盟主としての度量を見せようと盛んにPRしていたが、各国首脳はしらけた顔を見せていたという。

 S18/11月17日(月)后4・30 大本営より第五ブ-ゲンビル島沖航空戦の大戦果発表せらる。部官府へ清酒を被下。
 S18/11月23日(月)后3・00 大本営発表。敵米軍ギルバート諸島中の二島に上陸す。但し、我方は敵空母の轟沈、その他多大なる戦果を挙ぐ。

 〈注〉マッカーサー大将総指揮の米陸軍がソロモン諸島づたいに北上をつづけている。その方面に目を奪われているとき、ニミッツ大将指揮の米海軍は完全整備が終って、新建造の高速空母軍を主力に大機動部隊を編成し、中部太平洋の島づたいに日本本土へ攻めのぼるという遠大な作戦計画を打ち立てた。その第一歩がギルバート諸島のタワラ、マキン両島への上陸(11月25日)であった。強力な空母艦載機が制空権を奪い。つづいて戦艦・重巡洋艦群の艦砲射撃、そして海兵隊の上陸という島嶼作戦の公式はこのときに始まる。
 小倉日記にみる戦果は虚報であり、マキン島は24日、タラワ島は25日にそれぞれ守備隊は「バンザイ突撃」で玉砕する。

 ――天皇は戦後、すべてを学んだはずである。自分が置かれていた状況。どのような畳の上に座らされていたか。それが大日本帝国憲法が描き、保障したのとは異なる畳の上だったことを。
 
 S19/2月5日(土)マーシャル諸島に敵軍上陸の大本営発表あり。

 〈注〉米機動部隊の援護のもと海兵隊の上陸作戦の目標は、マーシャル諸島へ向けられた。この日の朝日新聞は報じた。
「元寇以来六百有余年、外敵を領土に迎えたことのなかった不滅神州の一角に敵兵を上陸させた」

 S19/5月2日(火)(皇族の消息・全略)

 〈注〉東久邇宮が5月3日に語ったという興味深い談話が細川護貞の『細川日記』にある。
「御上も東条が人心を失ひ居ることは承知なるも、久邇宮殿下に対せられても、今東条を替えることは対外影響がどうだらう、と仰せあるたり」
 皇族方の話題がどんなものであったかが察せられる

 S19/5月7日(日)海軍大将古賀峯一、今般作戦指導中、殉職せる旨の発、(以下略)

 <注>パラオに来襲の米機動隊を避け、飛行艇でダバオに向かう途中、古賀連合艦隊司令官の乗機が激しい雷雨のために墜落し、長官は行方不明となった。3月31日のことであるまた二番機に乗っていた福留繁参謀長らはセブ島沖に不時着し、米軍協力者の捕虜となり、今後の作戦計画書などが米軍の手に渡っていた。すべて国民に秘されていたが、これを「海軍乙事件」という。

 ――パラオに古賀連合艦隊司令官とその直接の部下のみが駐留していたわけではなく、艦隊と共に駐留していたはずである。それを「来襲の米機動隊を避け、飛行艇でダバオに向かう」は、「諸君はすでに神である。私も必ず後を追う」と特攻隊の出撃を見送った後、部隊を置き去りにして一人撤退した富永恭次陸軍中将の類なのか。美しい国の美しい軍人たち。

 S19/6月6日(火)陸軍上聞(7・15-7・20、中村、米英軍フランス上陸、上聞す)。

 〈注〉連合軍がドーバー海峡を渡って、フランスのノルマンディへと敵前上陸に成功した日である。Dディといわれた。あいにくの悪天候に中止すべしという声も高かったが、連合軍総司令官アイゼンハワーは、それらの意見を聞いた上で決断した。
「よろしい、出かけよう(オーケィ レッツ・ゴー)」
 これが第2次大戦の名言の一つになった。

 S19/6月18日(日)12・30に警報解除せられたるは、生産力に影響及ぼさしめざる為の由。后9・00の発令は太平洋に向かってのものなり。

 〈注〉米軍のマリアナ諸島サイパン上陸作戦は6月15日に開始された。この日、作戦部長真田穣一郎少将の「日記」に、東条参謀総長への天皇の激励の言葉が残されている。
「第一線の将兵も善戦しているのだが兵力が敵兵に比して足らぬのではないか?万一サイパンを失う様なことになれば東京空襲も屡々あることになるから、是非とも確保しなければならない」
 東条は常に「一兵たりとも上陸させません。サイパンは難攻不落、鉄壁であります」と天皇にも豪語していた。しかしそれが単なる強がりであったことは、もうこの日に明かになりつつあった。
 また、この翌19日にはマリアナ海戦が生起し、連合艦隊は持てる全力を投入したが完敗する。1年がかりで練成した機動部隊の攻撃機の損耗実に395機、空母3隻を喪失、そして戦果はゼロに等しかった。

 ――東条の姿こそ、日本の一般的な幹部軍人の正真正銘の正体なのだろう。それを安倍晋三は受け継いでいる。従軍慰安婦問題、靖国参拝問題、誤魔化すことに関しては東条英機と優るとも劣らずではないのか。

 S19/6月25日(日)高松宮より、聖上に御親書あり。御直御答へ致され難き御由にて、内大臣を召させらる。高松宮、明日10時御参遊ばさるることとなる。

 〈注〉この日、サイパン島防衛がほぼ絶望の戦況下、元帥会議(天皇臨席)がひらかれた。しかし起死回生の妙案などあるべくもなかった。最後に元帥伏見宮がいったという。
「戦局がこのように困難となった以上、対策として、何とかして特殊な兵器を考案して、迅速に使用せねばならない」
 すなわちこの発言から、肉弾攻撃を兵器として採用することを公式に承認されたかのように、統帥部には受けとられたという。天皇はそれを肯定も否定もしなかったが。
     
 ――「肯定も否定もしなかった」ということは、「承認」していたということに他ならない。

 S19/7月18日(火)本日全11時40分、東条首相拝謁。闕下に辞表(閣僚の分とも)奉呈す。(以下略)

 〈注〉7月7日、守備隊3万人、民間人1万人が玉砕して、サイパン島は陥落した。このとき、この戦争における日本の勝利は絶無となる。東条首相の独裁政治に対する国民や上層部の不信・批判は最高に達した。この機に岡田啓介、米内光政ら重臣は、木戸内大臣ら宮廷グループと図って、東条内閣を打倒したのである。東条は内閣改造で危機を乗り越えようとしたが時すでに遅し。内閣総辞職の報に「敵は遂に倒れた」の声がいたるところからあがった。
     
 ――コップの中の空騒ぎ。後継首班指名に東条を推薦した木戸が宮廷グループでは東条打倒の先鋒となる。打倒の功によって推薦の責任はぼかされる。責任逃れには格好の役割である。結果的に東条内閣を成立させ、独裁政治に走らせた責任は誰も取らない。日本的といったところか。

 (「木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだね』と感想をもらした」)

 S19/7月20日(火)小磯朝鮮総督、本日午后3時過、羽田着飛行機にて帰京。直に参内。木戸内府と要談。次いで内大臣拝謁。後継内閣に付、御下問に奉答。侍従長御召、米内海軍大将も併せて召さるべき旨、御沙汰あり。偶々宮中も重臣会合中より米内大将に御召を伝え、小磯、米内並びて御前に参進。左の勅語あらせられたり。
「卿等協力して内閣を組織すべし。大東亜戦争の目的完遂に努め、勿論、憲法の条章に尊び、尚ソヴィエトは刺激せざるようすべし」
 小磯大将より左の要旨にて奉答す。
「戦時下組閣の大命を拝し、誠に恐懼に堪えず。戦時下の政治は統帥を離れてあり得べからざるを以て、よく統帥首脳部と協議を遂げ、大命を奉行致し度し。暫くの御猶予を御許し願ひ上ぐ」

 〈注〉7月21日、米軍はグアム島に上陸、つづいて24日にテニアン島にも上陸した。小磯・米内内閣の前途多難なることは目に見えている。少し後の最高戦争指導会議で、軍令部次長が「もとより必勝を期しております。骨を切らして骨を切る覚悟で決戦いたします」といった。小磯は静かに反問した。「骨を切らしてしまっては相手を斬れなくなるのではないか」と。一同寂として声なし。ちなみにグアム島は8月10日、テニアン島は3日に玉砕した。字義どおり骨を切られてしまったのである。
    
 ――「骨を切らして骨を切る覚悟」。なぜこうも日本人は精神論が好きなのだろう。具体性が要求される合理的精神の欠如を埋め合わせる代償として与えられた民族の特性なのだろうか。

 これ以上の被害を広げないためにはハル・ノートの受入れをこそ、自らの「骨を切る覚悟」としなければならなかったはずだが。

 S19/10月16日(月)台湾東方海上敵艦撃滅に付、大戦果続々発表せらる。
 明日の神嘗祭、御告文に今回の戦果のことを申さずして可なりやとの御下問あり。宮内大臣に相談せし所、すでに伊勢には出発せしめ、且つ全戦局に付ては、御極めの通りの御告文にて結構と考ふる旨答へあり。仍て之を申上ぐ。御納得遊ばさる。

 〈注〉台湾東方海面で、通称「台湾沖海戦」の大戦果もまた虚報によるものである。12日に来襲してきた米機動部隊を迎撃し、15日まで、航空撃滅戦での戦果の合計は、空母10隻撃沈、撃破炎上した空母3隻、ほかに戦艦1、巡洋艦1、艦種不詳11隻を撃破。朝日新聞は「挙国追撃戦に移れ」と大いに太鼓を叩いた。しかし、実は洋上にいた米空母13隻はすべて健在であり、天皇の喜びは空しかったのである。
   
 ――無計画なまま大口を叩いた手前、失敗を成功へと捏造せざるを得ない。「艦種不詳」まで持ち出すとはなかなか手が込んだ捏造である。警察が裏ガネを捜査協力費から捻出するためにその住所に存在しない捜査協力者名をデッチ上げるに等しい巧妙なテクニックを披露している。適当に記入した住所がたまたま墓地だったりして、二重の不可能を露見するまで可能とするトリックをつくり出しさえする。

 S19/10月26日(月)靖国神社行幸。
比島東方海面、及レイテ湾、大戦果発表せらる。

 〈注〉10月23日から26日まで、比島レイテ島への米軍上陸を迎えた、連合艦隊は残存の総力戦をあげて戦った。世界史上最大の艦隊決戦で、レイテ沖海戦と称する。結果としては日本海軍は壊滅的打撃を受けたが、当時は軍艦マーチ入りの大戦果が報じられたのである。なお、このとき、神風特別攻撃隊が初めて志願によって編成され、一人一艦の「十死零生」特別攻撃が敢行された。
     
 ――超合理精神なくして敢行できなかった精神主義一辺倒からの愚挙なのだろう。その精神主義をも安倍晋三は受け継いでいる。「美しい国」だの「凛とした」だの「武士道だ」など。

 S19/11月1日(水)B29 1機,帝都周辺地区周廻す。爆弾等投下せず、高度1万、
或は以上か。

 〈注〉サイパン基地を発進したB29が東京上空に初めて姿を見せた日である。朝日新聞記者中村正吾は日記に書いている。「全閣僚ひとまず総理官邸の防空壕に退避した。防空壕に全閣僚しばし缶づめとなっている間、壕内の電話は一向に利かない。口頭で入ってくる情報は大部分が虚報である。政治中枢部、文字通り全神経を集中せねばならない総理官邸の実情がこんなことではと、本格的空襲時が思いやられる」
     
 ――日本の防衛体制の堅固さの象徴として、総理官邸の貧弱な情報状況があったのだろう。その無力・無援の孤立性は既に敗戦の廃墟を象徴していたということか。

 S19/12月3日(日)帝都近郊に70機内外来襲、投弾す。被害状況、后6。00。当直侍従より奏上す。

 〈注〉作戦部長真田穣一郎少将の『日記』12月4日に天皇の感想がある。
「こちらの損害は大してなくて相当の戦果を収めて。このくらいあれば頼もしいね」
 この期に及んで軍部はごまかしの情報を上聞していたのであろうか。
     
 ――一度誤魔化せば、それを取繕う新たな誤魔化しが必要となって、次第次第に大きくなっていく誤魔化しの無限連鎖に陥り、そこから抜け出せなくなる。借金と同じ。そして誤魔化されていたと後で知った人間はバカでない限り、誤魔化された自分の愚かさまで責めなければならないることになる。

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」・「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」・「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」――そのような天皇が誤魔化され、騙されていたという天皇の地位・権力に反する美しい倒錯はどのような逆説によってもたらされたのだろうか。

 戦前の天皇にそのような倒錯をプレゼントし続けたのは戦前の時代を共にした当時の軍部や政治家なのは言うまでもない。

 S20/2月7日(水)内大臣府の計ひにて、重臣が各個に天機奉伺の機会に拝謁を御願比することとし、本日、平沼男〔爵〕、第一回ありたり。現官にある者を除き、首相を為したるもの及び牧野伸顕伯〔爵〕、特に今回加はれり。

 【天機】「天皇の機嫌」(『大辞林』)

 〈注〉2月につぎつぎに行われた重臣たちの拝謁は、天皇が強く要望し木戸内大臣がしぶしぶ賛成したものであった。侍立するは木戸ではなく、藤田侍従長である。参内の目的は、天皇が戦局の見通しとその対策を質す、という建前になっていたが、各重臣たちには、戦争終結をどう考えるか、終戦のよい方策ありや、それを中心に話すようにあらかじめ示唆されていた。結果として、だれにも戦争終結の具体案などあるはずもなかった。たとえば平沼の場合は、「さながら漢書の講義を聞く思いであった」と藤田は回想録に書いている。

 【侍立】「貴人の傍に付き添って立つこと」(『大辞林』)

 ――「戦争終結の具体案」がないからと、「具体案」に代えて抽象論を展開するのも誤魔化し・騙しのうちに入る。有能な人間でなければできない芸当なのだろう。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(6) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に続く。

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