野田首相のTPP参加によって「国益を最大限に実現をする」は説明責任不足と認識能力欠如の論理矛盾

2011-11-15 09:50:33 | Weblog

 ――野田首相が言っている「美しい農村」は虚構の世界――

 野田首相が東日本大震災の発災から8カ月目の11月11日(2011年)夜記者会見を開き、「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」ことを明らかにした。

 野田首相「私としては、明日から参加するホノルルAPEC首脳会合において、TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入ることといたしました。もとより、TPPについては、大きなメリットとともに、数多くの懸念が指摘されていることは十二分に認識をしております。

 私は日本という国を心から愛しています。母の実家は農家で、母の背中の籠に揺られながら、のどかな農村で幼い日々を過ごした光景と土の匂いが、物心がつくかつかないかという頃の私の記憶の原点にあります。

 世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き、分厚い中間層によって支えられる、安定した社会の再構築を実現をする決意であります。同時に、貿易立国として、今日までの繁栄を築き上げてきた我が国が、現在の豊かさを次世代に引き継ぎ、活力ある社会を発展させていくためには、アジア太平洋地域の成長力を取り入れていかなければなりません。このような観点から、関係各国との協議を開始し、各国が我が国に求めるものについて更なる情報収集に努め、十分な国民的な議論を経た上で、あくまで国益の視点に立って、TPPについての結論を得ていくこととしたいと思います」(首相官邸HP

 TPP参加によってメリットとなる分野もあれば、デメリットを被るケースも生じるはずである。メリットばかりのいいこと尽くめはあり得ない。日本にとってすべてがメリットばかりとなるいいこと尽くめは関係国にとって悪いこと尽くめとなりかねない一人勝ちの不公平はどの国も許すまい。

 当然、デメリットの可能性を伝える責任があるはずだが、それを「大きなメリットとともに、数多くの懸念が指摘されている」とデメリットを「懸念」という言葉に置き換えて曖昧化し、誤魔化す不正直な説明責任となっている。
 
 そして、「世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き、分厚い中間層によって支えられる、安定した社会の再構築を実現をする」ことを自らの政治責任だと宣言した。

 この宣言は記者との質疑応答で述べた次の発言と同じ趣旨を取る。

 野田首相「これは、協議に入る際には、守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取るべく、ということの、まさに国益を最大限に実現をするために全力を尽くす、ということが基本であるというふうに思います」

 「守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取る」の対象は「世界に誇る日本の医療制度」であり、「日本の伝統文化」であり、「美しい農村」等々であって、それらを「断固として守り抜」くということは「国益を最大限に実現をする」ことだと言っている。

 だが、既に触れたようにTPP参加はメリットと同時にデメリットをも伴う以上、“国益の最大限の実現”は相対化される。

 いわばこの“最大限”は“相対的最大限”であって、決して“絶対的最大限”ではない。国益全体で見た場合、差引き計算で相対的にプラスの国益を獲得できるかどうかということであるはずである。

 それを“絶対的最大限”の国益の実現が可能なことのように言うことも、デメリットを「懸念」という言葉に置き換えるのと同じ不正直な説明責任に当たるばかりか、論理矛盾そのものを示している。

 交渉に参加してみないことには国益のどのような差引き計算を強いられるか、あるいは関係国の国益とどのような折り合いをつけなければならないか未知数と言えるが、少なくとも実現するとしている国益の最大限が無条件の“最大限”ではなく、“相対的最大限”であることを国民に周知させる説明責任は前以て果たさなければならないはずだ。

 このことが新聞やテレビ局の世論調査でTPP交渉に関して議論不足や説明不足の指摘が高いパーセンテージとなって現れることになっているのだろう。

 野田首相は記者会見でほぼ通例となっている情緒的な追想をエピソードとして交え、それが他人のエピソーである場合は、そのエピソードを大事にしている自身の人柄をウリとし、自身のエピソードである場合は、文学的体験に高めている自身の人柄のウリとし、好感度アップを狙う話術を用いているが、この記者会見でも例の如くに利用している。

 「私は日本という国を心から愛しています。母の実家は農家で、母の背中の籠に揺られながら、のどかな農村で幼い日々を過ごした光景と土の匂いが、物心がつくかつかないかという頃の私の記憶の原点にあります」――

 このことの言及から、「守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取る」の対象とする農業に関して、「美しい農村」という言葉を使ったのだろうが、「美しい農村」だとしている「母の背中の籠に揺られながら」の「のどかな農村」は現実には果たして存在したのだろうか。

 個人的には存在したかもしれないが、そうであっても既に過去に終幕を迎えた農村であって、現実の農村は厳しいまでにガラリと姿を変えていると認識しなければならないはずだ。

 実際の農村は終戦後以降も特に裏日本側の農村は貧しく、娘を身売りして生活の足しとし、高度経済成長期に入ってからの1960年代から1970年代にしても農民は現金収入のための出稼ぎの時代を生きてきたこと、そして現在は過疎化、限界集落、高齢化、後継者不足、都市と農村の格差と農村内格差 耕作放棄地等々からすると、「美しい農村」は虚構の世界でしかない。

 このようなマイナスイメージの風景に彩られた農村を「美しい農村」だとして、「断固として守り抜」くことを以てして国益の最大限の実現だとしたなら、存在しないものを守るということになって認識不足も認識不足であるばかりか、やはり論理矛盾そのもの提示となる。

 例え野田首相が「記憶の原点」としている「美しい農村」を断固として取り戻そうと意志した発言だと百歩譲って見做したとしても、TPPに参加しても参加しなくても、「美しい農村」風景とは程遠い厳しい現実が正体であり続けることに変わりはない。

 TPPに参加した場合、一層の厳しい現実が待ち構えることとなり、「美しい農村」などと言っていられないだろう。

 記者会見の発言で美しい言葉を並べ立てて、それを以て説明責任を果たしたとは言えない。美しい言葉が説明責任に何ら役立っていないことは世論調査が何よりの証明となっている。

 現時点に於ける現実の姿、将来予想される現実の姿をゴマカシなく的確に摘出することによって論理矛盾を避けることが可能となり、説明責任を限りなく果たし得る。

 この過程を踏む姿勢の提示こそが現実の矛盾、不備の的確な是正がより可能となる。国益の侵害を可能な限り抑制し得る。ゴマカシは逆に果実を遠ざけることになる。

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