安倍晋三が都議選最終日の7月1日秋葉原応援演説で聴衆の「安倍辞めろ」コールに対して「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と声を張り上げて遣り返したことが言ってはいけない一言だといった批判を受けている。
どう言ってはいけないのか確かめるために演説内容を2017年7月1日付「産経ニュース」記事から拝借して、その発言個所をここに記載してみる。
安倍晋三「(首相の演説中、「安倍は辞めろ」などと叫び続けている反対派の聴衆について)あのように人が主張を訴える場所に来て、演説を邪魔するような行為を私たち自民党は絶対にしません。私たちは政策を真面目に訴えていきたいんです。憎悪からは何も生まれない。相手を誹謗(ひぼう)中傷したって何も生まれないんです。こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない。都政を任せるわけにはいかないではありませんか」
「憎悪からは何も生まれない」と言っているが、憎悪が全て悪と言うわけではない。民主主義者が独裁主義者を憎悪する。この憎悪は独裁主義者にとっては悪だが、民主主義者には自明視される。
価値は常に一方的な解釈で成り立つわけではなく、ときには相対化される。
独裁主義者が民主主義者の独裁主義者に対する憎悪を悪と捉えるのは独裁主義を以って国家を統治する自身を絶対正義と捉える独善に陥っているからで、民主主義者にしても民主主義の原理に立って国家を統治していたとしても、統治する自身を絶対正義とする独善に陥った場合、独裁主義者とさして変わらないことになる。
なぜならいくら民主主義が国民平等を謳っていたとしても、如何なる政治家であろうと、国民全ての利害に応じることのできる政策を創り出す万能の能力など持ち合わせていないことが平等の原理を裏切る民主主義の欠陥となっているし、何よりも人間は常に間違うことのない絶対的存在ではないにも関わらず、自己を絶対正義に位置づけてしまうからだ。
民主主義の原理に基づいた政治を行っていると思い込んでいたとしても、保身に走ったり、保身のために妥協してはならない妥協をしたり、裏取引したり、責任回避を図ったり、自己を最優先したりといった国民の信頼を裏切る様々な間違いを犯す。
このような間違いを間違いだと気づかずに国家統治は自分以外にいない、他者には任せることができないからだと正当化していた場合、既に自身を絶対正義とする罠に陥っていることになる。
聴衆の安倍晋三に対する「安倍辞めろ」とか、「安倍帰れ」コールは確かに安倍晋三に対する憎悪の感情を含んでいないわけではないだろうが、それはあくまでも安倍晋三という政治家の政策に現れている思想や政治の進め方、あるいは利害の偏りが罷り通ることへの批判が憎悪の感情となって現れているのであって、一方の安倍晋三は憎悪の構成要因を一切考えない自己を絶対正義とする反応で応じている。
先ず自分たちが訴える政策は全て正しい政策――正義そのものであるかのように「私たちは政策を真面目に訴えていきたいんです」と言っている。全利害対応の政策が存在しない以上、どのような政策であっても、すべての国民に対してこの政策こそが絶対正義だと認めさせることなどできないにも関わらず、「訴えていきたい」と言うことで、安倍晋三の政策のみを絶対正義としている。
自分たちの政策そのものを絶対正義としていなければ、具体的な政策だけを訴えるだろう。但しその政策が約束する利害を選択するかどうかは国民自身が決める問題であって、選択した国民に限っての絶対正義となったり、比較正義となったりする。ときにはアベノミクス政策のように言っているとおりの利害に騙されて、その利害を選択した国民にとっても絶対正義どころでないといったことも生じる。
要するにどのような政策であろうと、絶対正義であるとかないとかは政治家が決める問題ではなく、国民個々が決める問題である。
自分たちの政策を絶対正義としているから、「安倍辞めろ」、「安倍帰れ」コールが安倍晋三という政治家の政策に現れている思想や政治の進め方、あるいは利害の偏りが罷り通ることへの批判を構成要因としていることに気づかず、考えもせず、単純なまでに憎悪という感情一つに集約することができる。
そして「誹謗中傷」、反対派の声を誹謗中傷とすること程、気が楽なことはない。また反対派の声を誹謗中傷と見做すことは自己の政策や政治行動を絶対正義としていることによって成り立つ。
如何なる政策も国民全ての利害に応じることはできないが、より多くの国民の利害に応じることによって、国全体を良くしていくしかないという謙虚さ、あるいは一部の国民の利害にのみ応じてしまう政策が往々にして起こるゆえにそのことに気をつけなければならないという謙虚さを少しでも持ち合わせていたなら、単純に反対派の声を「誹謗中傷」で片付けることはできない。
反対派の「安倍辞めろ」、「安倍帰れ」コールを「憎悪」だと単純に解釈し、コールそのものを「誹謗中傷」に貶める。そうである以上、「こんな人たち」とは「この程度のレベルの人たち」と見下した意味を取る。
これも自己を国民の上に置いて自らを絶対正義としているからこそ、「こんな人たち」と見下すことができる。
安倍晋三の自己絶対正義視は国民の利益よりも国家の利益を優先させる国家主義に起因している。
安倍晋三がもし国家主義者ではなく、国民主義者であったなら、全利害対応の政策が存在しないことを痛感、常に謙虚な姿勢を取ることになるだろうから、反対派のコールを「憎悪」と表現することもなく、「誹謗中傷」と非難することもなく、「こんな人たち」と蔑視こともない。
いや、こういった発言を口にすることもない。
蔑視の感情は排除の思想を裏打ちしている。
民主主義国家に於いて、あるいは民主主義国家であっても、政治が国民と向き合う姿勢を慣習にしていると、全ての国民の利害に応じることはできないゆえに自己を絶対正義とする弊害に陥ることは難しいが、国家と向き合った政治を自らの姿勢としていると、国民の利害を軽視し、国家のためという理由一つで自己を絶対正義に向かわせる弊害を招きやすくなる。
戦前、日本の軍部は自らを絶対正義者として国民の上に君臨し、国家の正義を体現していた。
官房長官の菅義偉が安倍晋三の「こんな人」発言を「首相の発言は極めて常識的だ。民主主義国家なのだから選挙応援の発言は自由。縛ることなどあり得ない」と述べたと、「共同通信47NEWS」記事が伝えていた。
「首相の発言は極めて常識的」で、「選挙応援の発言は自由」と見做す感覚は、菅義偉も国家主義に侵されているのか、見事である。「縛ることなどあり得ない」と言っていることは安倍反対派の「安倍辞めろ」、「安倍帰れ」コールのことを言っているのだろうが、安倍晋三が国家優先の国家主義者である以上、発言を“縛りたい”欲求は持っているはずだ。
安倍晋三の報道の自由を抑圧しようとする動きは既に出ていることが証明する。