自民党憲法前文に安倍晋三の「積極的平和主義」と日本固有文化優越性の「国柄」を盛り込むことの危険性

2015-04-21 05:23:55 | Weblog


 自民党の船田元・憲法改正推進本部長が4月18日、〈沖縄県宜野湾市で講演し、憲法改正をめぐり憲法前文に安倍晋三首相が掲げる「積極的平和主義」を盛り込むことに意欲を示した。〉と、同日付「asahi.com」記事が冒頭で伝えている。

 船田元「我々は『憲法古着論』と言っている。背広をずっと着ているとほころびや汚れが出る。それをクリーニングできれいにしようというのが我々の方向性だ。

 積極的平和主義も前文に書かれても良いのではないか。

 日本の『国柄』を前文に反映させるため、日本固有の文化が優れていることを絶対に載せたい」(下線部分は解説文を会話体に直す)

 確かに背広は長く着ているとほころびや汚れが生じて、そのうち着ることができなくなる。だが、事は憲法である。これこれの理由で時代に合わなくなった個所・条文があると言うなら理解できるが、憲法そのものを「古着」に譬えるのはその時代に於いては存在していたはずの時代の道標(みちしるべ)となっていた記憶にとどめておくべき先進的な理念や時代を超えて生きる理念をも古着とすることになって、憲法に対する僭越そのものの態度となる。

 安倍晋三の「積極的平和主義」を盛り込むことに反対するのは日本が世界に対して軍事的影響力を高めるため、そのことによって招く周辺国の危惧を払拭するスローガンとしての側面を持たせた「積極的平和主義」だからである。
 
 安倍晋三は経済大国としてだけではなく、軍事大国としても世界に於ける日本の地位・影響力を高めようと狙っている。戦前の日本国家のようにである。

 その背景には戦前の日本国家を理想の国家像とする歴史認識があり、それゆえに戦前の日本の戦争を侵略戦争だと認めない立場を取ることになっている。

 憲法に安倍晋三の「積極的平和主義」を一旦盛り込むことになると、今度はその文言を楯に取り、口実として益々軍事的影響力を高めることを狙う動きに出ることを危惧する。

 日本の『国柄』を前文に反映させることは日本の憲法だからと当然視する向きもあるだろが、憲法は自国の存立性のみを謳うのではなく、国家相対主義とも言うべき関係性を持たせた自国の存立とする構造を持つゆえに日本の憲法であっても、日本国家及び日本国民は世界との関連で存在する、あるいは存在させる関係性を持たせなければならない。 

 日本国憲法前文も、憲法の確定に当たって「諸国民との協和」を求め、「平和のうちに生存する権利」にしても等しく「全世界の国民の権利」であると規程して世界との関連で成立する権利としているのは自国の平和は自国のみで成り立たないし、自国の他国に対する平和を脅かす動きは、当然、対象国の平和を脅かす相互関連性を免れることができないからであって、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と謳い、「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」と、自国の存立性のみを謳うだけではなく、日本を世界との関連で様々な価値観の併立・共存を認め合って存在する、あるいは存在させる国家相対主義とも言うべき関係性を求めている。

 また2012年4月27日決定の自民党日本国憲法改正草案前文にしても、〈平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。〉と謳って、国家相対主義の姿を取っている。

 だが、「日本固有の文化が優れている」と自国憲法に盛り込むことは世界共通の価値観として一般化されている文化相対主義にそもそもから反することになるだけではなく、結果的に憲法の姿としなければならない国家相対主義から外れて、自民族優越性を描く危険性を孕むことになる。

 【文化相対主義(Cultural relativism)】「全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であるとし、ある社会の文化の洗練さはその外部の社会の尺度によって測ることはできないという倫理的な態度と、自文化の枠組みを相対化した上で、異文化の枠組みをその文化的事象が執り行われる相手側の価値観を理解し、その文化、社会のありのままの姿をよりよく理解しようとする方法論的態度からなる」(「Wikipedia」

 特に日本人は権威主義的傾向が強いから、「日本固有の文化が優れている」のは日本の「国柄」だと憲法に謳ったとき、文化の優越性を民族の優越性に結びつけて、その「国柄」を権威として振りかざして、戦前の日本のようにいとも簡単に日本民族優越性の頭をもたげさせないとは限らない。

 この危険性である。

 そもそもからして自民党日本国憲法は天皇を頂点として国民をその下に置く権威主義で成り立たせようと意志している。

 〈日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。〉

 「国民主権」と謳いながら、「天皇を戴く国家」とする国体を思い描いている。

 「戴く」とは国民に対して天皇を上に位置させた関係性を言う。天皇は国民統合の象徴として敬う関係にあるが、国民主権である以上、国民を下に置いて上下で位置づけていい関係性にあるわけではない。

 だが、天皇を上に置こうとしている。

 読みようによっては、「立法、行政及び司法の三権分立に基づい」た「統治」は「国民主権の下」行われるが、国体自体は国民が天皇を頭に戴いた国の形を取ると言っているように読み取ることができる。

 天皇を国家の頂点に置くだけで、日本民族優越性を滲ませることになる。天皇なる存在に日本民族優越性の最たる象徴・最たる武器としているからだ。

 律令時代以降、ほぼ足利幕府時代まで中国や朝鮮半島の文化を移入・模倣・アレンジして日本の文化とし、それ以降の織豊時代から幕末までポルトガルやオランダの文化を移入・模倣・アレンジして日本の文化とし、幕末以降は西欧の文化を移入・模倣・アレンジして日本の文化とすることを伝統としてきたから、何が日本固有の文化かは知らないが、例え日本固有の文化が優れているとしたとしても、それぞれの国の文化にしても優れている点があるという相対主義の姿勢、あるいはそれぞれの国々との共存・共栄があって自国が成り立つとする国家相対主義の姿勢を採らずに日本文化優越性、あるいは日本国家優越性を憲法に込めた場合、どのような言葉で平和主義を謳おうと、世界各国との共存・共栄を謳おうと、全ての言葉をウソにすることになる。

 自民党憲法が日本固有の文化の優越性を憲法に盛り込む姿勢でいること自体、自分たちでは気づいていないとしても、日本民族優越性を精神の血とし、その血に毒されていることの証左となる。

 そのことが〈天皇を戴く国家〉という国の形となって現れることになった。 

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