太田光に「バカ」呼ばわりされた安倍晋三の渋谷同性パートナー条例忌避に見る人権意識と人格主義の危うさ

2015-04-03 07:54:49 | 政治



      生活の党PR

       《4月1日 「生活」機関紙第22号発行》    

      「生活の党と山本太郎となかまたち 機関紙21号」

     ◆辺野古問題を考える
     ◆街頭記者会見開催
     ◆第189回国会活動報告
     ◆「生活」統一地方選公認・推薦候補者紹介

 4月1日(2015年)午後の参院予算委員会の集中審議で社民党の福島瑞穂が、お笑いコンビ「爆笑問題」の大田光にラジオ放送で「バカ」呼ばわりされた安倍晋三に対して東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書の発行を盛り込んだ条例の制定に絡めて同性婚について国も前向きに検討するべきだと質問したとマスコミが伝えている。

 安倍晋三「家族のあり方にも関する問題で、憲法との関係において結婚は両性の合意ということになっている。慎重に議論していくべき課題だ」(asahi.com

 日本国憲法は第24条で、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」 としている。

 要するに太田光に「バカ」呼ばわりされた安倍晋三は憲法では認めていないことだとしている。その心は歓迎しないと言うことなのだろう。

 だが、社会の現実に対応できなくなったとき、憲法とて国民の合意のもと変えることはできる。軍事に関わる日本の国の姿に関しては憲法を変える意志を持ちながら、両性の社会的な在り様に同等な同性のその在り様に関しては憲法を変える意志を希望することすらしなかった。

 理由は「家族のあり方」に関係してくるからだとしている。太田光に「バカ」呼ばわりされた安倍晋三は旧来の家族観に囚われの身となり、その中で生息している。

 いわば伝統的な家族のあり方を変えることに忌避感を見せている。結果的に結婚という社会的な営みを両性の独占とし、そこから同性同士を排除する意思を示していることになる。同じ人間であり、同じ国民でありながら。

 日本国憲法によって同じ権利を保障されていながら、その同じ憲法によって婚姻の権利に限って差別を受けることになる。

 日本国憲法はすべての国民に基本的人権を等しく認めている。基本的人権とは人間が人間である以上、人間として当然持っている基本的な権利を言う。思想・表現の自由等の自由権、生存権や教育を受ける権利等の社会権等々が基本的人権とされる。

 人間は基本的人権の保障を受けて人間として人間らしく生きることができる。自らの存在性を十全に全開して生き、活動することが社会的に許容されることの保障である。

 だが、性的少数者であることによって、そこに差別が生じ、不平等が立ち塞がる。自らの存在性の十全な全開を妨げる。同じ一個の人格を有する社会的存在として性的少数者を見ることができず、人格なるものを抜きに社会的な異端として性的少数者を見ることによって差別を可能とし、不平等を可能とする。

 結果的に排除の論理が働く。憲法を楯にさも正当性があるように見えるが、同じ憲法が保障する人間が人間らしく生きる権利――存在性の十全な全開を踏みにじっていることに気づかない。

 相手が例え社会的少数者に過ぎなくても、政治家から見たなら、無視できる程に票が期待できない存在であったとしても、それぞれに一個の人格を有して生き、行動する社会的存在であると見る人格的価値付け(=人格主義)で眺めることができなければ、太田光に「バカ」呼ばわりされた安倍晋三が如何に女性の権利を言おうと、女性の社会的進出を言おうと、女性の活躍を言おうと、女性の人格の尊重から出た女性政策ではなく、それらはニセモノの言葉と化す。

 単に経済的利用から出た女性政策ということなのだろう。

 社会的多数者の人格は認めることができても、社会的少数者の人格は認めることができないとするのは人格的価値観(=人格主義)自体をウソにすることになる。

 太田光に「バカ」呼ばわりされた安倍晋三は渋谷区の条例を憲法を楯に旧来の家族観から忌避反応を示すことによって基本的人権思想の危うさ、人格的価値観(=人格主義)の矛盾を図らずも暴露することになった。

 太田光に「バカ」呼ばわりされただけのことはあって、その点だけは立派であったと評価はできる。

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