2011年9月4日放送「そこまで言って委員会」ゆとり教育談義に見る辛抱氏の認識間違い

2011-11-20 12:09:33 | Weblog

 20011年9月4日放送日本テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」、テーマ「今の教育このままで委員会」

 番組を見ていて、ここだけを問題にしたかった箇所が一つある。それは司会者の辛抱氏の認識間違いの発言である。

 キャッチコピー「熱血先生達による教育プレゼンション 子供たちの未来を考えるSP」

 プレゼンターや寺脇研(59歳)元文科省審議官。「さんまのスーパーからくりTV」に出演して有名となった下地敏雄(55歳)久留米市立中学校国語教師。そして今村克彦。

 今村克彦氏(54歳)は元教師で、創作ダンス集団の会社を経営し、学校や家庭に課題や悩みを持つ子ども達にダンスを教えて、踊りを通して生き直す機会を提供しているとのこと。

 ここでは寺脇研氏のテーマ「教育と子供たちの未来を考える」に対する辛抱氏の認識のみを主として取り上げる。適当にメモっていたから、ところどころ脚色を用いて一貫性を持たせている箇所があることをお断りしておく。自身の批評は青文字で記した。

 先ず文科省の「ゆとり教育」から「脱ゆとり」への流れの紹介。

 1990年、旧文部省は「生きる力の育成」を掲げ、ゆとり教育路線を邁進。「脱詰め込み教育」のスローガンのもと、「自ら考え、判断し、表現することで問題を解決できる能力」を育てることを教育主眼とした。

 具体的方策として、学習時間の3割削減。

 だが、結果として学力の低下を招き、「ゆとり教育」がその元凶と批判される。OECD学習到達度調査が学力低下の根拠とされる。

 OECD学習到達度調査に於ける日本の成績

            2000年   2003年  2006年  2009年

 読解力         8位     14位   15位    8位
 数学的応用力      1位     6位   10位    9位
 科学的応用力      2位     2位     6位    5位

 上海がすべての分野で1位を独占。

 ゆとり教育の旗振り役を務め、「ミスターゆとり」と呼ばれてきた寺脇氏。

 解説「寺脇研氏は子どもの学力低下は印象論で語られており、根拠が無いと反論」

 だが、文科省は200年、2003年、2006年の日本の学習到達度調査の成績を受け、文科省は日本の子供たちの学力低下を認めて、「脱ゆとり」にカジを切ることに決定。2008年に小・中学校の学習指導要領を改訂、2009年に高等学校・特別支援学校の学習指導要領の改訂、「ゆとり教育」からの転換が図られることとなった。

 2009年OECD学習到達度調査に於ける日本の成績がわずかながら回復したことが学力低下に対する文科省を始めとした学校、親たちの危機感と2008年に既に小・中学校の学習指導要領を改定したことの成果と見做されたのだろうか。

 ゆとり教育と名付けながら、本質のところで一種の強制的な知識授受を内包した詰め込みの暗記を基本原理とした教育に変わりはなかったことから、授業時間3割削減が強制して詰め込み暗記させる時間の3割削減に相当することとなり、当然こととして学力が低下することになったのではないのか。

 いわば日本の暗記教育は授業時間量=暗記知識量となっている。この暗記知識の授受に於ける関係式は部活にも応用されていて、長時間の練習が成績の保証となって現れている。

 このことは高校野球のグラウンドにナイター設備が一般的になる前に東北地方の高校は日が暮れるのが早くて練習を早い時間に切り上げなければならず、その分練習時間が短くなって不利だとされていたことに如実に現れている。

 暗記教育ではなく、生徒に考えさせる教育なら、一から十まですべてを直接教えなくても、一つのことから生徒自らが考えるから、授業時間は直接的には関係しないことになる。自分で考えるということは考える対象に既に関心という知的作用を働かしていることであり、関心は自ずと問いかけという知的作用を同時に伴い、答えを得ることで問いかけの知的作用を充足させることができるから、関心を出発点とした知的作用(=思考作用)が自身の考える力によって知識の拡大につながっていくことになる。

 別の言い方をしてみる。暗記教育の場合、授業時間を減らして生徒に詰め込ませる暗記のコマが少なくなれば、そのことに伴って生徒が引き出しに詰め込む暗記知識のコマも少なくなる。当然、テストの設問に引き出しから取り出して機械的に当てはめる知識のコマが当初から不足しているから、成績を下がることになり、成績低下を以って学力低下と評価することになる。

 子どもが考えて得た知識なら、例えテストの設問に当てはまる知識のコマを持ち合わせていなかったとしても、既に持ち合わせているコマとコマを突き合わせてそこから新たな知識のコマをつくり出して、テストの設問に当てはめる応用も可能となる。

 考えるということはそういうことであろう。


 寺脇研氏「教科書が分厚くなることばかり注目され、一部のマスコミや評論家が“脱ゆとり”と騒いでいるだけ」

 ゆとり教育だ、「自ら考え、判断し、表現することで問題を解決できる能力」の育成だと言いながら、暗記教育から脱することができなかった。暗記教育を引きずったままであることに気づかずに「脱ゆとり」だと騒ぎ、詰め込みという強制を力学とした暗記教育に本腰を入れて回帰を図ることとなった。

 暗記教育が授業時間量=暗記知識量の関係式で成り立っている以上、当然授業時間を増やし、教科書も従来どおりの分厚さに戻して、詰め込む知識のコマを元通りに、いや、低下した学力を一気に取り戻すために元通り以上に知識のコマを増やす必要が生じ、教科書を以前以上に分厚くした可能性は否定できない。


 寺脇氏は文科省が進め、世の親たちが望んでいる“脱ゆとり”に否定的態度を取り、これからの教育について次のような理念を話しているという。

 寺脇研氏理念「どこかの組織に所属して守ってもらうのではなく、自分でやり甲斐を発見していく。偏差値で輪切りにして、勝ち組・負け組をつくるようなかつての画一教育ではダメ。競争から共生への転換を掲げた“ゆとり教育”の理想が必要になる」

 あくまでも“ゆとり教育”に拘って譲らない姿勢でいるが、“ゆとり教育”を阻害している真の原因に気づいて、“ゆとり教育”は暗記知識に関わる学力低下を予定調和とすることを証明しなければならない。従来のテストの成績では計ることができない学力を与えるのが“ゆとり教育”だと。

 「どこかの組織に所属して守ってもらうのではなく、自分でやり甲斐を発見していく」「画一教育ではダメ」と言うことなら、非常に難しいし、時間がかかることだが、先ず機械的に知識をなぞらせ暗記させていく暗記教育を遮断しなければならない。

 自分なりの知識に則った自分なりの判断力を育み、身につけさせる実効性を備えた授業方法を創造しなければならない。

 画一教育は教師、その他から与えられた知識をほぼ全員して機械的に自分の知識とする暗記形式の知識の授受によって成立する。いくら教師が教科書の知識を生徒にそのまま機械的に詰め込もうとしたとしても、生徒がそれらの知識を自分の判断で自分なりに解釈して自分なりの知識に高めていったなら、十人十色の知識を備えることとなり、画一教育は成立しない。

 暗記教育と考える教育は対立概念を成している。考える教育を活かすためには暗記教育を殺さなければならない。現在のところ、一般的には考える教育は暗記教育によって未だ生まれていない状態、一種の死の状態に置かれている。

 当然、教師が教える知識を機械的になぞって暗記して、生徒のほぼ全員が同じ知識を画一的に自分の知識とするのではなく、自分なりに考えて受け止め、自分なりの知識として積み重ねていく考えるプロセスを教師との間に置くことに尽きることになる。


 ここで女子アナなのか、「寺脇氏が考えるこれからの教育とは? 子供たちの未来とは?――熱く語って貰います」と声を低くしたおどろおどろしい口調で前口上を述べる。

 寺脇氏登場。画面に京都造形芸術大学教授の肩書が記してある。そして今後の教育と子供たちの将来のために3提言を行う。

 1.総合学習を進めていく!
 2.学校をコミュニティスクールに!
 3.教師に自立性(自律性)を!

 寺脇研氏「もともとこれをつくったのが、中央教育審議会の答申というのが出たのが、『子供たちにゆとりと生きる力を』というタイトルだったので、ゆとり教育って言われるんですけども、それが1996年なんですね。1996年というのは阪神・淡路大震災の翌年だもんですから、非常にその中には阪神・淡路大震災があったということが色濃く反映されてるんですよ。

 今まで想像もつかなかった、つまりあり得ないと思われたことが、起こったときにどう対処していくかというような力をつけていくっていうのが生きる力なんだっていうことを言っている。

 やってきたものは今までの学校教育と違うのは、授業時間は確かに減ったんですけども、総合学習というのを新しく入れてきたんですね。

 それを導入して、9年経つわけですけど、その成果をどうなのかっていうことを今見てもらいたい。

 総合学習を経験してきた子どもたちが、今は高校1年からずっとやってきた子っていうのが、今高校生の世代に当たりますし、大学生も今も、そういうのをやった子たちが、入ってきているわけです。

 結果は、その高校生や大学生をどう見るかという問題だと思う。

 (従来の教育は)算数にしても国語でも、一つの答えを導き出していくという考え方でやっていくわけですけども、総合学習は色んな考え方があっていいというような授業をしていく。例えば捕鯨がよくないという人、いいという人があり、両方の意見を聞いて、自分なりの意見を持つ」

 「総合学習は色んな考え方があっていい」は当然のこととして受け入れることができるが、学校の授業はあくまでもテストという試験を対象に一体的に考えなければならない。確かに生徒それぞれの考え方を自由に問う設問もあるだろうが、殆どの場合、「一つの答」を求めるテストとなっている。「一つの答」を求める場合であっても、生徒それぞれが自分なりの考え方で答を導き出していく解答方法を以って総合学習としなければならないはずだ。

 
「色んな考え方があっていい」総合学習と構造しておきながら、教師が教えたとおりに暗記した「一つの答」を機械的に当てはめる別の意味での一体化――暗記知識とテストの解答との一体化が続いていたのでは総合学習は砂上の楼閣であり続ける。

 
「捕鯨がよくないという人、いいという人」いうことではなく、暗記知識とテストの解答との一体化の逆を行く教えに限定して目指すことによって、「自分で考え、自分で判断し、自分で決定する」という総合学習に一歩一歩近づいていくのではないだろうか。

 辛坊「あの、そもそも決定的に違うのは総合学習の時間というのは教科書がないんですね。基本的に先生の力量に任されているから、場合によっては思想教育のキツーイ先生が出てきて、自分の思想教育ばっかりやるという可能性も無きにしもあらずですね」

 この発言が問題にしたかった箇所である。前提自体を間違えた認識となっている。

 教師が自身の思想を生徒に強制的に暗記させて機械的に生徒の思想と押しつける教育は生徒が考えるプロセスを最初から省略しているゆえに、あるいは生徒が考える機会を取り上げているゆえに既に総合学習の範疇から外れた、従来の暗記教育とは何一つ違いのない教育となる。

 例え教科書がないからと、それを好都合に自身の思想を押しつける授業を行ったとしても、校長や他の教師、あるいは父兄の授業参観によって防ぐことができる。

 また逆に教科書があっても、教科書が記述している知識の授受に便乗してやろうと思えば、いくらでも自身の思想を押しつけることはできる。

 そうしてきた教師も少なくないはずである。

 そのためにも生徒には自分で考える力を身につける必要が生じる。

 総合学習の基本構造・基本精神は普通教科でも踏襲されなければならない。総合学習の時間であろうと、普通教科の時間であろうと、相互に授業参観を行なって、的確・適正に総合学習の基本構造。基本精神に則って生徒に考えさせる教育が行われているか監視する機会を設けるべきだろう。従来の暗記教育を踏襲したままでは意味を失う。

 あくまでも基本は教師の授業が生徒に考えさせる機会を用意しているか、考えさせるプロセスを踏んでいるかである。
 
 辛抱氏の認識間違いを言いたいために、この記事を書いた。これで目的を果たしたが、もう少し続けてみる。


 ここで久留米市の中学校教師の下地氏がどのような総合学習を行なっているか紹介する。

 下地氏「1学年の場合は地域交流ということで、地域のお年寄りと交流を持つ時間。2年生になると、職場体験。色々な職場に行って、実際にそこで働いたり、インタビューしたりする。

 3年生になると、地域が広がって体験する。そういうふうに位置づけられている」

 寺脇氏「働く経験や、スーパーに行けば、社会科的な仕入れの仕組みや、しかも目の当たりに見る。売上の計画とか、どういうふうにやっているとかの話も出てくる。

 そういったことも知って貰って、大学生になっても、何の仕事についていいか分からない、取り敢えず有名な会社にエントリーしてやっていこうみたいな話じゃなくて、自分というのはどういうふうに社会の中で活躍をしていけるか、ということを考えてほしい」

 下地氏も寺脇氏も、勘違いがある。何かを体験すれば、考える力がつくという勘違いである。教師から生徒、親から生徒、地域住民等の第三者から生徒への知識授受が上から与えられた知識を無條件・無考えになぞって暗記する暗記教育の構造を踏んだ知識授受であるなら、如何ようにたくさんの体験を積んだとしても、教えられたことを教えられたとおりに、あるいは体験させられたことを体験させられたとおりの知識の授受にしかできない。

 このことはプロ野球やプロサッカー等で延々と言われていることが証明している。「考える野球をしろ」、「考えるサッカーをしろ」、「考えて動け」

 これらは選手自身がいくら練習という体験を積もうと、「自分で考え、自分で判断し、自分で決定する」という総合学習の精神である「考える力」を身につけていないことの裏返しとしてある状況であろう。

 学校が指示する体験をこなしたとしても、それが
「地域のお年寄り」との「交流」であろうとなかろうと、そこに自分で考えて自分なりの知識を加えて、自分なりの体験として高めなければ、何々をしましたという、暗記教育の知識と同じく、誰もが同じとなる画一的な体験で終わる。

 本質化している暗記教育形式の知識の授受を打ち破らないことには週何時間かの総合学習で自分で考える教育、自分で考える知識授受は実現不可能であるばかりか、学力低下を受けて「ゆとり教育」から再び詰め込み形式の暗記教育にカジを切った。と言うよりも、旧体制へどっぷりと回帰しようとしている。

 従来どおりに考える力が身につかなくても、OECD学習到達度調査の成績が上がり、それを以て学力向上だと安心して満足することで終わるに違いない。

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