安倍内閣が安倍首相主導のもと、「美しい国づくり」プロジェクトなるものを推進している。「美しい国づくり」と言うからには、今の日本の社会の不正と虚偽と不公平・不公正によって織りなされた各種矛盾を少しでも正して、より公平・公正な「美しい」日本を実現させようと言うことなのだろう。
いわば問題となっているのは、あるいは問題とすべきは日本人の日常普段の姿・営為であって、それをより正しい方向に導こうということでなければならない。またそれは政治の仕事でもある。
そういった構造の「美しい国づくり」なのか、首相官邸のHPから、そのプロジェクト内容を見てみた。
まず<「美しい国」とは?
皆さんにとって、「美しい国」とはどんな国でしょうか?「日本の美しさ」とは何でしょうか? >と問いかけている。
そもそものこの問いかけからして不都合を感じた。日本という国は一般的には日本に帰化した、しないに関係なしに日本に住む外国人及び日本人を含めた集合体であって、当然のこととして「美しい国」か、美しくない国かといった国の姿は主体となる日本人の全体的な姿・営為によって決定する。となれば、<どんな国>かは人間の姿・営為が美しい国と答は決まっているはずだが、<「美しい国」とはどんな国でしょうか?>とことさら尋ねた上で、<「日本の美しさ」とは何でしょうか?>と人間の姿・営為への問いかけなしに、それを跳び超えて、国の「美しさ」そのものを問いかける見当違いを見せている。
例えば日本の富士山がいくら美しくても、日本の政治家・官僚の姿が美しくなければ、富士の美しさは「日本の美しさ」の一つに入るだろうが、日本人の姿・営為に反映していない美しさであって、国の姿全体を表す美しさではなく、富士山の姿のみにとどまる個別性で終わる。それをいくら誇っても、あるいはそういった「美しさ」をいくら掻き集めようとも、「美しい国」とはなりようがない無駄な努力と言うものであろう。
もしも日本人の姿・営為を直接問題として、それを如何に正していくかを検討するのではなく、そこから離れた<「日本の美しさ」>に的を絞るものであったなら、最初からボタンの掛け違いを犯していることになる。
<「美しい国づくり」プロジェクトとは?>にはこう書いている。
<「美しい国づくり」プロジェクトは、私たちが本来もっている魅力を引出し、いきいきとした未来につなげようとするものです。「今ある美しいもの」、「失われた、あるいは失われつつある美しいもの」、「これから作り上げるべき美しいもの」について、国民の皆さんが気づき、行動していくきっかけ作りをするものです。>
<私たちが本来もっている魅力>、<「今ある美しいもの」>、<「失われた、あるいは失われつつある美しいもの」>がどんなものかは知らないし、知ろうとも思わないが、これらが日本人が現実に体現しているプラスの資質だとしても、政治家・官僚の不正、企業の不正、一般市民の不正等となって現れている日本人の現在の姿・営為、そしてそれらが織りなしてつくり出されている日本の社会の不公正・不公平等の矛盾の解消に何ら有効な資質となっていなのも現実であって、それらにスポットを当てていること自体が既にボタンの掛け違いなのだが、 行うべきは日本人の「美し」くない姿・営為を探し出して、それを改める方法を検討することだが、逆の「美しい」姿・営為を探し出して、それを以てだから日本の国は美しいのだとイコール答とする現実からかけ離れた「美しい国づくり」としか見えない。
このような〝美しさ〟探しによる数々の〝美しさ〟の前面への押し出しは、逆に社会の矛盾や不公平・不公正をつくり出している日本人の美しくない姿・営為を隠す役目を果たさないだろうか。いわば臭い物にフタの力学が働くことはないだろうか。
尤も臭い物にフタだけで終わるなら、まだよしとすべきかもしれない。安倍首相自身が既に国家主義に囚われた人間である。その先に行く危険を抱えていないと断言するわけにはいかない。
このような懸念が単なる懸念で終わるかどうかを順次見ていかなければならない。
<安倍内閣では、皆さんとともに目指したい、新しい、私たちの国のかたちを、 活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」と考え、そして、この私たちの国の理念、目指すべき方向を
Ⅰ 文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
Ⅱ 自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国
Ⅲ 未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
Ⅳ 世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップ
のある国
と考えています。
「美しい国、日本」は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この「美しい国、日本」を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたいと考えています。>
掲げている<国の理念、目指すべき方向>は飛び切りの素晴らしい言葉の散りばめによって飾り立てているが、<「美しい国、日本」は、私たち一人ひとりの中にあります>と言うと、現実の姿に即さないまるきりの真っ赤なウソになる。なぜなら、<私たち一人ひとりの中にあ>る<「美しい国、日本」>が政治家・官僚の不正、企業の不正、一般市民の不正等となって現れている現在の日本人の全体的な姿・営為をつくり出し、それが日本社会の矛盾や不公平・不公正を成り立たせていることとなって、倒錯的な逆説を生じせしめることになるからである。
厳密に言うと、<文化、伝統、自然、歴史を大切にする>姿・営為は一般的な生活上の姿・営為とは関係なく、個別的に示すことができる態度である。逆説するなら、いくら「美しく」ない人間でも、<文化、伝統、自然、歴史を大切に>することができる。当然、<規律を知る、凛とした>人間でなくても<文化、伝統、自然、歴史を大切に>することができるし、逆に<文化、伝統、自然、歴史を大切に>しているからと言って、イコール<規律を知る、凛とした>人間だ、「美しい」人間だと必ずしも断定可能とはならない。
また<未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国>は国の経済がうまくいきさえすれば可能な事柄であって、経済的成功は応々にして人間性とは無関係に成り立たせることができる。裏取引や不正行為が経済活動や政治活動を成功させる手段の一つとなっていることがその証明となる。だからこそ、各種談合の跡を絶たない現状がある。
<文化、伝統、自然、歴史を大切にする>ことが一般生活上の自己利害に深く関係するなら、誰にしたって率先して大切にするだろうが、自己利害が動機であることに変わりはなく、一般生活上の自己利害に関係していないなら、自らの地位・立場に期待される世間に対する体裁からの<文化、伝統、自然、歴史>への思い入れで終らせることも可能である。
いわば、表面的な形式で済ませることができる<文化、伝統、自然、歴史を大切にする>態度をいくら問題としても始まらないことで、問題とすべきは社会の一員として社会のルールを如何に守るかのごくごく基本的態度であろう。守っているか、守っていないかが日本人の姿・営為を決定していく。
要するに言っているところの<規律を知る>であるが、人間が自己利害の生きものであることから<規律を知>り、それを守り通すことが難題となっていることが現在の日本人の姿・営為となって現れ、その先に今の日本の社会があるのであって、難題であることを無視して、それを<凛とした>レベルにまで求めるのは非現実的なないものねだりに等しい。実現不可能を可能として求めるようなものだろう。誰が日々<凛とした>態度で行動しているだろうか。
大体が安倍首相自身が体現していないことを求めているのだから、ウソつきが他人に正直な態度を求めるようなもので、単に言葉でこうあるべきだとし、言葉だけで終わる、もっともらしい言葉を骨組みとした中身は何もないハコモノの「美しい国づくり」となっていくのは既に目に見えている。
ハコモノで終わるのは一向に構わないが、ハコモノだと気づかずに結果として臭い物にフタの役目を果たして、「美しい国、日本」、あるいは<日本人ならではの感性、知恵、工夫そして行動を自覚する>美しい日本人だけが強調されてそれだけが一人歩きした場合、日本人優越意識に結びつくことの危険はどこにもないだろうか。
次にプロジェクトの進行方法を眺めてみる。
<「美しい国づくり」プロジェクトとは?
私たちの国の、理念、目指すべき方向としての4つの柱にもとづき、私たちの国、日本には、様々な分野で本来持っている良さや『薫り豊かな』もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあること、をも踏まえながら、私たち日本人一人ひとりの中にある、豊かな未来につなげようとする活力の源と言える日本に対する思いを、引き出すことです。
そして、日本に対する思いを通じて、国民一人ひとりが、日本人ならではの感性、知恵、工夫そして行動を自覚する、きっかけを創ることです。
"日本らしさ"を、毎日の生活や日々の仕事を通して磨きあげていくことで、いきいきとした、豊かな国としての成長につながっていきます。加えて、こうした国の姿や国民の行動を、堂々と世界に発信していきます。
そこで得られた理解や共感は、世界から認められ、愛され、信頼されることにつながり、そのことが、私たち自身の誇りや、自覚を促し、私たちの国の未来を確固たるものにします。>
相変わらず日本人に限らず、すべての人間が利害の生きものであるとする視点を持たずにどうあるべきかを論している。現実の人間の姿・営為を土台とせずに、その上に美しいだけの姿をつくり上げようとしている。公務員制度改革を現実の公務員の姿を土台とせずに改革しようとするようなものであろう。その間違いに気づいていない単細胞を犯している。安倍首相らしいと言えば、安倍首相らしいと言える。
人間は自己利害の生きものだから、まず自己への思いを出発点とする。自己なくして、人間は存在し得ない。このことは政治家が<日本に対する思い>からではなく、選挙の趨勢や自己地位の底上げを自己利害として行動することに象徴的に現れている。「日本のため」はそのための方便に過ぎない。族益・省益を行動の優先条件としていることにも現れている<日本に対する思い>の幻想である。
自己への思いを否定、もしくは無視した、国としての<日本に対する思い>への優先は権威主義的な強制なくして成立しない。それは戦前の「天皇のため・お国のため」が何よりも証明している。安倍国家主義者がそのような日本人を求めているのだとしたら、「美しい国づくり」プロジェクトは間違いではない。だからプロジェクトの方針、目指すべき方向に現実の人間の姿が見えない内容となっているのだろう。
<日本に対する思い>は強制によるか、自己利害に叶う場合にのみ発揮される態度成分でしかない。そのような強制がない場所でのそれぞれの日本人のそれぞれの自己への思い・自己利害が現在の日本人の姿・営為をつくり出している。となれば、強制もなく、自己利害を基本的な行動ルールとする人間の自然な存在性を土台として社会のルールに反した場合、同じ強制でも、反社会行為を禁ずる法による強制でその自己利害行為をコントロールするしか方法はない。
その繰返しが現実の人間社会でもある。
このような客観的認識を持てないから、<本来持っている良さや『薫り豊かな』もの>といった、人間の現実の姿・営為から遠く離れた非現実的なたわいもないことが言えるのだろう。 日本人の現実の姿・営為から離れた提案だから、実質的には日本人、あるいは日本の国の美しい輪郭を描くだけで終わっている。<本来持っている良さや『薫り豊かな』もの>をあげつらって、社会保険庁職員の保険の管理・運営の杜撰さ・怠惰・怠慢を正す力となるとでも言うのだろうか。緑資源機構以下の官製談合行為や天下りを利用した私益・私腹行為をなくす力となると思っているのだろうか。<本来持っている良さや『薫り豊かな』もの>が、それが日本人の資質として存在するとしたならの話だが、人間の自己利害行為に何ら力とならないから、現在の矛盾多き日本の社会となっているはずである。その現実性に反して、あげつらい、力としようとしている。
このことは上記掲げた提案と同じことの繰返しに過ぎない次の提案にも現れている。
<プロジェクトの進め方は?
美しい国づくりプロジェクトでは、私たち日本人の暮らしや仕事の中に息づいている、本来持っている良さや「薫り豊かな」もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあることを踏まえながら、皆さんと一緒に、一人ひとりが日本"らしさ"を見つめなおすことから始めていきます。
そして、これからの私たちの成長や活力の"糧"として、日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動に気づき共有し、そのことを日々の暮らしや仕事の中で磨き上げ、創り出していくことで、「美しい国、日本」を築いていくことを目指しています。
また、こうした私たちの姿や行動を世界に発信することで、世界から理解や共感を得て、愛され、信頼につなげていくことを目指しています。
こうした取り組みを繰り返すことで、私たち自身の誇りや自覚を促し、私たちの国の未来を確固たるものにしていきます。>
人間の持つ自己利害性や社会のルールに従う・従わせるとする基本的態度のない場所に<日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動>だとか、<私たちの姿や行動を世界に発信する>、<世界から理解や共感を得て、愛され、信頼につなげていく>といったいいこと尽くめの言葉を散りばめて現実社会の一般的な姿を無視した「美しい国づくり」の実現を図り、<日本"らしさ">の金字塔を打ち立てようとしている。
現実社会の一般的な姿を無視しているゆえに現実社会の一般的な姿から遊離することとなる「美しい国」、あるいは<日本"らしさ">の打ち立ては、遊離した姿であるという一点でまさに日本人の一般的な姿への臭い物にフタの役目を果たすだけではなく、そのような現実の姿に対する臭い物にはフタによってこの日本は<活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」>だとする肯定的価値のみの支配を許すことにもなる。このような自国に対する客観性を欠いた肯定一辺倒の位置づけが日本国家の優越性、あるいは日本民族の優越性につながらない保証はない。
その危険性を次の項目で嗅ぎ分けてみる。
<具体的なプロジェクトの内容は?
「美しい国づくり」プロジェクトでは、以下のような、身近な“私たち視点”で参加できる、皆さん一人ひとりの思いを引き出す企画(推進施策)に取り組んでいきます。
・あらゆる世代の気づきを促す企画
日本の「薫り豊かな」ものや途絶えてはいけないもの、か
つては美しかったが美しくなくなってしまったものを見つ
め直し、あらゆる世代が日本の「良さ、素晴らしさ」に気
がつくこと。
・身近な視点での取り組みを推進する企画
一人ひとりが、「美しい日本づくり、美しい自分探しへの
旅」を始め、その思いをきっかけに自らが行動するような
身近な視点での取り組みを推進すること。その結果、描き
出されたものを「美しい国、日本」として皆で共有し自覚
し合うこと。
・世界とも分かりあえ、共感しあうための企画
“諸外国の国民とも理解しあい、認め合う”という視点で
、私たちの姿や行動を堂々と発信すること。
これら企画については、「美しい国づくり」企画会議で審議します。
これら取り組みを通じて、皆さんと共に思いをめぐらせ、歩み、築いていきます。>
ここには党利党略や権謀術数の渦巻く政治の世界も自己利害抗争に明け暮れる一般社会も存在しない。人間が自己利害から離れた肯定的な姿を常に見せるわけではないにも関わらず、そのことを無視してすべてが肯定的な姿で把えられている。
そして<「美しい日本の粋(すい)」のご応募を楽しみにしております!>と、「日本」を肯定づけ、肯定の衣服のみで覆おうとする作業に国民まで動員しようとしている。
<美しい国づくりプロジェクトの企画一覧
・美しい日本の粋(すい) ~伝えたい私たちの美しさ~
失ってしまったものも含め、なくしてはいけない日本の“らしさ”“ならでは”を教えてください
募集期間:平成19年4月20日(金)~6月22日(金)>
日本のありとあらゆる社会、ありとあらゆる場所に我が物顔にのさばっている官製談合とか政官のムダ遣い、税の私腹、政治家・役人の怠惰・怠慢、企業犯罪、企業の重大な手抜き人災事故等々がもたらしている様々な矛盾と不正と虚偽と不公平・不公正を抹消できなければ、いくら日本の自然が美しかろうと、いくら<美しい日本の粋(すい)>を応募させ、甦らそうと、<日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動>を力として伝統料理や伝統工芸、伝統建築、伝統造園といった様々な分野で日本人が伝統的に素晴らしい技術を発揮して素晴らしい製品を数々残し、現在も新たにつくり続ける永続性を持とうとも、これらは様々な矛盾と不正と虚偽と不公平・不公正が日本人の支配的な営為となり続ける日本の社会に於いて個別的な力・価値しか発揮できず、社会全体を美しく彩るまでには至らない。そのことは目の前にある現実の社会そのものが証明している。
それはなぜかと言うと、<日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動>、あるいは<美しい日本の粋(すい)>が力となってもたらす技術と、それらが力とならずに一般社会で発揮されることとなる人間性は別個の構造式を持つからだろう。
現在でもアジアの国々の一部で日本人が信用されないのは技術力に対してではなく、日本人の人間性に対してであり、そのことが証明している技術と人間性の関係式であろう。
簡単に言えば、日本人が伝統工芸にいくら力を発揮しようとも、日本の料理がいくら素晴らしくても、それらを内容とした日本の文化が<美しい日本の粋(すい)>の集約であり、そこにいくら価値と栄誉を与えようとも、政治家・官僚・企業が不正を行い、誤魔化しばかり働いていたなら、意味はないと言うことである。人間の価値はその人間性によって測られるべきで、技術によって測ることはできない。
技術は確かにカネをもたらすが、信頼は人間性によってしかもたらされない。
人間の現実の姿・営為から離れた日本の美しいとこ取り一辺倒の「美しい国づくり」プロジェクトは学校での愛国心教育と奇妙に重なる。日本にはこういった素晴らしい文化があります、美しい自然があります、素晴らしい習慣があります、伝統があります、だから郷土を愛し、日本という国を愛しましょうと肯定的な色彩で日本をまぶす。
しかし人間が自己利害の生きものであることのどのような自覚の植え付けもないこのような日本という国を美しく彩るだけの教育が現実の子供たちの姿にどう反映し、彼らが大人になったとき、その人間性にどう埋め込まれていくというのだろうか。彼らの行動にどのような規律を与えるというのだろうか。日本の国は美しいとする先入観のみを植えつけられたとしたなら、その代償として自己の利害行動に対するどのような客観的省察能力も育まれることなく成長する危険を抱えることにもなる。そのような能力の欠如が行過ぎた自己利害行為の蔓延・横行を許している。
〝日本肯定〟を唯一の目的駅としている「美しい国づくり」プロジェクトは1937(昭和12)年3月刊行の『国体の本義』とも重なる。安倍首相は『国体の本義』の精神を出発点として、「美しい国」思想をつくりあげたのではないかと疑いたくなる日本肯定思想の一致を見ることができる。
「一大家族国家」だとか、「忠孝の美徳」、「我が国の政治は、神聖なる事業であつて、決して私のはからひ事ではない」、「天壌無窮・万世一系の皇位・三種の神器」、「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」、「我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる」とする人間の現実を無視した日本肯定思想は安倍首相の日本を美しい色彩のみで肯定しようとする「美しい国、日本」とも符合するもので、『国体の本義』が体現している「神聖」及び「永遠」をキーワードとした民族的優越意識にいつ染まらないとも限らない肯定一辺倒を目指している。
戦前肯定・戦後否定の国家主義者なのだから、当然のいつか来た道への後戻りと言うべきか。