――国旗を尊重し、国を愛する気持が国家の価値・地位の決め手となるわけではないし、社会の実質的な豊かさを向上させるわけではない――
自民党が国旗「日章旗(日の丸)」を侮辱する目的で傷つけたり汚したりした場合に刑罰を科す刑法改正案を議員立法で以って今国会中の提案を目指すとマスコミが伝えている。2月23日の自民党法務部会で纏めたそうだ。
《「国旗損壊罪」刑法改正を提案へ 自民》(MSN産経/2011.2.23 16:53 )
記事は書いている。〈刑法には、外国国旗を損壊すれば刑罰を科す内容が盛り込まれているが、日章旗については尊重義務や罰則がない。改正案では、「国旗損壊罪」を新設し、外国国旗と同様、「2年以下の懲役または20万円以下の罰金」を科すこととした。国会図書館によると、米仏独伊などの主要国では刑法や個別法で、自国国旗に対する侮辱には罰金や懲役を科している。〉
そして最後に次のような解説を載せている。〈国旗をめぐっては、平成21年に鹿児島県内で開かれた民主党の地方会合で、主催者側が国旗2枚を民主党の党旗に変造し、指摘を受けた鳩山由紀夫代表(当時)が陳謝した。〉――
これでほぼ90%程度、記事を引用したことになる。
記事の最後に解説している国旗2枚を民主党旗に変造したことに関して以下のブログ記事に取上げた。参考までに。
2009年8月21日《麻生が批判の、民主党は「日の丸ひっちゃぶ」くのではなく、国旗国歌法を「ひっちゃぶ」くべし - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
2009年9月3日記事――《日の丸をひっちゃぶいた民主党が勝利し、日の丸を守る保守だと言った麻生自民党が大敗の皮肉 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
石破茂自民党政調会長が3月2日(2011年)午後の記者会見に臨んでいる。《国旗損壊罪、刑法新設目指す=自民》(時事ドットコム/2011/03/02-16:00)
石破自民党政調会長「外国の国旗を損壊した者に対する罪があるのに、なぜ日章旗(日の丸)を汚損しても罪に問われないのかと言うのは素朴な感情だ。国旗国歌法で日本の国旗が日章旗だと定められた時に(国旗損壊罪を)立法しておくべきだった」
多くがご存知だろうと思うが、かつて「読谷村日の丸焼き捨て事件」というのがあった。1987年10月26日、沖縄の平和運動家・反戦地主であった(現在でもある?)知花昌一氏によって沖縄開催の国民体育大会(国体)で読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸を引き下ろし焼き捨てた。
当時は「国旗損壊罪」なるものは存在していなかったから、器物損壊罪で懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受けることになった。
その理由を2010年02月09日記事――《沖縄フォト紀行2010(9)知花昌一さんと会った-JanJanニュース》が伝えているから、参考までに。
《自民が「国旗損壊罪」提出へ 君が代替え歌に刑事罰検討》(asahi.com/2011年3月2日18時53分)には次のような一文を載せている。
〈尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件などをきっかけに自民党は保守色を強めており、「君が代」の替え歌など国歌への侮辱に刑事罰を科す改正案も検討する。〉――
国旗は国家を象徴するが、尊重という国旗への精神的表現が国家を愛する精神的表現から発していて、イコールとさせていたとしても、国を愛するには精神的表現のみで成り立たせることは不可能で、一般国民に於いては社会人としての実質的行為を日々伴わせて初めて国を愛する精神行為を正当化し得る。
勿論、政治家に於いては国益を損なわない、国益を高めることとなる外交・内政を自らの実質的使命とすることが国を愛する行為となり、国旗を尊重する精神的表現に矛盾を生じせしめない基本となることは断るまでもあるまい。
国を愛すると言いながら、国旗にしても祝日には忘れることなく几帳面に掲揚して尊重の姿勢を見せたとしても、脱税してまで金銭欲を募らせ、贅を凝らした生活を誇りにしていたなら、国旗に対する尊重も愛国心も意味を失い、形骸化する。
いわば国旗を尊重することだけがすべてではなく、また愛国心の発露を以ってすべてとすることはできない。
基本は一個の社会人として社会的責任を果たし得る生活を自らの実質的行為とすることであって、政治家の場合は国益を高めることを自らの実質的責任行為とすることであって、そのことが国家への貢献となり、国民一人ひとりの、あるいは政治家一人ひとりの貢献が国家の実質的な国力へと転換したとき、結果として国旗は国家の実質性に応じた価値を表現することになり、国民が尊重するに値する対象足り得る。
いわば先に国旗への尊重を持ってくるのではなく、また愛国心を持ってくるのではなく、国民一人ひとりの社会的意識を備えた社会への貢献、政治家の社会と国をよりよい状態に持っていく意識からの貢献を先に置き、そのような貢献を通した結果的成果として国旗・国家を価値づけるべきであろう。
そのとき、国家・国旗に対する価値判断は自由でるべきである。なぜなら、国家は常に絶対的存在ではないからだ。国民一人ひとりの国家に対する価値判断に応じた国旗の価値とすべきである。国民にしたら、否定したい国家というものも存在するはずであるし、そうであるなら、国旗に対しても常に尊重に足る対象と価値づけることは不可能となる。
特に今日のように様々な社会的格差や社会的矛盾を噴出させたまま政治家がなす術を失っている国家に於いて国家の価値の減損に応じて国旗に対する尊敬の念の減損が生じ、例え祝日に国旗を掲揚したとしても、単に形式的・義務的掲揚に傾きがちとなるだろうし、中には虚しささえ抱く国民も存在するかもしれない。
このように国家が常に絶対的存在ではないこと無視して国旗への尊重を法律で恒久的に義務づけ、最悪、愛国心まで義務付けた場合、国家が常に絶対ではないことの実態に反する国旗・国家の絶対化となり、その絶対化は強制力を持って思想・信教の自由を有する国民一人ひとりの自由であるべき精神を支配する方向に進む傾向を帯びかねない。
いわば法律で国旗を損壊してはならないとする国旗の絶対化がそのことを通して常に絶対ではない国家をも絶対とする衝動を誘導する危険性を指摘できないわけではないということである。
国旗によって実質を伴わないままに国家の絶対性を誇示する勢力の存在が許されるのみであったなら、国家の形式的絶対性は益々進むことになる。そのことに対抗させて国旗を損壊することで国家が国家として実質性を伴わないことに抗議や否定の意思表示をする勢力の存在も許されるべきである。いわば格差や矛盾や不幸を生み出す、常に絶対的な存在とは限らない国家に対する抗議の方法のうちに国旗を損壊する行為も入れておくということである。
政治が国家を常に絶対的存在とすることができないにも関わらず、国民に対して国旗の侮辱目的の損壊を許さず、絶対化するのは矛盾した行為であろう。国旗が侮辱されなくないなら、法律によって律するのではなく、政治家自身が侮辱されない国家運営を行うべきである。
そうすれば、国民誰もが自然に国旗をも尊重することになるはずだ。
自民党は「国旗損壊罪」から始まって、上記記事が指摘していたように、〈「君が代」の替え歌など国歌への侮辱に刑事罰を科す改正案〉〉まで進む方針でいるようだが、「君が代」の替え歌を用いて政府・国家を批判することも表現の自由として許されるべきだと思う。
菅首相は尖閣沖中国漁船衝突事件では中国に対して毅然とした外交姿勢を示し得ず、媚びる態度を取り、結果的に外交上日本の地位を貶めた。ロシアのメドベージェフ大統領の国後島訪問は中国に対する菅内閣の足許を見たからだと言われている。
このことも国旗に対する尊重をどう表現しようとも、愛国心をどう演じようとも、政治家としての責任ある実質的使命が伴わなければ意味をなさないことを証明している。
日本の外交が対米追随を主としていることも日本の外交上の地位を貶め、世界から冷笑されている主たる理由となっているはずである。
再度言う。国旗を尊重し、国を愛する気持が国家の価値・地位の決め手となるわけではないとなるわけではないし、社会の実質的な豊かさを向上させるわけではない―― |