安倍晋三自民党憲法改正案の基本的人権保障規定「公益及び公の秩序に反しない限り」の危険性、中国が証明

2014-05-09 08:59:31 | Weblog

 

 少々古い記事になるのかどうか分からないが、先月半ば、中国でのある裁判の判決を次の記事が伝えていた。

 《中国「新公民運動」に厳 しい判決》NHK NEWS WEB/2014年4月18日 15時55分)

 昨年の中国で市民の政治への参加や社会の変革を訴える「新公民運動」と呼ばれる運動が広がりを見せ、政府高官の資産公開を求める街頭デモに参加した市民30人以上が逮捕されたり拘束され、このうち運動提唱の弁護士の丁家喜氏や、民主活動家の趙常青氏ら4人が公共の秩序を乱した罪に問われ、北京の裁判所が4月18日、懲役2年から3年半の実刑判決を言い渡したという。

 記事は弁護士の話を伝えている。丁氏らは無罪を訴えたが、裁判では証人の申請が認められず、裁判所周辺は大量の警察官を動員、厳戒態勢が敷かれ、支援者が連行されたほか海外メディアも強制的に排除された。

 いわば裁判自体を隠す必要があった。

 当然、審理は法に則って十分に尽くされたとは言えない。政府高官の資産公開要求に応えた場合、不都合が生じるからこその逮捕・拘禁であって、その不都合によって判決ありきを前提としていることになるからだ。

 「公共の秩序を乱した」とする罪状はデモによって商売を邪魔したとか、通行人の交通を妨げた、あるいは器物破損行為に出た、それらによって経済的混乱が生じたといった市民生活の秩序撹乱を意味するのではなく、資産公開した場合、市民の不充足感を刺激して世の中が騒然となり、政府批判が高まって、政府の権威が地に堕ちることによって生じるかもしれない社会秩序の様々な混乱を予想して先回りした「公共の秩序を乱した」の罪状なのだろう。

 記事最後の解説。〈中国では腐敗のまん延や所得格差の拡大などを背景に、社会の変革を求める声が水面下で広がっていますが、習近平指導部は言論や思想の統制を強めていて、共産党の一党支配を揺るがしかねない動きを力で抑え込む姿勢を崩していません。〉――

 「公共の秩序を乱した」とする罪状(報道機関によって名称が、 「民衆を扇動し公共の秩序を乱した」、あるいは、「公共秩序騒乱罪」等となっているが)で、一審懲役4年の判決を不服として上訴、上訴審が訴えを棄却、20134年4月11日に刑が確定した「新公民運動」の中心的人物である人権活動家、許志永氏の例がある。

 許氏は反論する正式な機会さえ与えられなかったという。同氏の弁護士が電話取材で、許氏が「中国の法律の最後の尊厳が破壊された」と裁判官に主張したことを明らかにしたと、「ブルーバーグ」が伝えている。

 この発言さえ、裁判長が遮る中で発したに違いない。

 許志永氏の刑が確定したときジェン・サキ米国務省報道官が声明を出し、「深く失望した」とコメントしている。安倍政権は他国の人権問題に相変わらず物言わぬ人となっている。

 この「公共の秩序を乱した」とする「公共秩序騒乱」が権力側が線引きし、内容を確定した“公共の秩序”であって、決して国民・市民の側に立った秩序ではないということである。裁判で反論を許す・許さないも公共の秩序のうちに入る。国民・市民の側に立った公共の秩序であるなら、反論が許されて当然の個人の権利であるが、許さないところに権力側の“公共の秩序”となっていることは明らかである。

 いわば“公共”という名前を使いながら、国民・市民の権利や利益に立脚した“公共”ではなく、国家権力の権利や利益に立脚した“公共”の独占としている。

 この構造は、断るまでもないことだが、“公共”なるものが国民・市民の所属にも、国家権力の所属にも、どちらにもなり得る曖昧さを内包していることを教えている。

 だとするなら、政治権力の恣意的行使に対抗して、その権力を制限する方向性の原理を持たせた立憲主義に基づき、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三原則とした日本国憲法では、それがどう改正されようとも、“公共”なるものが内包している曖昧さは排除されなければならないことになる。

 もし“公共”なるものが国家権力側の権利や利益に立脚した規定となった場合、政治権力の恣意的行使の国民の側からの抑止という立憲主義の原理自体が否定されることになり、このことは少なくとも国民主権と基本的人権の尊重を阻害する危険性を抱えることになる。

 だが、2012年4月27日に決定した「自民党憲法改正案」は「公益及び公の秩序」という文言で基本的人権に制約を加えている。

第三章 国民の権利及び義務

(国民の責務)

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

(人としての尊重等)
第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない

(表現の自由)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。

2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 戦前の大日本帝国はその憲法で、臣民の權利義務を次のように定めている。

第二章 臣民權利義務

第二十二條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ居住及移轉ノ自由ヲ有ス

第二十八條 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス

 基本的人権は「法律ノ範圍内」及び「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」の制限付きとなっている。

 どちらも国家権力のサジ加減一つで、国家権力の権利や利益に立脚した法律を制定することができ、そのような法律に基づいて国家権力の権利や利益に立脚した「安寧秩序」の何たるかをつくり出して国民の基本的人権行為に制限を加えることができ、そのような制限内の制約を「臣民の義務」とすることができる。

 実際にも「治安維持法」や「新聞紙法」、あるいは「出版法」といった国家権力側の権利・利益に立った各種法律を制定して、国民の集会や結社の自由、思想・言論の自由、信教の自由等々の基本的人権に厳しい制限を課した。

 「自民党憲法改正案」が“公”(おおやけ)という言葉を使って、おおやけの利益・おおやけの秩序という意味で、さも社会全体の公共の利益や秩序を目的としているように見えて、その実、「公益及び公の秩序」が国民・市民の側に立った利益・秩序ではなく、国家権力の側に立った利益・秩序と早変わりしない保証はない曖昧さを常に宿命としていることになり、その危険性は大日本帝国憲法が前例を示しているし、中国に於ける国家権力の国民・市民の人権活動に対する「公共の秩序を乱した」とする罪状と刑確定が証明することになる。

 この国家権力か、国民の基本的人権か、どちらを優先させることもできる曖昧さには国家権力の意志が込められているはずである。なぜなら、曖昧さは、そこに国家権力の顔を露わに見せることになったとき、立憲主義自体と日本国憲法の三原則をも否定することになるゆえに、憲法の性格上許されない曖昧さであるにも関わらず、許しているからである。

 大体が安倍晋三は国家優先・国民従属の国家主義者である。その憲法観も国家優先の形を取ることは何の不思議もない必然であって、憲法が規定している国民主権が意味する憲法の主人公は国民であるとする国家との契約に反する非常に危険な思想と言わざるを得ない。

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