安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(4)

2007-05-11 02:07:39 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S16/12月8日(月)(前略)今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む。前12・00(正午)防空下令、夕刻警戒官制施かる。 

 S16/12月25日香港、本夕降伏を申出で、7・30停戦を命ぜらる。陸軍9・40上聞す。
 常侍官出御の際、平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど、仰せありたり。

 〈注〉おどろきの発言である。
 天皇は南洋の島々を平和回復後に「日本の領土となる」といっている。此時点では勝利を確信していたのか。
    
 ――まだアメリカと本格的な戦闘状態に入っていない、石油禁輸・屑鉄禁輸・在米資産凍結がどう響くかわからない状況下で、緒戦の「大戦果を収む」だけでその気になったのか。だとしたら、天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」を信ずるに至ったのか。
 
 S17/1月9日(金)(前略)本日午后4・00、首相拝謁の願出あれば、その機会に申上げをし然るべき旨伝ふ。首相拝謁の際、申上げたるものと察す。〈後略〉

 (注)この日の東条拝謁時の、天皇の面白い発言が『東条内閣総理大臣機密記録』に残されている。
「米英等に於て作曲されたる名曲〈例えば蛍の光の如し〉をも、今後葬り去らんとするが如き新聞記事ありし処、如何処理しつつありや」
 東条あわてて「そんな小乗的なことはしません」と答えたという。
    
 ――1年後には「そんな小乗的なこと」をした。

 「1943(昭和18)年1月13日には、内務省と情報局が『ダイアナ』や『私の青空』『オールド・ブラックジョー』『ブルー・ハワイ』など米英音楽1,000曲を敵性音楽としてリストアップし、演奏を禁止した。中でもジャズは「卑俗低調で、退廃的、扇情的、喧騒的」として徹底的に排斥された。代わって巷には、「加藤隼戦闘機」(空中戦の軍神といわれた加藤建夫少将を称えた歌)「お使いは自転車に乗って」の流行歌が流れた。」(HP「非国民」

 S17/2月15日(日)〈前略〉午后7・50、シンガポールにて敵軍無条件降伏す。5・50の参謀総長は同上の件上奏。ラヂオは10・10分、大本営発表を放送す。

 〈注〉紀元節までに攻略する。それが作戦発動当初の予定であった。やや遅れてこの日に英軍降伏となったが、実は日本軍の弾薬は底をつきかけていた。ゆえに軍司令官山下奉文中将は戦闘継続を恐れていた。巷間伝わる敵将パーシバルに「イエスか、ノーか」と居丈高に迫ったという話は故意に、つまり戦意高揚のために作られたもの。山下自身はのちのちまでその話は嫌悪していたのである。

 ――【紀元節】「1872年(明治5)、日本書記伝承による神武天皇即位の日を紀元の始まりとして制定した祝日。第2次大戦後廃止されたが、1966年(昭和41)「建国記念日の日」として復活した」(『大辞林』)

 歴史の長さだとか民族だとかを権威とする国家主義が戦後も生きていいる証拠。

 S17/2月17日(火)シンガポール島を昭南島と改称せらる。

 〈注〉『木戸幸一日記』に、木戸がシンガポール陥落のお祝いを述べたときの、天皇のすこぶる元気な発言がある。
「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」 
    
 ――天皇がもし君子だとしたらの話だが、君子豹変す、といったところか。S15/10月12日の日記には、「支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり」の天皇の言葉があり、S16/1月9日(水)には「結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」と同様の言葉を述べている。

 軍部が「1ヶ月くらいにて片づく」とした支那事変が「4ヵ年の長きにわたってもまだ片づか」ない見通しの悪さで「支那を見くび」り、すべてに於いて日本よりも国力が遥かに優っているアメリカを「見くび」らなかったと早断定したというのか。

 S17/3月9日(月)ジャバ島全軍無条件降伏、10・30発表せらる。戦果益々挙る。目出度き極みなり。御満悦さこそと拝察される。

 〈注〉3月7日ジャワのバントンのオランダ軍降伏、8日ビルマのラングーン占領。ニューギニアにも上陸と、日本軍の快進撃は続いた。天皇は木戸を読んで、戦況を隠すことなく伝えて喜びの言葉を発した。
「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」

 S17/4月18日(土)帝都各所に初めて爆弾、焼夷爆投下せらる。〈後略〉

 〈注〉後の侍従長、藤田尚徳の「侍従長の回想」に、この日のドゥリットル・B25爆撃機16機による、日本本土空襲に際しての宮中の狼狽ぶりが実写されている。
 侍従「陛下、空襲です。お退りください」
 天皇「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣〔嶋田繁太郎〕がやってきて、空襲に来ても夕方だろうといっていた」
 侍従「いや、いま東京を空襲しているのでございます。おやはく・・・」
 侍従が誰かは不明。小倉侍従ではないようであるが。
    
――S16/12月8日の「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む」から4ヵ月余経過したのみで初めての空からの侵入を安々と許して空爆させる。しかも目視可能な昼間に正々堂々の爆撃を受ける。長期戦化し、防御体制が次第に崩されてからの侵入を許すというなら話はわかるが、初めての飛来であるにも関わらず侵入を許す見事な防空体制。天皇の「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」が早くも怪しくなってきたか。

 S17/4月27日(月)一昨日の靖国神社御参拝の新聞写真は、今回の分あらざる模様に付、取調べたる所、昨年4月分にて、今回の御分が不出来に付、昨年分の掲載を宮内省にて許可したる由。天知る、地知る、何処かよりは現はるるものにして、便宜主義は不可なるべし。一億国民をあざむくものにして、御上に申訳なきことと愚考せらる。
    
 ――写真の付け替えぐらいの捏造、世論操作の「便宜主義」の類、戦後日本の歴史・伝統・文化として教育タウンミーティングでまだ続いていたのだから驚くには当たらないのだが、小倉侍従に於いてはその時点でまだ気づかぬことゆえ、仕方のないことか。

 S17/5月7日(木)コレヒドール島陥落。陸海軍に勅語を賜ふ。
 S17/5月8日(金)本夕、軍令部総長参上後、珊瑚礁海戦の大戦果発表せらる。

 〈注〉7日、8日と2日間にわたった珊瑚礁海戦では、米世紀空母1隻撃沈、1隻中破の戦果を挙げた。損害は軽空母1隻喪失、正規空母1隻中破であったが、日本軍は追撃を中止し、ポートモレスビー攻略の目的は達せられなかった。報告に参内した軍令部総長に天皇は言った。
「戦果は大いによかった。弱った敵を全滅することに手抜かりはないだろうね」
 永野は仕方なく追撃を中止したことを奏上する。そのときの天皇の言葉はきびしい。
「かかる場合には敵を全滅せざるべからず。〈作戦指揮をした〉第4艦隊長官は井上〈成美〉ならん。〈彼は〉事務に明るからんも戦のことは分りをらざる事なきや」(「嶋田繁太郎大将備忘録」)  
    
 ――とても「立憲国の天皇は憲法に制約される」として、発言しないことを心がけている人間には思えない。尤も国家元首、統帥権者としては当然な姿である。〝追撃中止〟は余力がなかったからだろう。あれば、バカでも追撃する。 

 S17/6月7日(日)昨日辺りより、御気色、少しく御不良に拝す。海軍の戦果に付てにはあらざるかと推せらる。

 〈注〉この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた機動部隊の主力である空母4隻を喪失した。小倉日記にはその記載はなく、不機嫌な天皇の姿のみ見える。『木戸日記』には6月8日「今回の損害は誠に残念であるが。軍令部総長には之により指揮の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置いた」との天皇発言が記されている。 
 私が調べたところでは、軍令部は損害は空母2隻と天皇に嘘の報告をしていることが分かった。軍は国民を欺すと共に、大元帥陛下をも欺していたのである。
    
 ――開戦から半年で戦果を捏造しなければならない。1ヶ月の見通しの支那事変が4年経過してなお進行形なのも、誤魔化しの上に誤魔化しを積み重ねてきた結果ではないか。但し、元々誤魔化しの政治体制、誤魔化しの立憲君主制だったのである。「日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と背伸びだけは一生懸命に背伸びをして、大日本帝国なる名称を詐称していた。

 S17/6月9日(火) 御製御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり。
 
 〈注〉ミッドウェイ海戦の戦果は始め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である。
    
 ――「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」が糠喜びだ気づいたのだろうか。 

 S17/8月8日(火)常侍官出御(8・15-8・35)。侍従長(11・30-11・40)。海軍上聞(11・50-11・54)。内閣(12・55)海軍上聞(1・00-1・05)。(後略)

 〈注〉伊藤正徳『帝国陸軍の最後』に、出典不明であるが、興味深い記述がある。この日、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島上陸との報告を受けて、「陛下は愕然として起ちあがられた。それは米英の反攻開始ではないか。今日光なぞで避暑の日々を送っている時ではない。即刻帰京して、憂をわかち、策を聴かなければならぬ。帰還方用意せよ」
 米軍のガ島上陸を反攻開始と察知したのは、少なくとも史料に見るかぎりでは天皇だた一人である。
    
 ――「策を聴」いたとしても、口出しできなければ、却って欲求不満、イライラを増すことになるだけ。立憲君主が事実としたら、すべてが終わったときの結果を待ち、その報告を「意に満ちても満たなくても」受け入れるしかない。

 天皇を取り巻く実質的政治権力者には名目的存在。国民に対しては、尊い、神聖にして侵すべからざる現人神。インチキそのもののその二重性を戦後に学んだからこそ、A級戦犯合祀に拒絶反応を持つに至ったのではないのか。その二重性によって、A級戦犯となった者を筆頭にした彼らから誤魔化しの戦果を受ける誤魔化される存在であったことを学んだ――。
 
 S17/10月27日(火)南太平洋海戦、大戦果発表。

 〈注〉ガダルカナル島争奪をめぐって日米は全力を結集して戦った。陸軍の総攻撃の支援のために出動してきた日本の機動部隊と、これを迎え撃つための米機動部隊とが衝突、ミッドウェイ海戦以来の航空決戦が展開された。「高松宮日記」10月28日の項。
「昨日お上のお話にて、参謀総長、侍従武官長もあれだけの損害で攻撃挫折したるは弱い。日露戦争のときは旅順などではもつともつと大損害でも攻撃したのにと云つていたとのことなり。陸軍の話では、夜戦にて上級指揮官が多く倒れたので攻撃力がなくなつたとのことであった。
 陸も海も攻撃挫折の報告に、天皇は切歯扼腕している。
 
 S17/12月11日(金) 伊勢神宮御参拝の為め、京都へ行幸。本日は御参拝前なるを以て、拝謁その他、御行事は一切願わず。陸軍上聞(7・00尾形)常侍官候所出御(7・10-8・57)明朝朝御発に付、御格子を御早く願いたり。
 本夜、常侍官出御の節、左の如き思召、御洩らしありたり。
 (1)戦争は一旦始めれば、中々中途で押へえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦を始めるときは、余程慎重に考へなければならぬ。大山〔巌〕元帥は日露の役の際、自分の軍配の上げ方を見て呉れと言つたそうだが、卓見だと思う。今は大山が居ない。戦争はどこで止めるかが大事なことだ。
 (2)自分は支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである。且つ、自分が得て居る情報では、始めれば支那は容易なことではいかぬ。満州事変の時のようには行かぬ。外務省の情報でも、海軍の意見でもそうであつた。然し参謀本部や陸軍大臣杉山〔元〕の意見は、支那は鎧袖一蹴ですぐ参ると云ふことであった。これは見込み違いであった。陸軍が一致して強硬意見であつたので、もう何も云ふことはなかった。
 (3)閑院さん〔閑院宮載仁(ことひと)〕の参謀総長で今井〔清〕が次長であり、石原莞爾が作戦部長であつたが、石原はソヴィエト怖るるにたらずと云ふ意見であつたが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変わった。
 (4)大東亜戦争の初る前は心配であつた。近衛のときには、何も準備出来ていないのに戦争に持つて行きそうで心配した。東条になつてから、十分準備が出来た。然し、12月8前に輸送船団が敵に発見されたと云ふことで、駄目かと思つたが良かった。
 (5)支那事変で、上海で引つかかつた時は心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来ているのも、陸軍は知らなかった。引っかかったので、自分は兵力を増強することを云った戦争はやる迄は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於て、戦は中々やめられぬことを知つた。(この点は度々繰り返し仰せらる。誠に国家将来の為、有難き御確信を得られたものと奉答す。)。
 (6)自分の花は欧州訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり、花であつた。(と御述懐あり。今後に花のあるのものと考ふる旨、申上ぐ)。
 本夕かかる仰せありたるは、誠に御異例のことなり。確り他言すべからざることを、尾形武官、戸田侍従二人と誓ふ。

 〈注〉戦勢が傾き出した時の天皇の心のうちがまことによく出ている。この京都の夜の天皇と侍従たちのとの語らいについて、侍従武官『尾形健一大佐日記』にわずかにある。
「本夜は珍しく過去の歴史、満州事変後の政務、戦争等に関する御感想を御洩らしあり。戦争を始むるは易く終るは困難なり。御言葉の中に陸軍の戦争指導、戦争準備に関し重要相当機密の御感想を御漏らしあり」
 軍人だけあって、「此に詳細は記し得ず」と尾形大佐は筆を擱いた。今回その全容が初めて明らかになったわけである。それにしても、20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊が「自分の花であった」と振り返る姿は痛々しい。
    
 ――蚊帳の外での繰言。統帥権者としての自覚が全然ない。形式だと自分でも分かっていたからだろうか。

 S17/12月21日(火)御前会議臨席。(11・05-11・45)。侍医頭、出御を御止め申上げたるも御許しなし。仍(よっ)て御場所、東一の間を、御学問所の二の間に変更す。

 〈注〉この御前会議は「対支那処理根本方針」を決定したもの。その内容は、汪精衛自身から申し出のあった参戦の承認、そして対重慶和平工作の全面中止などである。日本はもう対中国戦争に関わって入られないほどの危機に直面していた。
    
 ――対米戦争を始める前から食料不足の問題を抱え、アメリカから石油全面禁輸・屑鉄全面禁輸の措置を受けて物資困窮状態にありながら、兵力を分散することは同時に戦争資材を分散することになるのだから、兵力・資材共に二重に自ら手薄に持っていったようなものではないだろうか。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(3)

2007-05-11 02:00:33 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S16/7月15日(火)近衛首相(4・15-5・23)⑤・43-7・12.ニュース映画御覧。

 <注>三国同盟に基づいて、直ちにソ連撃つべしを主張する松岡外相に手を焼き、近衛は総辞職を考えていた。その意向を表明すると、天皇ははっきりとこういったという。
「松岡だけをやめさせるわけにはいかぬか」
 近衛はびっくりしながら、慎重熟慮の上で善処しますが、ただいまのままでは内閣の存続はどうしても不可能でありますとの旨をやっとの思いで答えた。
    
 ――これも天皇の意志が国策決定の蚊帳の外に置かれていたことを物語る情景であろう。

 S16/7月16日(水)(前略)后9・08-9・10、近衛首相、闕下に全閣僚の辞表を奉呈す。后9・15-9・18木戸内大臣思召。内閣総辞職に付、時局収拾に付思召ありたるものと拝す。后9・20、侍従を思召あり。後継内閣首班者選定の為、内大臣に意見を徴せしむる為、現閣僚を除く、元総理大臣たりし者、及枢府議長を、宮中に召さるべき旨仰せありたり。后9・22-9・30、松平宮相御。明日還幸〔帰還〕の旨仰せあり。 
    
 ――前日に総辞職の意向を天皇に伝えて次の日に「全閣僚の辞表」を提出する。提出する1日前まで天皇に相談もしていなかった。ここにも天皇の形式的存在性が窺える。単に辞表を受け取り、後任閣僚が決まれば、発表する形式的機関に過ぎない。立憲君主というには余りにも〝君主〟の部分から遠い存在。しかしそれが天皇の実質的な存在性であった。
 
 S16/7月22日(火)杉山参謀総長(11・08-11・35)。内大臣思召(1・07-1・35)。

 〈注〉この日、杉山総長に細かく問いつめたことが『杉山メモ』に書かれている。結論の〈総長所見〉の部分のみを引用。「本日の御下問によれば徹頭徹尾武力を使用せぬことに満ち満ちて居られるものと拝察せられる。依って、今後機会を捉へて此の御心持を解く様に申し上げ度き考なり。南か北かそれは如何にやるか逐次決意を要する点等々を段々と御導き申しあげる必要ありと考ふ。本件は一切他言せざる様」
 これによっても、天皇が南進(南仏印進駐)にも北進(ソ連攻撃)にも意の進まなかったことがはっきりしている。しかし日本は、この6日後、南仏印への進駐を開始した。
   
 ――上記『杉山メモ』の〈総長所見〉が奇しくも天皇の置かれた存在性をものの見事に物語っている。「徹頭徹尾武力を使用せぬ」ようにとの天皇の意向を斟酌・検討するのではなく、自分たちの計画を絶対前提として、その計画に天皇の意向を馴染まさせていこうと画策する。

 いわば天皇はついていく存在となっている。但し「立憲国の天皇は憲法に制約される」を理由としているからではないのは明らかである。意に満たないことには口出しをしているのであって、それが有効な力を持ち得ない立場に立たされているに過ぎない。大人たちが子供の意見を先入観から取り上げないのを慣習としているのと似た構図を天皇を取り巻く人間たちが天皇に対して慣習としているかのようである。

 S16/7月29日(火)本日、日本軍、仏印に平和進駐す。

 〈注〉前日の28日に陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。「好機を捕捉し対南方問題を解決する」という国策決定にもとづく軍事行動である。アメリカは、ただちに在米日本資産の凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な経済制裁でこれに対応している。海軍軍務局長岡敬純少将は「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」といった。

 ――「無血進駐」とは言うものの、「大部隊」(=武力)を背景とした「無血進駐」である。「武力を使用せぬ」ようにとの天皇の「御心持を解く」とした7月22日から1週間経過した7月29日の決行である。この時点では「御心持を解」く努力をしたかどうかはっきりしないが、次に挙げる8月5日の日記の〈注〉によって天皇の置かれている状況のすべて分かる。

 S16/8月5日(火)木戸内大臣御召(10・25-11・20)。稔彦(なるひこ)御対顔。(11・25-12・20)。

 <注>東久邇宮稔彦王との対面のさい、なかなかに際どいことが天皇の口から漏れでている。『東久邇宮日記』にある。
「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」 
   
――「仕方なく許可した」は「意に満ちても満たなくても裁可する」原則に反する意志決定であろう。と同時に「どうもほんとうのことを自分にいわない」が天皇の存在性のすべてを物語っている。天皇は自分が国策決定の蚊帳の外に置かれていることを自ら暴露したのである。

 大日本帝国憲法は天皇を日本国の中心に据えながら、その中心たる天皇への求心力は国民を補足して有効とはなっていたが、天皇の下にあって国家権力を動かす者たちには何ら求心力を与えていなかった。

 戦前の天皇制が憲法が描く政治的な天皇制とその政治性を剥いだ非政治的な天皇制と、二重の天皇制に象(かたど)られていたということだろう。政治的な天皇制は国民向けのもの、国民統治の方便としての役目を担い、非政治的な天皇制は実際に政治を動かしている者たちの政治性で彩ることで、天皇の政治とし、それで以て国民を動かす。

 そしてその二重性は律令の時代から日本の天皇制を覆って日本の歴史・伝統・文化としてある。

 S16/9月5日(金)(前略)近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり。

 〈注〉あらためて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる。
 天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」
 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1ヶ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
 杉山「支那は奥地が広いものですから」
 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
 杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。
   
 ――ここまで追及できても、国策に反映することができない「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とする、あるいは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とする憲法の姿とは逆説状況の底に天皇は沈んでいる。

 天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制すべく利用したが、国民が天皇を無条件に信じ、無条件に従う対象とするに至って天皇を完璧に非政治的な場所に閉じ込めておくことはできなくなった。それで御伺いは立てたり、意見を述べさせたりはするが、政治的役目はそこまでを限度ととしている国策への非反映ではないだろうか。
 
 S16/9月6日(土)<翌日> 内大臣御召(9・40-9・55)。第6回御前会議(10・00-11・55 東一の間)。(後略)

 〈注〉この日の御前会議でよく知られているように、近衛内閣は筋書きどおりに「戦争辞せざる決意のもとに」対米交渉を行い。10月上旬になっても交渉妥結の目途がつかぬ場合には「ただちに対米(英蘭)開戦を決意す」等国策を決定した。天皇は憲法に則り、「無言」を守ることになっている。しかし、このときにかぎりポケットから紙をとりだして、天皇は歌一首を読み上げた。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
 明治天皇の御製である。そして、「なお外交工作に全幅の努力するように」と言った。が、その願いは空しくなる。
   
 ――〈注〉の「天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている」が分からない。旧憲法のどこにもそんな規定はない。立憲君主だから口出しできぬということなのか。だったら、御前会議以外も国の政策には口出しできないはずで、立憲君主であるとする整合性を守るとするなら、上奏の場に於いても、説明を受けるのみとすべきである。御前会議では「『無言』を守」り、上奏の場では〝有言〟となるというのでは矛盾する。  

 S16/9月12日(金)米国より回答。ハル〔国務長官〕、近衛会談前、或程度、要項に付諒解をとげ事務的に進めんとした点、未だ完全なる了解に達せざる模様なり。(後略)

 〈注〉行き詰まった日米交渉を何とか打開するため、近衛はギリギリの賭けとしてルーズベルト大統領との直接会談を8月8日にアメリカ側に申し入れていた。しかし、9月3日に、トップ会談の前に予備会談があるべきであるとの返事が伝えられて、近衛の戦争回避のための必死の想いは空しくなった。
 それが9月の今頃になって宮中に伝えられるとは、奇妙としか考えられない。
   
 ――「9月の今頃になって宮中に伝えられ」たのは、伝える必要なしとしていたからだろう。実質的には国策決定の蚊帳の外に置いていたのだから。立憲君主でもなかったということである。

 S16/10月16日(木)(前略)近衛首相(5・25-5・32 閣僚辞表捧呈)。(後略)

 S16/10月17日(金)(前略)東条陸軍大臣御召。組閣大命降下(4・45-4・47、侍従長侍立)。及川海相御召(4・56-4・57)内大臣(5・04-5・33)。

 〈注〉東条大将に大命降下。『東久邇日記』にある。
「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首相に推薦し、天皇がなぜ御採用になったのか、その理由がわからない」と。
 木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」と感想をもらした。
   
――逆に「陸軍の開戦論者」を勢いづかせる危険をも孕む諸刃の剣となりかねないことは考えなかったのだろうか。策士、策に溺れたのではないのか。

 それにしても「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下」に(4・45-4・47)、とたった2分で済ませている。東条の政策を聞くこともなく、形式的な「組閣大命降下」で終わったのだろう。「及川海相御召」にしても(4・56-4・57)のたったの1分。

 S16/11月2日(日)東条総理、杉山陸軍、長野海軍両総長、同時拝謁(5・03-6・15 対米関係の重要国策に関してと察せられる)。

 <注>陸軍の『機密戦争日誌』にはこう記されている。
 「御上の御機嫌麗し、総長既に御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す。東条総理涙を流しつつ上奏す」
 首相や両総長の説明に効あって、天皇も対米英戦の決意を固めたということだろうか。

 ――軍部にとって意味ある一歩前進であったに違いない。だが歴史的には日本の破滅への一歩前進であった。

 S16/11月5日(水)第7回御前会議(東一の間臨御、10・35-0・30、休憩、再開1・30-3・10)(後略)

 〈注〉この日の御前会議で、11月末までに日米交渉妥結せずとなった場合、大日本帝国は「自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意」という「帝国国策遂行要領」を決定する。武力発動の時期は12月初頭と決められた。
 7月、9月そして11月と、3回の御前会議を経て、〝辞せず〟が〝準備〟になり、そして遂に〝決意〟まで、日本は駆け上がってきた。いや、転げ落ちたてきたというべきか。ぬきさしならぬ道を、ただひとすじに、である。

 S16/11月26日(水)東条陸相(1・30-2・45)。松平宮相(2・55-3・35)。東郷外相(4・37-5・10)。(後略)

 〈注〉米国務長官ハルが一通の文書を日本の野村吉三郎大使に手渡した。それは日本の最終提案乙案にたいする返事で、のちに「ハル・ノート」とよばれるものである。骨子は、
 ①中国と仏印からの日本軍の全面撤退。
 ②日独伊三国同盟の死文化。
 ③中国での蒋介石政権以外の政府または政権を支持しない。
 日本の指導層はこれを読んで声を失った。これでは日露戦争前に戻れといわれているにひとしい。日本の過去の全否定である。とりようによっては、〈最初の一発〉を射たせようとしているとも解釈できた。

 S16/11月29日(土) 重臣御陪食(1・05-2・00 豊明殿)。これより先、重臣は協議(日米問題)し、1時に至るも尚終了せず。一旦休止。御陪食を賜れり。御陪食後、御学問所二の間に出御。召されたる重臣と御談話あらせられる。(後略)

 <注>このときの会議で、戦争突入に反対の意見を述べた重臣(元首相)は、若槻礼次郎、岡田啓介、米内光政の三人である。とくに若槻と東条との論戦は歴史に残る。自存自衛はともかく、東亜新秩序あるいは八紘一宇といった理想に目をくらましてはならぬ、と説く若槻に、東条は反発する。
「理想を追うて現実を離れるようなことはせぬ。が、理想を持つことは必要だ」
 若槻はぴしりといった。
「理想のために国を滅ぼしてはならぬ」と。

 ――A級戦犯東条を持ち上げる向きがあるが、東条英樹の正体をよく見ておくべきである。

 S16/12月1日(月)本日の御前会議は閣僚全部召され、陸海統帥部も合わせ開催せらる。対外関係重大案件、可決せらる。 
 
〈注〉開戦決定の御前会議の日である。
『杉山メモ』に記されている天皇の言葉は、
「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく強調してやれ」
杉山総長の感想は「童顔いと麗しく拝し奉れり」である。
 
 ――「御前会議」では「天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている」としている〈注〉に反して、天皇は発言している。対米開戦に対して、「已むを得ぬ」と条件つきながら励ましの言葉を直接述べている。「立憲国の天皇は憲法に制約される」云々と天皇自身が述べた政府の決定したことに従うとする規定からの発言ということなのだろうか。

だが、これは憲法に規定された天皇の職責に対する責任放棄以外の何ものでもない。「裁可」以外の役目はないことになる。「天皇は内閣が決定した政策・条約等の案件に裁可を与えることを役目とす」だけで憲法の条文は十分である。元首の規定を残すのみで、それ以外の統治権だとか総帥権だとかは不必要になる。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(4)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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