新たな検定基準適用に伴った来年4月から使用の中学校すべての教科教科書104点対象の検定が行われたという。次の記事、《教科書検定 領土に関する記述は2倍以上に増加》(NHK NEWS WEB/2015年4月6日 16時07分)を読むと、歴史教科書に於ける今回検定の特長は“政府統一的見解”と“通説の不在”が教科書の内容を決定する大きな力を持っていると読み取れることである。
“政府統一的見解”に優越性を持たせた教科書との関係性の中で教科書内記述と“政府統一的見解”との併用、あるいは整合性を求めていくうちに“政府統一的見解”自体が葵の御紋のような絶対的力を持ち始めないか恐れる。
あるいは情報処理及び情報管理が確立していない時代の歴史的事実は通説(世間一般に通用している説)が一定していないケースが多いのが一般的であるのに対して国家権力が“通説の不在”なるものを武器として歓迎しない歴史的事実にそれを求めた場合、歴史的事実の被害の残虐性の規模やそのことから受ける衝撃の規模を過小化したり矮小化したりすることが可能となる。
このことを裏返すと、加害側の残虐性や冷酷性の過小化、あるいは矮小化そのものとなる。
詳しいことは記事を参考にして貰うとして、二つ例を挙げてみる。
先ず従軍慰安婦。元慰安婦の具体的な証言や写真を掲載。対して文科省から「政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない」という意見がついた。
従軍慰安婦に関わる政府統一的見解とは、第1次安倍内閣が2007年3月16日に閣議決定した政府答弁書の文言を指すことは上記記事には書いてないが、「同日(1993年8月4日)の調査結果(=「河野談話」)の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」を指す。
これを受けて教科書会社は元慰安婦の具体的な証言や写真などを削除、殆どの部分を中国残留孤児や日中国交正常化と戦後補償の記述に差し替えた。
但し教科書会社は従軍慰安婦問題を巡って謝罪と反省を示した「河野官房長官談話」を掲載、「現在、日本政府は『慰安婦』問題について『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない』との見解を表明している」とする政府見解を加えて、最終的に合格したと言う。
このような構成を持たせた教科書の記述は、まだ詳しい歴史的知識を有していない中学生からしたら、彼らにとっては遥か遠い過去に発表された「河野談話」が描く従軍慰安婦の事実よりも“政府統一的見解”が示す従軍慰安婦に関わる現時点での事実の方がより説得力を持つことになるはずである。何しろ現在の日本政府の見解である。
“政府統一的見解”の狙いはここにあるはずである。まだ歴史的知識が浅い内に“政府統一的見解”を刷り込み、その刷り込みによって望む歴史的事実に統一しようとの狙いがあるのだから、一種の言論統制装置そのものの役目を担わせていることになる。
このような文科省の教科書に対する意見を受けた教科書会社の記述差し替え、検定合格という経緯を見ると、文科省は意見の根拠としている“政府統一的見解”が教科書会社に対して生殺与奪の武器となっていることを否応もなしに理解しなければならなくなる。
“政府統一的見解”を素直に受け入れることで、教科書会社は生き残ることができる。いわば生きるも死ぬも“政府統一的見解”が決定権を握ることになるし、既に握りつつある。
この決定権は右翼国家主義者の安倍晋三の内閣が続く限り、強化されていくだろうから、“政府統一的見解”はいとも簡単に無敵な優越性を抱えた言論統制装置となり得る。
次の例は関東大震災についての記述。
記事は関東大震災の発生後の混乱の中で殺害された朝鮮人の人数を「数千人」と書いた2点の教科書の記述が「通説的な見解がないことが明示されておらず、生徒が誤解するおそれのある表現だ」と意見がついたと解説している。
教科書会社1社は当時の政府など複数の調査結果や「虐殺された人数は定まっていない」という記述を加えた上で、「おびただしい数の朝鮮人が虐殺された」と修正。
他の1社は「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名余りと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるとも言われるが、人数については通説はない」と修正。
「人数については通説はない」とすることによって「数千人」は表現自体からも曖昧な数字とすることが可能となり、司法省発表の数字で確定的に示した「230名余り」が生きてくることになって、被害の残虐性の規模やそのことから受ける衝撃の規模を過小化、あるいは矮小化することが可能となる。
結果、虐殺に加わった日本人の残虐性や冷酷性の過小化、あるいは矮小化を併せて可能とすることができる。
いわば歴史的事実の多くに関して確定的な通説(世間一般に通用している説)は求めようがなく、様々な通説が存在していることを逆手に“通説の不在”に絶対的な力を与えて、望む歴史的記述に統一的に変えていくことで教科書検定の言論統制装置とすることができる。
この“政府統一的見解”と“通説の不在”を武器とした言論統制装置は断るまでもなく安倍晋三の歴史認識を中学生のうちから刷り込み、将来的には日本人全体の歴史認識とする機能を期待的に持たせているはずである。
最後に安倍内閣の従軍慰安婦に関わる“政府統一的見解”は従軍慰安婦の強制連行を認めている「河野談話」を安倍内閣として引き継ぐとしている姿勢と矛盾することになる。
にも関わらず、“政府統一的見解”と“通説の不在”で日本人の歴史認識を統一しようとしている。その欲求が如何に強いかを物語って余りある。