被災者に寄り添うをスローガン化する野田首相の「原発事故収束」宣言と関係閣僚たちの発言

2011-12-19 09:57:57 | Weblog

 12月17日(2011年)の当ブログ記事――《野田首相の現実認識を欠いた言葉を知らない「原発事故収束」宣言 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で被災者に対する配慮を欠いた、野田首相の「原発事故収束」宣言だと書いたが、ここでも同じテーマとなる。

 佐藤雄平福島県知事が18日(2011年12月)、細野・枝野・平野の各大臣と会談、席上野田首相の「原発事故収束」宣言に不快感を示したという。

 《福島県知事 「収束」に不快感》NHK NEWS WEB/2011年12月18日 17時56分)

 佐藤知事「本来なら、野田総理大臣が来て話をしてしかるべきだ。『事故収束』ということばを発すること自体、県民は『実態を本当に知っているのか』という気持ちでいる」

 細野原発事故担当相「ステップ2の達成は、『これ以上、地元の皆さんに改めて避難していただく状況にはならない』ということであり、このことをもって、事故そのものは収束したと判断している。ただし、これからが一番大切な難しい局面を迎えるので、除染や健康管理の問題に責任を持って対応する」

 佐藤知事(住民の帰宅に向けた避難区域の見直しについて)「地域の市町村長や住民の話を真摯(しんし)に聞いていただくことが大事だ」

 枝野経産相「避難指示区域の見直しは、地元に寄り添いながら取り組んでいく決意であり、県や市町村の考えを受け止めて具体的に進めたい」

 平野復興担当「1日も早い帰還を実現するための時期が来たので、復興対策本部が、帰還に向けた支援の中心的な役割を担いたい」

 細野も枝野も自分の言っていることの矛盾に気づかないのだろうか。

 佐藤知事は福島県民は原発事故の真っ只中にあると言って、「原発事故収束」宣言を否定している。

 対して細野は「これ以上、地元の皆さんに改めて避難していただく状況にはならない」という予測的事実を以って、「原発事故収束」だとしている。

 但し、この発言は避難していた被災住民のうち帰宅希望者の一人残らずが今まで住んでいた場所に戻り、生活を原状回復した状況下にあった場合にのみ正当性を得る。

 帰宅という望みを果たして人生の再スタートを胸に秘めた住民にこそ通用する「これ以上、地元の皆さんに改めて避難していただく状況にはなりませんから」の確約であろう。

 いや、もし正真正銘福島県民の立場に立っていたなら、そういった確約でなければならない。

 「改めて」とは再度の行為・行動、遣り直しの行為・行動を言うからだ。生活ができる状態で一度も帰宅を果たしていないのに、「改めて避難していただく状況にはなりませんから」もクソもない。

 いわば、避難が解除されているわけでもなく、継続中であるという現在進行形の事態が未解決の、いつ帰宅を果たせるか分からない状況下にあるにも関わらず、そういった状況を思い遣ることもなく、再度の避難はない、遣り直しの避難はないという予測を以てして「原発事故収束」だと言っているのである。

 矛盾でなくて、何と言ったらいいだろうか。

 「原発事故収束」宣言が原発事故を原発施設のみの事故と把える発想に立ってつくり上げられていることから出すことができた宣言であり、ステップ2の達成に関して、被災者が置かれている各種放射能汚染からの避難という事実を考慮の要素とすることができなかったということであろう。

 ということは、被災者に寄り添うことを忘れて、政府成果の誇示のみに拘ったことになる。

 ところが、枝野は避難指示区域の見直しに関しては、「地元に寄り添いながら取り組んでいく決意であり、県や市町村の考えを受け止めて具体的に進めたい」と、地元に寄り添わないことが一度としてなかったかのように、あるいは県や市町村の考えを受け止めずに政府の考えだけで進めたことが一度もなかったかのように、従来どおりの姿勢で進めていくと事実と異なる矛盾したことを平気で口にしている。

 細野は一旦は野田首相の「原発事故収束」宣言を「これ以上、地元の皆さんに改めて避難していただく状況にはならない」と、根拠とならないことを根拠として正当化したものの、根拠とならないことに気づいたのか、佐藤福島県知事のみならず、「原発事故収束」宣言に対して根拠希薄との批判が多いことからなのかは分からないが、佐藤知事と会談後の記者会見で「原発事故収束」宣言に関わる表現に関してのみ陳謝している。

 《細野氏、「事故収束」の表現陳謝 問題化の可能性も》47NEWS/2011/12/18 22:14 【共同通信】)

 細野原発事故担当相「『収束』という言葉を使うことで事故全体が収まったかのような印象を持たれたとすれば、私の表現が至らず、反省している」

 「私の表現が」と言っているが、そもそもの発端は12月16日(2011年)午後6時からの野田首相の記者会見での発言に起因した被災者無視であったはずだ。

 野田首相「原子炉が冷温停止状態に達し発電所の事故そのものは収束に至ったと判断をされる、との確認を行いました。これによって、事故収束に向けた道筋のステップ2が完了したことをここに宣言をいたします 」

 冷温停止のステップ2完了を以って、「発電所の事故そのものは収束に至った」とし、未だ事故の影響下にある避難住民や各種放射能汚染問題、除染問題、風評被害問題等を事故の考慮外に置いた。

 細野は野田首相の「原発事故収束」宣言をなぞったに過ぎない。それとも野田記者会見の「原発事故収束」宣言箇所は細野の発案によるもの、影の文案作成者であって、だから「私の表現が至らず、反省している」と陳謝したのだろか。

 どちらであっても、原発事故の影響下に今以て置かれている被災者を事故の考慮外に置いたことに違いはない。

 但し、細野の発案を下敷きにしたものであったとしても、「原発事故収束」宣言は野田首相が自ら記者会見を開いて、自らの言葉で発した宣言である。そうである以上、同罪と見做され、一大臣が陳謝して済む問題ではなくなる。

 だから、記事は〈野田佳彦首相が記者会見し、国内外に向けてアピールした事故収束の表現が不適切だったと認めるもので、今後問題化する可能性もある。〉と書いている。

 これまでの復旧・復興の遅れと言い、そのことが尾を引いている現状と言い、機会あるごとに発信される「被災者に寄り添う」は単なるスローガンで終わっているようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする