A級戦犯合祀、御意に召さず
S15/1月29日(月)歌会始 御製
西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに
〈注〉第2次大戦のゆくえを憂う歌である。
――「世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに」。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。だが、軍部・政府は日本を支配者の位置に置いた「栄ゆかむ世をこそ祈」っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している。
S15/2月3日(土)夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。
後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる。
〈注〉斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として「ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・」戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。当然、陸軍は「聖戦」を冒涜するといきり立ったのである。「なかなかうまいことをいう」と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
――天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、ものの見事に両者の立場の違いを証明している。
斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には除名を止める力はない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在であることをも証明している。
S15/7月8日(前略)米内内閣総理大臣、后7・19-7・25拝謁。闕下(けっか・天子の前)に辞表を捧呈す。理由は畑陸軍大臣より、近時の政権は所信と異なり、引いて軍の統督を期し難しとの理由にて辞表の提出あり。翻意せしめ難く、又、後任を得難きを以て、辞表を奉呈するの意なり。(後略)
<注>米内内閣が総辞職に追い込まれたのは、ここに記されているように、畑陸相の突然の辞任にあった。「軍部大臣現役武官制」をふりかざして、陸軍が倒したのである。陸軍が米内内閣を嫌ったのは、その政策が新英米的であり、7月3日に策定した時局処理方針をこの内閣では実行に移せぬと認識したからである。①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する、というのがその内容である。では陸軍中央では、だれに後継者としてひそかに白羽の矢を立てていたのか。それが新体制運動の推進者たる近衛文麿であったのである。
そして予定どおりに近衛内閣は7月22日に成立した。
――〈注〉が言う「新体制運動」とは「1940年(昭和15)から翌年にかけて行われた新政治体制の創出をめざした運動。第2次大戦のヨーロッパの戦局がドイツ有利に展開していた情勢を背景として、40年6月24日枢密院議長を辞任した近衛文麿は新体制運動に乗りだすと声明した。8月15日の立憲民政党解党を最後に全政党が解散、第2次近衛内閣が各界有力者を集めて8月23日に設置した新体制準備会での議論を経て、10月12日大政翼賛会が結成された。新体制推進派は翼賛会をナチス的な政党とすることを目論んだが、議会主流や精神右翼は憲法違反として批判し、結局翌1月に政府は翼賛会の政治性を事実上否定する見解を示し、4月に翼賛会が改組されて、運動(自体)は挫折した」(『日本史広辞典』山川出版社)
要するに『新体制運動』とは政党政治否定の運動というわけである。『大日本史広辞典』からの参考と併せて理解できることは、畑は陸軍の意を受けてか、陸軍と共に共謀してか、単独辞職したということである。軍が米内内閣打倒の意志の下に「軍部大臣現役武官制」を主張する限り、米内首相が陸軍大臣の後任候補を陸軍から求めざるを得ないが、協力を得ることはできないだろうから、「後任を得難き」は目に見えていて辞職以外に道はなかったということなのだろう。
このような混乱から見えることは陸軍の意志が天皇の意志を上回って力があるということ以外に何もない。その具体化が「①日独伊三国同盟を強化する。②南方への進出を決意する」の形を取っているということなのだろう。そして憲法の権力保障と天皇の意志の双方に反する事態は当然のことながら、日本が戦争に向かって進展していく事態と並行して展開されていく。
【大政翼賛会】「1940年(昭和15)10月近衛文麿を中心とする新体制運動推進のために創立された組織。総裁には総理大臣が当たり、道府県支部長は知事が兼任するなど官製的な色彩が強く、翼賛選挙に活動したのを始め、産業報国会・大日本婦人会・隣組などを傘下に収めて国民生活のすべてにわたって統制したが、1945年国民義勇隊ができるに及んで解散した。」(『大辞林』三省堂)、
S15/7月27日(土)宮中東一の間に、近衛内閣成立後、最初の大本営連絡会議開催せらる。親臨はあらせられず。前11・40閑院、伏見両総長の宮殿下。11・50近衛首相、夫々拝謁奏上す。恐らく会議内容に関する奏上ならむ。(後略)
〈注〉〝大本営連絡会議〟は正確には大本営政府連絡会議という。このときの会議で、後からみればとんでもない政策をいくつも決めた。日中戦争の処理。三国同盟の強化。(ベトナム、ラオス、カンボジア)の基地強化。東南アジアの重要資源確保などである。それは対米戦争を想定するものでもあった。
――「陸軍中央」が近衛文麿を後継者の白羽の矢に立てた成果の数々が早速にも形を取った。だが、すべてが天皇の意思に反する成果なのは言うまでもない。それを可能とし、旧憲法が描いている天皇の姿を否定する権力力学が横行していた。
S15/9月19日(木)朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(許すこと。許可)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05 御前会議。列席者、
閑院参謀総長宮、伏見軍令部総長宮、近衛首相、松岡外相、河田蔵相、東条〔英樹〕陸相、及川海相、星野企画印総裁。
特に勅旨に依り列せしめられたるもの
原枢府議長、沢田〔茂〕参謀次長、近藤〔信竹〕軍令部次長
会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)
(本日の御前会議は日独伊条約に関する事項の模様なり)
<注>9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、「今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか」と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
この日の御前会議ですべてが決したのである。
――〈注〉が記している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、「憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示であろう。憲法が描く姿に反して、「反対意見」を国策に反映させるだけの現実の姿となっていなかったと見るべきが自然ではないだろうか。
S15/9月27日(金)本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる。
【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」(『大辞林』)
【渙発】「詔勅を広く発布すること」(『大辞林』)
<注>9月24日の天皇の言葉。
「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」(『木戸日記』)
そして詔書の一説。
「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
――自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」も、天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」と「統治」との間に乖離が存在することを示している。
S15/10月7日(月) 新体制出発に付、時局重大なる折柄に付、地方長官会議の機会に西溜の間にて列立配列。
〈注〉新体制出発とは大政翼賛会の発足である。正式には10月12日のことで、その前日の近衛首相に語ったという天皇の言葉が面白い。「このような組織をつくってうまくいくのかね。これではまるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。さすがの近衛も絶句したという、と迫水久恒が『大日本帝国最後の四か月』に楽しそうに書いている。
――「まるでむかしの幕府のできるようなものではないか」。文明開化、近代化を旗印にしていても、旗印だけのことで、明治の政治権力も江戸幕府を受け継いで本質的には権威主義を構造とした国家主義国家であって、それを伝統とした日本の政治体制が戦争という形で国民を一つの方向に向かわせようとするとき、そこから外れさせない国家による国民統制の方法として「大政翼賛会の発足」といった社会の全体管理は当然の進行であり、それが「まるでむかしの幕府のできるようなもの」だとする相似性も当然の結果性であろう。そして「大政翼賛会」の名残りが全国自治会連合会の形で現在も引き継がれている。
S15/10月12日(土)聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき。
<注>天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる。
――確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」は「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない状況を浮かび立たせている。
S15/11月10日(日)一天快晴。二千六百年式典、両陛下出御。御予定の通り行はせらる。
――天孫降臨だ、天照大神の天の石窟(あまのいわや)だといった高天原神話・建国神話が如何に役立たない合理性を持たない形式に過ぎないかが分かる。だが、多くの日本人がそういったことを勲章としている。2600年の歴史だ、アメリカは高々200年の歴史しかないではないかとか。
S16/1月9日(水) 常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり。
<注>15年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。たとえば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある。
「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」
大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが「中国一挙論」とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の「日本は支那を見くびりたり」はそのことを衝いている。
【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」(『大辞林』)
――天皇の「日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」としていることやその他から<注>は「天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい」としている。事実その通りであっても、戦争拡大は軍人たちの「中国一挙論」そのものよりも、天皇自身が旧憲法が謳うのとは反対に従属した存在であった関係から、天皇の戦争中止論が「中国一挙論」の前に力を持たなかった力関係に帰着する問題であろう。
政府・軍首脳に伝えても力は持たない結果、侍従にも「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とこぼす情景を生じせしめることになる。
「西園寺公と政局」の譬え話にしても、「蒋介石が倒れるまでやります」の返答にどのような理由があってのことか、そして早期に倒せるどのような成算・どのような方策があるのかを問い質すべきであったろう。
また戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。いわば天皇と軍部との関係は相対的な関係にあり、終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで軍は策を失い、力をなくして天皇が相対的に力を回復したから出せた〝英断〟といったところだろ。軍が力を残していたら、出せなかった〝英断〟というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなかればならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の〝英断〟に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく。
S16/1月13日(月) 后3・○○―4・50、杉山参謀総長拝謁。御下問ありたる為、長時間に亘りたる模様なり。
<注>『木戸日記』1月18日、杉山総長にいろいろ問いただしたことが記されている。「種々突込んで質問してみたが、要するに総長の意見は用兵上漢口方面を撤退し、主導作戦を受動作戦となせば到底戦争は有利に解決すること困難となるべきこと、及び将来平和会議等の場合、東洋方面におけては枢軸国が負けたるかの如き印象を与ふるの虞あり。何れにしても戦線の整理縮小は慎重を要すとのこと」というものであった。天皇はこれに対して、戦争を長引かせることは「財政上の見地よりして果して我国力堪へ得るや否や」と詰問した。それはこの日であったのだ。
――この場面にしても「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」としているタブーは見当たらない。そこにあるのは〝意に満たない〟という経緯をベースにそれを〝意に満つ〟方向に持っていこうと意志する働きである。それが決定的な力を獲得し得ない。そのもどかしさ、苛立ちだけが伝わってくる。
弟の秩父宮が三国同盟の締結を進めるために週に3回天皇を尋ねたというのも、天皇の反対意志に関係なく締結ができたのだから、天皇の決定にかかっているからではなく、単に天皇の決定を錦の御旗の御墨付きとして締結に向けた弾みとしたかったから、天皇を賛成派とすることを自分の手柄としたかったからなのかもしれない。
S16/4月13日(日)后3・30-3・43、近衛首相(モスクワにて松岡外相、スターリンとの間に不可侵、不侵略条約成立せる旨奏上。直に松岡、建川(美次、中ソ大使)に御委任状の上奏ありたり。)(後略)
〈注〉ヨーロッパ訪問中の松岡外相は、この日、ソ連でスターリンに会う機会があり、「どうです。電撃外交をやって、全世界をアッといわせようじゃありませんか」とささやいた。スターリンは即応し、日ソ中立条約がアッという間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵を決めた条約で、有効期限は5年とされた。ところが、2ヶ月余たった6月22日、ドイツはソ連に侵攻する。スターリンが松岡の誘いに乗ったのは、こうした危機的事態の到来を予期してのこと。外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった。
――日独伊三国同盟の締結。そしてのちに何の保障にもならなかったと判明する日ソ中立条約にまで歴史は進んだ。
S16/5月8日(木)〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄。
〈注〉この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった。「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」
天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に「外相をとりかえた方がいいのではないか」と洩らしたという。
――〈注〉で見せている見事な松岡外相の壮大な先読みからすると、「外交的腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかった」としているが、なかなかどうして小賢しいばかりの権謀術数ぶりである。独伊に対する「信義」をすべてとするばかりで、次の読みに乗せるべき「信義」の結果=日本の国益・日本の将来を展望していないのだからスターリン以上とすべきではないか。
だが、そのことよりも天皇が外相更迭の決定もできなかったことを問題としなければなない。軍部の誰よりも、政府の誰よりも日本が置かれている状況を客観的・合理的に読み取る能力を持ちながら、憲法が描くのとは異なった従属的傍観者の立場に立たされていたために、このことこそ問題なのだが、日本が坂道を転げ落ちるように危機的な自殺方向に邁進していくのを手をこまねいて見守るしかなかった。
日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたということではないか。
S16/6月22日(日)(前略)松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)。
<注>独ソ戦をうけて松岡拝謁が終わったあと、木戸を呼んでいった言葉が『木戸日記』にある。
「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」
松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである。
――ここまで客観的・合理的に状況、あるいは戦局を把握していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった。この国を子孫に伝えるとするからには伝えるにふさわしい国の形を残す天皇なりの努力をすべきで、立憲君主だからは言い訳にはならない。
S16/7月2日(水)漸10・05-12・00御前会議(東1の間。独ソ開戦に伴う重要国策に付、決定ありたるものなり。政府発表)
<注>この7月2日の御前会議こそ、大日本帝国がルビコンを渡ったとき、とのちに明らかとなる。一方でドイツの快進撃に呼応して対ソ戦を準備しつつ、その一方で、対米英戦争を覚悟し南部仏印進駐を期待する。南北の強攻策である。決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、「目的達成のため対米英戦を辞せず」の一行がまぶしく映ずる。
――いよいよ戦争遂行政策は佳境に入ってきた。「目的達成のため対米英戦を辞せず」。ここには戦後証明されることになる「国力に省み果たして妥当なりや」の天皇の懸念は一切反映されていない。
《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(3) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
A級戦犯合祀、御意に召さず
敢えて刺激的な言葉を使って、安倍国家主義の愚かさを衝く。
07年04月26日の朝日新聞。
≪逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ≫
<晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。(後略)>
06年7月20日読売新聞インターネット記事。
≪昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ≫
<昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
富田氏は年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。>
卜部侍従と故富田宮内庁長官の天皇が語ったとしている日付は共に1988年4月28日。
戦前の天皇は立憲君主とされていた。立憲君主制とは、「憲法に従って君主が政治を行う制度。君主の権力が憲法によって制限されている君主制」(『大辞林』)ということだから、昭和天皇の権力は大日本帝国憲法によって制限されていた。天皇の権力を戦前の『大日本帝国憲法 第1章 天皇』は次のように規定している。
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一條
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十三條
天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
【統治権】「国土・国民を治める権利」
【総攬】「掌握して治めること」
【統帥】「軍隊を支配下に置き率いること」
第一条の「統治権」と第十一条の「統帥権」等は旧憲法下では天皇の大権として、政府・議会から独立したものとされていたという。ということは、天皇は立憲君主とは言うものの、その権力は憲法の制限を受けていたというよりも、逆に憲法がその絶大なる権力を保障していたと見るべきではないだろうか。
国家の元首として国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、それらは政府・議会から独立した天皇個人に帰する権力であり、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされていたのである。
天皇の権力が政府・議会から独立していたからこそ、国の重要政策決定機関として、政府や議会とは別の場所に御前会議を設けることができたのだろう。独立していずに設けていたとしたら、政府・議会を否定する越権行為となる。
では、旧憲法に表現されているのではない現実の天皇は旧憲法が保障する絶大な権限を憲法の保障どおりに体現していたのだろうか。旧憲法の条文に登場する天皇と現実世界に登場している天皇とが一致するのかどうかということである。勿論、憲法がそうと規定している以上、一致しなければならない。一致したとき、日本の戦争は昭和天皇の戦争だったと断定できる。何しろ「陸海軍ヲ統帥ス」と規定した統帥の大権を正真正銘自らのものとしていたということになるのだから。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と高らかに規定していた天皇のその大権の支配を受けて、国民はその支配行為の一つとして戦争を演じた。
戦前の天皇が置かれていた状況――天皇は戦前どのような存在とされていたのか、憲法の規定どおり、あるいは保障どおりだったのか、それとも違った姿を取っていたのか、これらを明かすために侍従として天皇に身近に接していた人物が書き遺した『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を主な資料として、そこから色々と引用して『日記』から窺うことができる戦争の推移、その状況と共に探ってみる。
日記の日付の先頭に年数が一目で分かるように、昭和14年なら、「S14/」と付け、用いられている漢数字を便宜上算用数字に置き換えた。〈注〉を用いた解説は半藤一利氏(昭和史研究家・作家)によるものだが、非常に参考になるためにほぼそのまま引用する。私自身の解釈等は文頭に――を示す。
「はじめに」に、「小倉侍従は侍従職庶務課長として、各大臣や陸海統帥部総長や侍従武官長などの天皇への拝謁の時間調整を担当して」いたとある。
文藝春秋に記載された『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦2日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。
当時日本は日独伊三国同盟を締結するかどうかの議論がせめぎあっていた。5月9日の〈注〉には〈この頃、昭和11年11月広田弘毅内閣のときに締結した日独防共協定を、軍事同盟にまで強化する問題をめぐって、平沼騏一郎内閣は大揉めに揉めていた。陸軍の強い賛成にたいして、海軍が頑強に反対していたのである。このため平沼首相、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相による五相会議が連日のように開かれていたが、常に物別れとなり、先行きはまったく見えなかった。〉とある。
天皇はどうかというと、S14/5月11日、5月12日の日記の〈一歳下の弟宮〉秩父宮と天皇の対面を解説する〈注〉が明らかにしてくれる。
〈注〉『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている。
「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を進めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」
そのことが裏つけられる記述である。
――昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。当然その反対は、政府・議会から独立した天皇の大権としてあった「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「陸海軍ヲ統帥」する者として、国策に反映されることになる。
だが、締結賛成派の秩父宮は反映されては困るから、「私の処に来て同盟の締結を進めた」のだろう。逆に憲法の姿に反して天皇に決定権がなければ、「一週三回くらい」も天皇に面会を求めて締結するように求めはすまい。
ごく常識的に考えるなら、秩父宮は憲法の姿そのままに天皇の決定にかかっていることを前提に天皇の反対から賛成への翻意を求めて天皇の説得に努めたと見るべきではないか。
ここで問題となってくるのは昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる<「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」>(06.7.13.『朝日』朝刊/『侍従長の回想』)ことを開戦を阻止できなかった理由に挙げていることとの整合性である。
「憲法上の責任者」が内閣であるとすると、旧憲法の天皇に対する絶大なる権力の保障は見せ掛けと化す。
大日本帝国憲法は第四章で「國務大臣及樞密顧問」の役目を次のように規定している。
第五十五條 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大
臣ノ副署ヲ要ス
第五十六條 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇
ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ國務ヲ審議ス
【輔弼】「天子の政治を助けること。旧憲法で、天皇の機能行使に対し、助言を与えること」
【諮詢】「参考として問い尋ねること」
【諮詢機関】「旧憲法下、天皇がその大権を行使するにあたって意見を徴した(求めた)機関。枢密院・元老院。元帥府など。(以上(『大辞林』三省堂)
どの条項を取っても、天皇は他の機関の上に位置していて、決して下には位置していない。求めた意見に対して「意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」といった意志決定の構造はどこを探しても見当たらない。
内閣に関しては旧憲法とは別に明治22年に制定され、昭和22年5月に廃止された内閣官制があり、その「第二條 内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」となっていて、天皇の意志の優先を謳っているし、「第七條 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下附セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣總理大臣ニ報告スヘシ」は、憲法上の主人公があくまでも天皇であることを示している。
【機務】「機密の政務・非常に重要な事務」
【奏宣】「天子に申し上げること」
【旨】「心持・意志」
【承ケ】「謹んで承知する」
【奏上】「天皇に申し上げること」
とすると、天皇は開戦責任に関して事実と反する責任逃れを働いたのだろうか。
S14/6月26日日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。
聖上、皇后宮、御用品中、金製品並に金を主とする御装身品等を御下渡しあり。恐懼に堪えず。
平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す。
〈注〉五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう。
――上記〈注〉を見る限り、天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、「何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただした」とすると、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語っていないだろうか。
S14/6月29日参謀総長宮〔閑院宮戴冠仁(かんいんのみやことひと)親王〕、午后2・30拝謁上奏。直後、内大臣思召あり。満蒙国境ノモハン事件に関し或は兵を動かすにあらずや。
ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す。
〈注〉満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。「或限界以上には越えざる事」どころではなかった。
――天皇側の「或限界以上には越えざる事」とする事実が架空の状況にあるとしたら、天皇の統帥権も事実として存在していなかったことになる。もし首相が関東軍の作戦を知っていて天皇に知らせずに放置していたとしたら、憲法が保障している天皇の統帥権は有名無実化し、天皇無視・憲法無視は一部にとどまらず、権力機構の広範囲に亘る事態となる。
【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)
S14/7月5日后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出たる所、「跡始末は何(ど)するのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁。御前を退下する。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止(とどめ)らせられざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願い他は明日遊ばされたき旨言上、御前を下る。今日のごとき御憤怒にお悲しみさえ加えさせられたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし。(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。
〈注〉思わず「跡始末は如何するのだ」と大声でひとりごとを発するほど天皇を煩悶させた板垣陸相。このとき長々と上奏した人事問題とは、石原莞爾少将と山下奉文の師団長・軍司令官新補(栄転)の件で、天皇はこれを容易に認めなかった。さらに寺内寿一大将のナチス党大会出席のためのドイツ派遣問題があった。三国同盟に関しては、ドイツ側が参戦問題をめぐって日本の提案を拒絶している。それなのに陸軍は裏工作をつづけて同盟を結ぼうとはどういうことか、と天皇はいった。 その上で、
「寺内大将のドイツ派遣とは何の目的があってのものか」
板垣は正直に、というよりぬけぬけと答える。
「防共枢軸の強化のためドイツ側とよく話し合うことが必要と思いまして」
天皇は叱りの言葉をはっきりと口にした。
「お前ぐらい頭の悪いものはいないのではないか」
天皇の三国同盟反対の意思のよく分かる話である。
――天皇の意思が自分の思い通りに理解されないもどかしさ、ひとり苛立つ姿が手に取るように伝わってくる。但しこのように煩悶する姿は1946年2月に侍従長藤田尚徳に語った「立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない」とする従属性とは相容れない、矛盾する感情発露となっている。
いや、その逆だろう。1946年に語った自己の内閣に対する従属性は昭和14年7月当時の天皇が周囲からの従属圧力を拒否しようとする自らの姿勢を打消す、矛盾した場面となっていると見るべきだろう。
天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。
誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受け難い。
このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、体制側の人間のものにはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかったということだろう。
そういった情景が『小倉侍従日記』敗戦の日に向かって随所に見られる。
S14/10月19日(木)白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり。
【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在(『大辞林』)
〈注〉側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた。「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)
その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう。
――「天皇の態度は強烈」と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」は「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。
本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを「御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり」とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている。
《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(2)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に続く。