安倍晋三・下村博文の「私の道徳」は相対的思考能力を阻害し、独善性を育むには役立つ

2014-05-17 11:33:01 | Weblog

  


      生活の党PR

       《5月18日(日) 鈴木克昌代表代行・幹事長『日曜討論』出演 》
   
      番組名:NHK『日曜討論』 ・日 時:平成26年5月18日(日)9:00~10:20(生放送)

 2013年5月5日当ブロブ記事―― 《安倍晋三、 下村博文が意図している道徳教育はクソの役にも立たない-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に 以下のコメントを頂いた。

 

 コメント

道徳教育が考える力を失わせることにはなり得ません。強引過ぎます。そもそも社会的な観点に基づいた教育が学校教育の前提としてあるわけですから、画一的にならざるを得ない点というのは考える力を失わせることではなく、むしろ社会的な意識を考えることになります。

また道徳教育において思考の強制はありません。一つの事柄に対して善し悪しの判断は生徒に委ねられています。それでも道徳教育によって伝える社会の基準はあります。しかしこれをいけないというのであれば殺人やあらゆる犯罪、マナー違反、モラル違反を善しとすることになりますが、それも考える力なのでしょうか?

教育の場においてそれらを見過ごすことが社会的に許されるはずはありません。放っておけば自然に道徳教育が成されるというのであれば、他国のマナーをご覧ください。あなたの批判には学校教育に関する知識や経験がなく、且つ代案の責任も果たしていません。批判事態は理論だててはいますが内容が主観に頼り過ぎており論拠に乏しく、強引になっています。

  〈社会的な観点に基づいた教育が学校教育の前提としてある〉と書いているが、果たして実現できているのだろうか。実効性を持たせることができていなければ、単なるタテマエで終わる。

 〈画一的にならざるを得ない点というのは考える力を失わせることではなく、むしろ社会的な意識を考えることになります。〉と言っていることが私の悪い頭ではどうも理解できない。画一的思考とは他の考えに従うことによって成り立つ思考性のことを言うのだから、そもそもからして考える力を持ち合わせていないことによって可能となる画一化であるはずだが、そのような画一的思考が、〈むしろ社会的な意識を考えることになります。〉 ということに なるらしい。

 要するに戦前のように全体行動を取れば、社会的意識に適うということなのだろうか。しかし戦前、全体行動を取っているようで、裏では政治家も官僚・役人も企業も校長・教師も様々な収賄・贈賄の汚職やらを働いていた。

 〈道徳教育において思考の強制はありません。〉以下は後回しにして取り上げることにする。 

 〈あなたの批判には学校教育に関する知識や経験がなく、且つ代案の責任も果たしていません。〉 云々。

 確かに仰るとおり、教師とい う立場に立った、学校社会に於ける中からの学校教育に関する知識や経験がない。だが、かつて、かなり昔のことになるが、生徒という立場に立った、学校社会に於ける中からの学校教育に関する知識や経験をそれなりに持ち、以後社会人という立場から外から学校教育に関する知識や間接的経験をプラスアルファーしている。

 もし私が書いている教育論らしきものが学校教育の実態を全然反映していないということなら、私自身の洞察する力が貧弱そのものということになって、相手にする価値がないことになる。

 だとしても、それなりの読者を継続させているから、違う見方の読者も存在することになる。まあ、精神衛生上も書きたい欲求は抑えることができないから、批判を受けながら書き続けるしないことはお断りしなければならない。

〈代案の責任も果たしていません。〉 と仰っているが、記事の最初 に、―― 人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――と書き入れている。

 このブログ記事では具体的には「人間という存在を考えさせる教育」について触れていないが、2012年12月19日等ブログ記事 ――《いじめ防止 対策プログラ ム - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に、「自己実現を問う教育」と題して、「自己実現」、「自己活躍」、「自己存在証明」の何たるかを教える教育の必要性を提案している。
 
 具体的には、〈いじめはいじめを通して自己を優越的な上の地位に置く一種の自己実現だと書いた。 そのような自己実現を望ましい自己の在り様としたのである。

 自己の在り様として望ましくないと自覚していたなら、いじめは起きな い。

 当然、い じめは自己可能性の追求であり、成功した可能性の実 現は自己活躍の証明と なり、その証明は自己存在証明そのものとすることになる。

 いじめが自己活躍の主たる手段となり、いじめによって自己存在の証明とし、そこに自己実現を置いているということである。〉――

 勿論、学校社会の集団を構成している生徒それぞれがそれぞれに「自己活躍の手段」 があり、それを以て「自己実現」を日々図ろうと努め、実現した自己を以って自己存在証明とする具体化への欲求を持っている。

 いわば逆に「自己実現」とは何か、「自己存在証明」とは何かを教えることによって、生徒それぞれに自身が何を「自己活躍の手段」としていて、どのような「自己実現」を図ろうとし、実現させた自己によってどのような「自己存在証明」としようとしているのかを自覚させることによって、自身の在り様を客観視させ、その在り様の善悪を判断させることができるのではないかとした。

 例えばイジメを働いていた児 童・生徒がいたら、「君はイジメを自己活躍の手段とし、イジメによって自己という人間を実現させているんだ。イジメを自己存在の証明としている」と諭したなら、「イジメは悪いことだ。イジメられた子がどれ程 悲しむか理解しなければならない」といった紋切り型の注意よりも効果があると私は確信している。

 例え年少の児童であってたとしも、人間の誰しもが持っている「自己実現」欲求を、それがどような意味なのか噛んで含めるように教えていったなら、誰もがというわけにはいかないし、程度の差もあるだろうが、自己を客観視する自覚性の植付けが期待できることになる。

 2010年8月9日等ブログ 記事 ――《考える教育はノートを取らない教育から - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》では、小学校の間はノートを取らせない教育を授業に取り入れることを提案した。 

 こ の記事を書く1カ月程前に教 師実体験のある乙武洋匡がテレビで、「小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというの は教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で 普段の学習の中でなかなか行われていない」と発言していたことを裏打ちとして、私自身がテレビや新聞記事、その他から学んだことだが、現在もなお日本の教育は暗記教育を伝統とし、文化としているとする認識に立ち、ゴミ焼却場に見学に行った小学生児童が工場側の人間の説明を一生懸命ノートに書いているのをテレビで見て、単に説明していることをなぞってノートに書き、教室に戻ったなら、ノートに書いたことをなぞって教師の問に答える、同じ暗記式の知識の授受しか行われていないだろうと判断して、ノートを取らせない授業のメリットを書いた。

 要するにノートを取ることができなければ、与えられる知識・情報の一字一句を記憶することは不可能だから、目の記憶と耳の記憶を頼ることになって、ノートに取らな かった知識・情報の何たるかを教師に尋ねられたとしても、自身で作文に書くにしても、そこに知識・情報の再構築を行わなければならない。 知識・情報の再構築には思考のプロセスを踏む作業が必要となって、思考能力が育つことになる。

 この記事には書かなかったが、社会見学してノートを取らずに目の記憶と耳の記憶に取り入れた知識・情報がどのような内容だったのか、何が役に立ったか、どのように解釈したのか、教室に戻ってクラス全員で意見を交わしながら再構築の思考作業を行ったなら、思考能力だけではなく、議論する力もついてくる。

 英語の授業の教科化の際だと思ったが、幼稚園・保育園の頃から小学校と日本語ドラマの朗読劇に簡単な内容からより複雑な内容へと馴染ませていき、そこから入って、朗読劇の力をつけて、小学校5・6年生の英語教科化の際には日本語の朗読劇を英訳した朗読劇を、既に意味内容は日本語で理解しているから、英語の話し方を練習するだけで英会話が上達するのではないかと、2010年9月21日の当ブロ ググ記事 ―― 《考える教育は朗読劇から - 『ニッポン情報解読』by手代 木恕 之》に書き入れ、朗読劇から普通の演劇に発展させることも、表現力を養うことや人間の姿を学ぶ機会となるのではないかと提案した。

 役に立つ提案かどうかは分からないが、決して代案の責任も果たしていないというわけではない。

 後回しにした〈道徳教育において思考の強制はありません。〉と言っていることいついて。

 安倍晋三の2014 年26年3月20日国会答弁。

 安 倍晋三「教育においては第一義的に家族が責任を持っていくということも書いたわけでありますし、教育の目的の中に日本の文化と伝統を尊重し、それらを育んできた郷土を愛する心やそして愛国心、さらには、他国を敬い、そして国 際協調の中においてしっかりと平和に貢献をするという態度等について教えていくということを、これらを、旧教育基本法にはなかったことを書き込んだわけでございます。言わば、日本人としてあるべき姿をしっかりと教えていくということになった」――

  そして第1次安倍内閣で2006年12月に成立させた『改正教育基本法』

 第一章教育の目的及び理念

(教育の目標)

五伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 安倍晋三の教育論が表れた『改正教育基本法』に於ける「教育の目標」の「五」と言うことができる。

 要するに『改正教育基本法』で様々に規定した中で優先的に「日本の文化と伝統を尊重し、それらを育んできた郷土を愛する心やそして愛国心」を身につけることが「日本人としてあるべき姿」 だとしていて、そのことを学校教育に求めていることになる。

 ここに暗黙の強制がないだろうか。暗黙の強制ばかりか、日本の伝統や郷土や国家を画一的に善と把えて、日本人が愛する理想の対象だとしているこの思考構造には、伝統や文化、国家、郷土が常に正しい姿を取るわけではなく、光と影を交錯させているのだから、そのような相対的な姿を隠すことによって、日本の伝統や文化、国家や郷土を絶対化する独善的な力が働くことになる。

 当然、教育の現場に於いて誇ることができる優れた伝統と文化のみを取り上げて、教える絶対化へと進む。誇ることのできる優れた国の姿や郷土の在り様のみを取り上げて、教える絶対化を植え付けることになる。

 2006年6月 16日のNHKの夜9時台のニュースの「どう教える愛国心」のコーナーを基に2006年6月22日に、《愚かしいばかりの“愛国心”教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を書いた。

 詳しいことはアクセスして貰うこととして、愛国心教育に熱心だという、国の研究指定校となっている西東京市の向台小学校6年生の教室での愛国心授業風景を取り上げていた。

 愛国心をテーマとする授業は初めてという男性教師に校長が付き添って授業を行うことになえい、校長が自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけた。

 女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」

 男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」

 女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」――

 この教育形式には安倍晋三の教育論にある日本の伝統や郷土や国家を画一的に善と把えた絶対化の見事な反映を見ることができる。善と把えて絶対化することによって、愛国心教育が日本の伝統や郷土や国家の“日本のよさ”の発見へと公式化の 一歩を踏み出していることを物語ることとなっている。

 ここに児童それぞれの思考性を見ることができるだろうか。みな、誰もが言っている手垢のついた言葉をなぞっただけとなっている。これが国の研究指定校の授業風景である。

 2006年から8年近くも経過して、現在の道徳教育は以前とは違うと言うかもしれないが、安倍晋三が現在も言っていることは相対化を欠いた日本の伝統と文化、国や郷土の絶対化のみである。

 物事が常に一つの価値で成り立つわけではないにも関わらず、一つの価値で成り立たせて絶対としたとき、他の価値を排除することになるばかりか、柔軟であるべき思考を一つの価値に膠着させることになる。相対化なくして認識の世界を広げることはできない。

 相対化意識の育み、世界の中の日本、あるいは世界あっての日本という 相互性に関わる相対的な視点・認識の育みこそが幅広い柔軟な思考能力を育てるはずだ。

 8年近く経過してもほぼ変わらないことを証明してみる。

 下村博文は3月3日(2014 年)の参院予算委員会で道徳教育について答弁している。

 下村博文「かつての道徳と違うのは、今回は、例えば教員の指導書でも、これはこう教え るべきだという一方的な価値観を入れない、子供たちが議論によってあるべき道徳は何なのかということを考えさせるという教材です」――

 新しい道徳教育は子どもたちに考えさせる教育だと言っている。

 では、中学校用(2)の『私達の道徳』から、思考能力を試す個所を幾つか抜粋してみる。 

 ◇「挨拶は自分が行うだけではなく、相手から受けることがある。
 
 そのとき、どんな思いを伝えようとしているのだろうか。

 🔴挨拶や丁寧な言葉遣い、態度を受けて、気持ちが良いと思ったり、うれしいと思ったりしたことを思い出してみよう。

 「礼儀へのためらい」

 挨拶するのも、応えるのも面倒。
 敬語を使うことが恥ずかしい。
 形だけのお辞儀をしてしまう。
 ・・・・・そんなことはないだろうか。

 🔴礼儀の大切さがわかっていても、実際に振る舞えなかったのはなぜだろう。
  振り返ってみよう、考えてみよう。

◇あなたにとって友達とは?

 楽しいばかりではく、周りのことを考えられる人(中3・男子)
 
 お互いに思いやっていける人(中2・女子)

 良きライバルでもあり、相談相手でもあり、信頼できる人(中3・女子)

 けんかもするけれども、何でも話せる人(中1・男子)

 宝物。友だちがいなかったら、すごく寂しい(中1・女子)

 質問

 「あなたにとって友達とはどんな存在か、考えてみよう」

 「友達のために何ができるか、考えてみよう」

◇社会は男女互いの力で成り立っている。

 我が国は男女共同参画社会の実現を目指している。

 男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、ともに責任を担うべき社会」(男女共同参画社会基本法第2条)のことである。

 質問

 なぜ男女共同参画社会の実現が必要なのか。その実現に向けてどのような課題があるのか、考えてみよう。友達とも話し合ってみよう。

 確かに考えさせる設問を設けている。

 だが、ここに描かれている道徳教育はかくあるべきだとする善なる人間を育てることのみを目指す、ある種の強制が存在している。

 この強制によって人間はときにはウソをつくし、ときには横着な気持にもなり、意地悪な人間にもなる、 弱い相手に威圧的にもなる、強い存在に対してときには卑屈にもなる、普段の自分を失って付和雷同することもある弱い生きものだという相対化による自覚を失わせる力として働いたとき、その思考性は偏った狭いものとなる。

 人間は善として存在するばかりではない。弱い部分を学ばせ、自覚させることによって、そのような人間にならないよう努めさせる道徳教育となる。

 だから、コメントを頂いた記事の冒頭に、――人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――と書いあるのはこのためである。

 また、考えるという思考作用は暗記教育によって獲得し得る能力ではなく、価値観の相対化や異なる意見を交わすことによって相対化を促すことになる議論によって育まれる。

 だが、先に上げた国の研究指定校の授業では校長も担任も児童の発言を受け止めるだけで、生徒同士で意見を交わさせることもなく、自身の意見を言って、児童の考えを広げることもしなかった。世界へどこか行けば、宏大な土地を覆う宏大な夜空に眩しいばかりに輝く満点の星を眺める場所がありながらである。

 さらに思考作用は短時間で獲得できるわけではない。長い伝統を必要とする。にも関わらず、日本の教育は暗記教育を長い伝統とし、現在も抜け出ることができないでいる。結局、新しい道徳教育にしても、与えたテーマに添った範囲内の「考えてみよう」、「友達とも話し合ってみよう」をなぞった思考と話し合いになりかねない。

 「あなたにとって友達とは?」の問に答えている中学生男女の発言は、全てどこかで聞いた言葉ばかりである。理想像に過ぎて、人間の現実の姿から程遠く、人間味を感じることができない。

 人間は自身の厭な部分、弱い部分を自覚してこそ、せめて社会的に間違うことのない人間存在であろうと努めることになる。

 当然、人間の厭な部分、弱い部分を教えない道徳教育は相対的思考能力を阻害して道徳教育足り得ないことになる。

 逆に日本人は優秀だとする絶対化意識のもと、人間の善なる部分のみを教え、そのような人間像を求めた場合、独善性のみを育むことになり、却って危険となる。

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