大川小訴訟の市側請求棄却にイジメ自殺に於ける学校・教育委員会の責任逃れの構造が透けて見える

2014-05-21 10:31:45 | Weblog

 

 東日本大震災で石巻市大川小の児童と教職員計84人が死亡・行方不明、その責任を問い、児童23人の19遺族が石巻市と宮城県に23億円の損害賠償を求める裁判を起こし、その第1回口頭弁論が5月19日、仙台地裁で行われた。

 最終判決は県と市の責任をどの程度認めるのか、認めないのかは分からないが、裁判に於ける市側の請求棄却理由やその他地震発生以降のマスコミが伝える学校側の対応からは、イジメ自殺が起きたときの学校と教育委員会が決まってのように責任逃れに走る構造が透けて見えてくる。

 裁判に於ける遺族側と市側の対応は次の記事を参考にする。

 《大川小訴訟 「津波予見できず」 市、県棄却求める》河北新報/2014年05月20日 火曜日)    

 先ず訴えについて記事は、〈教職員は 2011年3月11日の地震発生後の約45分間、児童に校庭で待機するよう指示。午後3時37分頃に津波に巻き込まれ、児童74人が死亡・行方不明になった。〉と書いているが、要するに約45分間も校庭に待機させて的確な避難指示を出さなかった、この責任を先ずは問題としていることになる。

 市と県は「津波の予見可能性はなかった」として裁判の請求棄却を求めたという。

 市側主張。

(1)大川小は市のハザードマップで浸水域外だった
(2)過去に大川小に津波が到達した事実はなく、周辺住民も8割が死亡した

 ゆえに「教職員が津波を予見できなかったのはやむを得ない」

 地震直後の教職員の対応について。

 「混乱した状況で臨機応変に避難させるのは酷。裏山に安全に避難させる経路もなかった」

 県側主張「県は教職員の給与を負担しているだけで、監督権限は市にある」

 遺族側主張「裏山に逃げようと言った児童がいたのに教職員が止めた。教職員がいなければ児童が亡くなることはなかった」

 「教職員が防災無線で津波の危険性を認識できた」(解説文を会話体に直す)

 「周辺住民も8割が死亡したと言っているが、児童の命を守る義務がある教職員と周辺住民の立場は違う」(解説文を会話体に直す)

 遺族7人の意見陳述のうち、今野大輔君=当時(12)=の父親。

 今野浩行氏「避難のために十分な情報も時間もあった。大人の間違った指示がなければ救えた命だった」

 第1回口頭弁論に当って村井嘉浩宮城県知事と亀山紘石巻市長それぞれが出した談話。 

 村井知事「県の想定を遥かに超える規模の津波による、未曽有の災害の下で起きた事故だ。教職員の監督権限を持つ石巻市の対応を見守りつつ、県として適切に対応する」

 亀山市長「市の考えは法廷で答弁した。今後とも真摯(しんし)に対応していく」――

 市側が請求棄却の理由としている、(1)「大川小は市のハザードマップで浸水域外だった」と(2)「過去に大川小に津波が到達した事実はなく、周辺住民も8割が死亡した」のうちの「過去に大川小に津波が到達した事実はない」の二つの理由は一見、合理的に聞こえて、市側にも学校側にも瑕疵がないように見える。

 では、地震発生時、児童を校庭に退避させた時点前後で、教師たちは上記二つの理由を認識した上で対応していたことになる。「大丈夫、揺れさえ収まれば、津波は来ないよ」と。そういった前提で行動していた。
 
 つまり、教師の対応に間違いないことを証明するために市の説明によって後付けて取り付けた理由ではないということである。

 ということは、地震発生時、瞬間マグニチュード9.0 最大震度宮城県栗原市観測震度7、石巻市は震度6強の激しい揺れ(栗原市から石巻市まで直線距離で40キロ程度だと言う)を受けたとき、頭に津波の発生を一応は認識していたことになる。認識しないまま、「過去に大川小に津波が到達した事実はない」としていたなら、矛盾する。

 海岸近くは津波に襲われるかもしれないが、過去に大川小にまで津波が到達した事実はないのだから、ここまでは被害は及ぶことはあるまいと予想し、その認識で物事を判断していた。

 予想は当然と言えば、当然と言うことができる。太平洋側の東北各県は三陸沖海底を震源とする巨大地震と大津波の歴史を抱えているからである。

 だとすると、ここで疑問が生じる。

 遺族側が主張している「裏山に逃げようと言った児童がいたのに教職員が止めた」とする事実である。

 これを事実と書いたのは、2011年9月14日木曜日午後7時半から放送のNHKクローズアップ現代「巨大津波が小学校を襲った~石巻・大川小学校の6か月間~」が遺族側主張に添う事実を生き残った子どもや親からの証言を用いて既に発信していたからである。

 このことに触れる前に、市側主張に合致する記述を取り上げることにする。〈大川小学校一帯は過去に一度も津波に襲われた経験がなく、石巻市のハザードマップの浸水域の対象外であった。そのため大川小学校は津波襲来を想定せず、津波に備えた避難のマニュアルを備えていなかったばかりか、大川小学校自体が緊急時の避難場所に指定されていて、地域の住民も津波が来るという意識はなかった、〉――

 2011年3月11日午後2時46分、地震発生

 子どもたちは直ちに校庭に避難。避難場所となっていたために保護者やお年寄りまで次々と駆けつける。 

 教師は児童に校庭で待機するよう指示。それが45分にも及んだ。

 但し余震に備えて、校舎に戻らずに校庭に単に待機させていたわけではない。

 記事は、子どもたちをどこへ避難させればいいのか、教師や住民たちが急遽2個所を検討。一個所は校庭から歩いて1分程の裏山。

 この裏山は子どもたちがシイタケ栽培の実習なので登っていたという。

 もう一個所は学校から3分ほどの橋や堤防と同じ高さの交差点で三角地帯と呼ばれている場所と伝えている。

 校庭から歩いて1分程の裏山を避難場所として検討している以上、津波を避けることを目的とした検討ということになる。

 小学校5年の男子が証言している。

 5年生男子「どこに逃げるとか、山さ逃げよう、いや、お年寄りがいるから、三角地帯だとか、山に逃げた方がいいとか言ったり。お年より逃げにくいから、やっぱ三角地帯だとか言って、物凄く不安で、やっぱ、おいは(俺は)山に逃げればいいのになあーって」――

 この証言のあと、続いて次の事実を伝えている。

 その場にいた教師と大人たちの何人かは市の広報車が「津波が海岸の松林を越えてきたので、高台に避難してください」とアナウンスする避難指示の声を聞いたと証言している。

 多分、市の広報車の津波避難指示の声を聞いたのが先で、聞いたから校庭で二次避難場所の検討をしたのが後だと思うが、そうでなければ、「過去に大川小に津波が到達した事実はない」に反する行動に出るはずはないから、少なくとも校庭から次の避難場所として2個所を検討し始めた時点で、津波襲来を認識し、津波への警戒心を働かせていたことになる。

 特に校庭から歩いて1分程の裏山を二次避難場所として検討対象に挙げていたことは明らかに津波を避ける意図から出た高台選択であったはずだ。

 となると、市側が挙げていた、(1)「大川小は市のハザードマップで浸水域外だった」と、(2)「過去に大川小に津波が到達した事実はない」の請求棄却理由は、市の広報車が間近にまで来て津波の恐れと高台避難の警告を発していたことと併せて、二次避難場所を検討した段階で教師たちは無効としていたことになる。

 請求棄却理由に挙げていた事実にあくまでも拘っていたとしたら、津波を避けるために動き出すはずはない。だが、動き出したのである。無効としたからこそ、次の行動を取ろうとした。

 だが、市は請求棄却理由として今以て有効としている。ここに矛盾が存在しているはずだ。

 あとは二次避難場所の選択の問題となる。

 但し、津波避難の常識である高台や高所への避難ではなく、橋や堤防と同じ高さので三角地帯と呼ばれている交差点を避難場所として選択した。川の水面は普段は堤防の頂点からかなり低い位置にあったとしても、津波が襲えば、当然、水面は上昇する。

 また、津波が発生した場合、震源の位置にも関係するが、津波の高さは地震の大きさに関係すると見なければならないはずだ。特に大川小辺りの北上川の川幅は500メートル前後とかで、河口から5キロ程度内陸に位置しているとなれば、津波の遡上は当然視野に入れていなければならないことになる。

 だが、視野に入れていなかった。

 もう一つ、二次避難場所の選択で、無効とさせなければならない疑いのある事実の検証が必要となる。

 地震直後の教職員の対応について、「混乱した状況で臨機応変に避難させるのは酷。裏山に安全に避難させる経路もなかった」と免罪しているが、上記NHK「クローズアップ現代」は、「裏山を子どもたちがシイタケ栽培の実習に使っていたとしている。

 これはNHKが誰かの証言から得た情報事実であるはずだ。

 実際にシイタケ栽培の実習に登っていたとしたら、「裏山に安全に避難させる経路もなかった」は責任逃れの虚偽情報の流布に当たる。

 事実かどうかの検証が必要となるが、どのような山も、麓から断崖絶壁でそそり立っていない以上、経路はさして問題ではない。草を掻き分け、登れないことはないからだ。

 また、市の広報車が津波が三角地帯を襲う何分前に大川小近辺のどの道路を走ったのか、検証する必要がある。市の報告書では学校の避難開始時間は午後3時25分、津波到達の12分前だとしているそうだが、それよりも遅かったという証言もあるそうで、市の広報車の警告時間と避難開始時間のズレによって、教師たちがどれ程に強い危機感を持って子どもたちの命の安全を守ろうとしていたかが明らかになるはずである。

 強い危機感の中には津波襲来に対しては高台避難、もしくは高所避難の常識を含んでいなければならない。高台避難・高所避難の常識を持たずに津波から子どもたちの命を守るために強い危機感の中、避難場所を考えたとするのは逆説的に過ぎる。

 となると、裏山に安全に避難させる経路がなかったのか、シイタケ栽培の実習に使っていたのではないかと検証しなくても、校庭から歩いて1分程の裏山を二次避難の場所として選択しなかったこと自体が、既に危機感を欠いていたことになり、色々と理由を上げて責任はないとしていることは、イジメ自殺が起きたとしても、教師や教育委員会が虚偽の情報を流したり、事実を隠す情報隠蔽を謀ったりしてイジメに気づかなかったとか、イジメと自殺の関連性を否定して責任を回避する構造が透けて見えることになる。

 津波が三角地帯を襲ったとき、列の後ろにいた教師や児童が三角地帯付近で間近にまでせり出している、学校裏と地続きの裏山に咄嗟に逃げることができて、無事だったというのは避難場所の選択に関しては皮肉な事実となる。

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5月11日放送「たかじんのそこまで言って委員会」の従軍慰安婦議論に番組ぐるみの一種の言論封殺を見た

2014-05-20 10:43:57 | 政治


 


      生活の党PR

       《5月16日『小宮山国対委員長、ゴミ屋敷禁止法案野党4党共同提出』》

 2014年5月11日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』「女性の女性による女性のための大討論大会!女性が考える女性問題どこがダメなのか徹底討論SP」での従軍慰安婦をテーマとした最初のコーナーは公平性・中立性を著しく欠いた番組となっていた。

 普段レギュラーがパネラーとして座っているヒナ檀に8人の女性パネラーが座り、対して普段パネラーを務めている男性陣のうち津川雅彦、桂ざこば、加藤清隆、宮崎哲弥、井上和彦、竹田恒泰の6人が女性パネラーに対陣するように前の長椅子に一列に座って、女性パネラーに対して質問したり、賛意や批判を示す形式となっていた。

 そして司会者はいつもの通りの山本浩之。

 先ず女性パネラーの面々。作家で反貧困ネットワーク代表の雨宮処凛(かりん)、ジャーナリストの大高未貴、田嶋陽子(元参議院議員)、健康社会学者だとかいう河合薫、東京都杉並区議会議員松浦芳子、日本維新の会衆議院議員三木圭恵(けえ)、女優・作家で竹田恒泰の慶大での弟子だとかいう吉木誉絵(よしき のりえ)、市民団体「なでしこアクション」代表の山本優美子となっている。

 健康社会学者の河合薫の主張が今一つ明瞭でなかったから外すとして、従軍慰安婦強制連行肯定派は田嶋陽子と雨宮処凛の二人のみで、他の5人は否定派であり、司会以下、出演男性陣がどれも否定派なのだから、番組の構成自体が公平性・中立性といった点で最初から偏った性格のものとなっていた。

 どう否定派なのかと言うと、山本優美子が代表を務める市民団体「なでしこアクション」は“「慰安婦=性奴隷」のウソに終止符を”をスローガンにインターネット上で集まった有志たちで構成されているとかで、山本優美子は性奴隷とか強制連行はなかったと発言している。

 ジャーナリストの大高未貴は従軍慰安婦韓国捏造説・強制連行虚偽説を主張。

 東京都杉並区議会議員の松浦芳子は慰安婦の碑の設置反対の「慰安婦像設置に抗議する全国地方議員の会」の代表を務めている慰安婦否定派である。

 日本維新の会衆議院議員の三木圭恵は中山成彬を中心とした 「慰安婦問題に関する河野談話見直しを求める国民運動」と称した署名活動を行っているメンバーであるし、竹田恒泰の慶大非常勤講師時代の弟子の27歳とかの吉木誉絵はコチコチの竹田二世。「従軍慰安婦はただの都市伝説」とパネルに書き込んだ否定強硬派であり、性別に「大和女子」と名乗る程に国粋主義的である。

 特に肯定派最強硬の田嶋陽子が従軍慰安婦の存在と強制性を主張すると、否定派5人が田嶋陽子に向かって口々に一方的に否定論をぶっつけ、喋れなくしてしまう。しかも女性パネラーを前にして傍聴人よろしく一列に並んで座った、普段はレギュラーとして出演している津川雅彦だ、桂ざこばだ、加藤清隆だ、宮崎哲弥だ、井上和彦だ、竹田恒泰だの従軍慰安婦否定派が揃って同じ穴のムジナの女性否定派に肩入れする口を挟み、田嶋陽子には反論、時には嘲笑の言葉を吐きかけるのだから、公平でも中立でもあるはずがない。

 要するに、特に田嶋陽子の従軍慰安婦肯定論を打ち破って否定論をぶち上げることをテーマとした番組となっていた。

 さらにゲストとして番組の公正性・中立性の欠如に輪をかけるように自由主義史観代表、新しい教科書をつくる会理事、拓殖大学客員教授、否定派の藤岡信勝を援軍としてゲストに招いていたのだから、番組ぐるみの従軍慰安婦否定の策謀と言えなくもない。

 勿論、否定派が肯定派の言いたいことを十分に言わせて、言ったことに対して合理的な反論を試みるなら、言葉の闘わせに何ら問題はないが、相手の言いたいことを最後まで言わせない状況をつくり出して自分の言いたいことを押し付けようとする多勢に無勢の様相を呈していたのだから、一種の言論封殺以外の何ものでもない。

 では、両者の遣り取りの中から、そういった様子を見てみる。
 
 田嶋陽子「私はこの問題をずっとやって来ましたから。東チモールからインドネシアから、台湾から中国から。慰安婦の人たちに会ってきていますけども、日本にも慰安婦はいたんです。数万人。何でその人達が名乗り出な いかと言うと、『聖霊を汚すな』っていう物凄い圧力があって、そういう人たち発言できないんですよ。

 一人だけ、1971年、本を書きました。城田すず子さんという人ですけども、初めてラジオで発言しました。日本にも亡くなった慰安婦の人たちを祀ってある小さな教会があります。

 そして去年、東チモールで最後の慰安婦が亡くなった。13歳で騙されたんですね。その人が日本に来て証言しているんですが、その時に騙すに当たって協力したのは王様と、それから村長さんなんですね。

 それは韓国でも、それは官憲に威されて、それで(否定派が反論しようとして一斉に口を開く)、ちょっと待って、もう少し――」

 加藤清隆「デタラメなことをベラベラ喋るんじゃないよ」

 「Wikipedia」に政治評論家で時事通信社特別解説委員とか書いてあるけれども、自身の地位に対するこの品のない発言は何を意味するのだろう。品がないばかりではない。相手の言論に対して言論を以って反論するのではなく、罵り言葉で相手の言論を封じようとした。まさしく不当な手段を用いた言論封殺以外の何ものでもない。

 田嶋陽子(ちょっと驚いたふうにして、加藤に)「これ証言ですから」

 数枚綴じた紙を差し出すようにする。ところが司会の山本浩之が否定派の大高未貴に質問を振ってしまい、間接的に田嶋陽子の発言を遮ってしまう。司会者である以上、中立な立場からどちらの言葉がデタラメか検証しなければならない役目を担いながら、発言を遮ってしまったのだから、これも一種の言論封殺に相当するはずだ。

 司会者の山本浩之自身が従軍慰安婦否定を前提に番組の進行を進めていることが分かる。

 だが、我が田嶋陽子は喧しい中、くじけずに、用意した証言を読み上げようとする。

 田嶋陽子「ここに城田さんの言葉があるけど、いいですか」

 軍事ジャーナリストの軽量男井上和彦が遮るように右手を上げて口を挟む。

 井上和彦「そんな言葉はいいですよ」

 言論封殺の挙に出る。

 ここで否定派の援軍藤岡信勝がゲストとして登場。否定の根拠を並べ立てる。それらがデタラメなのは、「従軍慰安婦20万人説」否定の論拠を見れば分かる。

 藤岡信勝「20万人と言うと、日本軍兵士が平均すると、毎日1.3回行かなければならない計算になるんですよ。ですから、あり得ない」

 確かに人数には色々な説がある。だが、「毎日1.3回」平均して慰安所に通ったということは20万人の慰安婦が平均して毎日1.3人の 日本軍兵士を取ったことを意味するから、26万人の日本軍兵士が平均して通ったことになる。

 ということは、日本の陸海合わせて26万人以下の兵員数なら、「毎日1.3回」平均して慰安所に通うことはできない計算になって、「あり得ない」という話になるが、《図録▽アジア各地における終戦時日本軍の兵数》(社会実情データ図録/2010 年8月9日収録)には終戦時に海外から日本に引き上げた日本軍の軍人・軍属は約330万人、別のサイトに軍人・軍属の外地戦場での戦没者は210万人とする記録が存在、この210万人が戦争の早い時期に一度に亡くなったと計算したとしても、学徒動員や赤紙臨時招集の形で補充していったから、戦争中常時約330万人以上の日本軍兵士が存在していたことになる。

 その内 の26万人、約330万人で計算したとしても、7.8%以下 (400万人で計算すると、6.5%に下がる)の兵士が「毎日1.3回」平均して慰安所に通うことは決して「あり得ない」話ではなくなる。 

 慰安婦の人数に色々な説があるにしても、特に敗色濃くなれば、明日の命も知れない予想確率は高くなり、出撃命令を待つ身の兵士は生きている間はと時間を惜しんでせっせと通っただろうことを考えると、逆に20万人の慰安婦数では不足するようにすら思える。

 但しそれが女性が自由意志で任意に行っている慰安行為ならいいが、そこに強制が混じっていたとしたら、当然のこと問題となる。

 藤岡信勝の自身の計算を根拠とした「あり得ない」否定説はこの程度である。 

 少し間を置いてジャーナリストの大高未貴が発言したが、頭の程度が知れる内容となっている。

 大高未貴「アメリカに訪問されていたとき、慰安婦問題がアジアン・ホロコーストとして喧伝されていたんですよ。慰安婦問題、南京虐殺問題含めて。

 アジアのホロコーストというカテゴリーに括(くく)られて。『いいんですか』って(元駐日イスラエル大使に)聞いたら、このような回答を頂いたんですね」

 画面に以下の文章のキャプション。

 ――元駐日イスラエル大使エリ・コーエン氏の証言

 「ホロコーストは世界に比類のなきものであり、それを他の国が起こしたということはありえない。ホロコーストはあくまでもナチス・ドイ ツが起こしたものである。

 日本はホローコーストなど起こしていない。

 今、新しい冷戦構造の中で、多くの国がホロコーストをプロパガンダのツールとして利用している、ということに日本人は気付かなければならない。そして、日本人は『これ(韓国人の主張)は嘘だ。

 誰もそんな嘘は信じない』などと言っている場合ではない。

 すべての日本人が自分の持っている力を出し、ネットなどありとあらゆる武器を駆使して、世界に真実を発し、この情報戦を戦うべきだ。」
  
 大高未貴氏のインタビュー(2014.4.24) ――

 竹田恒泰「もしアジアン・ホロコーストと言うんだったら、それこそ広島・長崎の 原爆のことだと思いますね」

 元駐日イスラエル大使エリ・コーエン氏の証言は、「ホロコーストは世界に比類のなきものであり」、「ホロコーストはあくまでもナチス・ドイツが起こしたものである」と言っているように、銃殺、人体実験、ガス室等の残虐な方法による600万人(一説には 250万人)のユダヤ人に対する大量殺害をそのまま厳密に意味化した歴史的事実がホロコースト(=大虐殺)であり、このホロコースト以外に厳密にホロコーストだと意味化できるは歴史的事実はドイツ以外の地の歴史のどこを探しても存在しないという文脈でのアジアン・ホロコーストの否定であって、従軍慰安婦や南京大虐殺という歴史的事実まで否定しているわけではない。

 いわば従軍慰安婦や南京大虐殺は人数の規模から言っても、殺害方法の残虐性の点から言っても、あるいは民族浄化という目的から言っても、ホロコーストの名に値しないとしているに過ぎない。そしてこの観点から、従軍慰安婦や南京大虐殺をアジアン・ホロコーストとしている 情報に対して戦うべきだと勧めているに過ぎない。

 この根拠として、「Wikipedia」から見つけた情報だが、1990年代に旧ユーゴスラビア地域で各民族間の内戦が勃発中、セルビア人によるアルバニア人に対する虐殺をマスコミが「ホロコースト」と名づけて糾弾すると、〈ナチスによるユダヤ人虐殺以外に使わせることをユダヤ人団体が認めようとせず不快感をあらわにした〉結果、セルビア人の対アルバニア人虐殺を、英語の場合は「ethnic cleansing」(=民族浄化)に変えた事実を挙げることができる。

 皮肉な言い方をすると、ホロコーストという名称はナチス・ドイツの商標登録ということなのだろう。

 要するに元駐日イスラエル大使エリ・コーエンにしても、「ホロコースト」という名称に拘ったということである。にも関わらず、大高未貴は大使の証言を従軍慰安婦存在否定説、あるいは強制連行否定説、そして南京虐殺否定説に取り替える我田引水に過ぎない頭の程度・理解度を示したに過ぎない。

 竹田恒泰は「もしアジアン・ホロコーストと言うんだったら、それこそ広島・長崎の原爆のことだと思いますね」と言っているが、例えそうであったとしても、国民の命・兵士の命を考えずに国体(天皇制)に拘って、戦争終結を手際よく図ることができなかった日本政府と軍部の責任は問わないご都合主義を見せている。

 頭の程度の低い連中だ。

 井上和彦「私は色々と韓国人と色んな話を、問題をやった時にね、(韓国人が)『なかった、なかった(と言うなら)証拠を出せ』。じゃあ、こっちは、 『あった証拠を出せよ』と。

 (韓国人は)『ない。日本軍が全部燃やした』と。法的に認められた慰安所のことですから、私は、燃やす必要はないわけですから、そんなバカな話はないし、やっぱり証言者がね、うちの従兄弟のお姉ちゃんが連れ去られたりしたとか、妹が連れ去られたりとか、そういう人、誰もいないじゃな いですか。これおかしいですよ」

 藤岡信勝が尤もらしげにに頷きながら聞いている。

 井上和彦の言っていることが正しいとすると、法的に株式会社として認められた企業は脱税して作成することとなった二重帳簿を隠す必要はないということになる。法的に認められたとしても、法に触れること、名誉に関わることをしていたなら、その証拠を燃やすなり、廃棄処分するなりの処置を取らざるを得なくなる。

 こういった常識的な判断もできない。

 藤岡信勝「朝鮮半島から、ただの一人も法廷に証言者がいない」

 井上和彦「親族とかね、関係者いないですよね」

 田嶋陽子「だって、セック ススレーブにされた人は民間に知られたら、その人はリンチにされたんですよ」

 井上和彦「(慰安婦として名乗り)出てきているんじゃないですか。出てきているんじゃないですか」

 田嶋陽子「フェニズムということがあって、女性の人権がと言うことを知ってから、みんな勇気を出して出てきたんであって、その前は、この前は、城田さんだって、発言できない。日本人に数万人の慰安婦がいたんですよ。その人たちは誰一人、何て言ったかというと、(綴じた紙を取り上げて)『名乗り出て、国に恥をかかせるな』って。

 要するに毎日15人から30人の客を50銭で取らされていた女の人は、そして使い物にならないからと言って、裏に穴を掘って埋められた女の人たちが、そういう人たちが日本に帰ってきて、言えないんですよ。

 で、最後にパラオで以って、(周りから一斉に反論が起こる)ちょっと待って。パラオで――」

 言論封殺で田嶋の口を閉じさせる。

 吉木誉絵「お母さんとか兄弟とかがいるわけじゃないですか。20万人の女性だとしたら、少なくとも50万人から60万人の周りの男性たちが、何で暴動を起こさないのかなって。指をくわえていたのかなっと思って・・・・」
 
 井上和彦「(腕を組んで)そうです。その通り」

 二人とも底なしの頭の悪さだが、自分では気づかない。20万人の慰安婦の女性が一つの街、あるいは一つの村に纏まって存在していたわけではないのだから、「50万人から60万人」の親兄弟が纏まって協力して抗議の暴動など起こしようがない。多くの朝鮮人が日本軍を恐れ、一人ひとり息を潜ませていたのである。

 以前ブログに利用したが、内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に報告した『復命書』には、動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんたん)たる目に余るものがあるといっても過言ではない」 と述べ、動員の方法に関しては、事前に知らせると逃亡してしまうため、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の 事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし家計収入がなくなる家が続出したなどの実情が記されているという。

 要するに一般的な韓国人は人質的掠奪・拉致を横行させてしまう程に治安の保護を受けていない弱い存在であった。逆に朝鮮総督府とその手下の韓国人官憲は治安を守るどころか、治安を壊し、韓国人を苦しめていた。

 田嶋陽子「一つこういう話があるんですけど、韓国人のお父さんが、自分の娘が慰安婦だったということを聞いて、(自分の左側側頭部を手で押さえて)ショックで亡くなったという人もあったくらい――」

 吉木誉絵「韓国の警察がそこでは機能していて、日本人は韓国に警察機能を任せていて――」

 田嶋陽子「だって、韓国の警察は日本の政府の言いなりですから」――

 以前ブログに書いたが、『日本軍に棄てられた少女たち―インドネシアの慰安婦悲話―』プラムディヤ・アナンタ・トゥール 著・コモンズ)には暴力によって日本軍に拉致・誘拐され、慰安婦とされた未成年のインドネシア少女が日本軍の敗戦によって故郷に戻って、慰安婦にされていたことが知られると、家族の恥、一族の恥とされ、「ジキジキジュパン、ジョウトウ、ナイデスネ(日本人とセックスした女は汚い)」、「ジキジキジュパンは出て行け」と蔑まれるために名乗ることも身の上を話すこともできなかったという記述がある。

 敗戦から確か1970年頃まで、女給がホステスと名を変えても、自身の職業を恥ずかしいものとして隠さなければならなかった。市民権を得て、クラブのホステスをしています、キャバレーのホステスをしていますと名乗ることのできる市民権を得たのはそれ以後のことだったはずで、戦後の日本と言えどもそれ程にも個人の権利意識は社会的な抑圧を受けていた。

 当然、慰安婦となれば、ホステス以上に隠す必要があっただろうことは想像に難くない。

 さらに言うと、個人の権利意識が向上した民主主義社会の今日でも、性同一性障害者は満足に名乗ることができない状況にあり、名乗った場合、時として偏見や差別を受けることもあるのだから、戦前や戦後の暫くの間、慰安婦が名乗ることができなかったということを十分に考えなければならない合理性を備えるべきだろう。

 そういった時々の状況に於ける日本人の人権意識、あるいはアジア一般の人権意識を考えずに親兄弟がいながら、誰一人証言者がいない、法廷に立つ者はいないなどと合理性を欠いたことを言う。

 だが、このような合理性の欠如は程度の低い連中の各個人的な問題だが、偏った出演者で番組を構成して、頭数に頼んで十分に相手に話させないようにする番組ぐるみの一種の言論封殺は公共放送としての報道機関の名に反し、決して許されることはないはずだ。

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安倍晋三は交戦・戦闘の最前線に立つ自衛隊員にこそ集団的自衛権憲法解釈行使容認か憲法改正要認か問うべし

2014-05-19 04:40:55 | Weblog



 一昨日5月17日放送の「ウェークアップぷらす!」が自民党幹事長石破茂出席のもと、集団的自衛権の問題を取り上げていた。石破茂は言わずと知れた安倍晋三の憲法解釈行使容認の先導部隊長である。

 自民党幹事長石破茂が、安倍晋三が5月15日の記者会見で言っていたことを何の保証もないのに受け合っていた。

 石破茂「集団的自衛権を行使することが如何に戦争を起こさないためのものかということをきちんと(国民に)ご説明するしかありません」――

 安倍晋三は記者会見で集団的自衛権行使が容認されたら、海外の邦人がテロ集団に襲われたとしても、すべて解決できるといった“集団的自衛権安全神話”とも言うべき雰囲気を振り撒いていたが、同じく行使容認によって、「我が国が戦争に巻き込まれることがなくなる」とする発言は一発でどのような病気も収まる、“集団的自衛権万能薬”といったところだ。

 しかし安倍晋三のこの言葉は集団的自衛権を認められていなかっときは日本が戦争に巻き込まれていたみたいに聞こえるから、詭弁臭たっぷりに聞こ える。

 モルヒネのようなガンの激しい痛みを抑える薬は存在するが、ガンそのものを抑えるわけではなく、どのような病気も一発で収めることができる万能薬など存在しない。つまり集団的自衛権行使と言えども、万能薬ではないということであり、であるなら、国民にそうであることを正直に説明すべきだが、逆の万能薬であるかのように言い触らす情報操作を行っている。

 万能薬ではない以上、5月16日のブログに書いたように自衛隊の交戦機会・戦闘機会が増えれば、逆に予測しない突発事態――部分的戦争や全面戦争に発展しかねない危険区域の機会も増えることになる。

 やはり結果はどうなるにしても、一内閣の憲法解釈ではなく、国民自身が決めることになる憲法改正の投票によって容認か否かを決定して、国民自らの責任行為とすべきだろう。

 「ウェークアップぷらす!」ではビデオ出演だったが、別の意味で自衛隊にとって国民の責任に於いて決めて貰わなければならないとする意見が出た。

 柳澤元内閣官房副長官(防衛省出身)「実際に動くのは現場の自衛隊ですから、その、国民的なコンセンサスがどういう形であるのかということが一番はっきりするのは憲法改正をすることですよね。

 きちんと、その憲法上の手続を踏んで、国民的なコンセンサスを得て貰わないと、自衛隊だってね、あの、十分な思い切った活動はできませんよね。

 ま、そういう意味でも、今の進め方には非常に不満、不安と言うよりは、不満を感じていますね」――

 一内閣の決定ではなく、憲法改正を通した国民の決定(=国民の声)を背景としなければ、自衛隊は国家安全保障上の行動を満足に取ることができないのではないのかとの主張である。

 この主張は同時に行使容認決定主体に対する自衛隊の信頼性の問題に帰着する。一内閣の決定では信頼性を置くことはできないが、国民の憲法改正を通した行使容認は信頼が置けるということの言い替えである。

 信頼性に対するこの恐れが事実だとすると、首相の自衛隊に対して内閣を代表して有している最高指揮監督権の行使は、一内閣の憲法解釈容認の場合は国民投票による憲法改正の場合と比較して、有事の際、微妙に阻害要件となることを意味することになる。

 いくら自衛隊に対して最高指揮監督権を有する内閣総理大臣であっても、後方にあって命令を出すだけの存在であり、生命の危険を直接的に曝すことを代償として平和を最前線で担う実働部隊が自衛隊である以上、どちらに信頼を置いて最前線で平和を担うことができるか、一内閣による憲法解釈行使容認か、憲法改正による行使容認か決める前にまず自衛隊員全員に投票させる形でいずれかを問うべきではないだろうか。

 自衛隊員が心置きなく動きやすい精神的環境を先ずは用意すべきだろう。

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安倍晋三のいつまで続く恒例行事化した福島試食の風評被害払拭行脚 そろそろ卒業すべきではないのか

2014-05-18 05:09:50 | Weblog

 

 安倍晋三が5月17日、1ヶ月に1回は福島入りしているとかいう福島へとまたまた風評被害払拭行脚に出かけ、風評被害払拭のための、もはや恒例行事となっている試食を行ったという。

 《安倍首相「根拠のない風評には国として全力を挙げて対応」》スポーツ報知/2014年5月17日18時41分)

 5月17日の午前中は福島市の福島県立医大を視察。

 安倍晋三「(東京電力福島第1原発事故の影響に関して)放射性物質に起因する直接的な健康被害の例は確認されていないということだ。

 (漫画「美味(おい)しんぼ」で、原発事故による放射性物質と健康被害を関連付けるような描写があったことへの受け止めを問われて)根拠のない風評には国として全力を挙げて対応する必要がある。払拭(ふっしょく)するために正確な情報を分かりやすく提供する。今までの伝え方で良かったのか全省的に検証する」

 言葉の揚げ足を取ると、根拠のない噂を風評という。根拠のある噂を風評とは言わない。「根拠はないのだから、風評を広げる危険性ある描写ということでないのか」と紋切り型ではない発言を行うべきではなかったのか。

 午後は福島市内のサクランボ農家を訪れ、何回目になるのか、収穫したてのサクランボを試食したそうな。

 安倍晋三「風評被害や豪雪で大変だったと思う。本当に努力された」

 「国として全力を挙げて対応」は今に始まったことではないはずだから、なかなか効果を上げていないことになる。だから、試食が恒例行事化し、いつまで経っても風評被害払拭行脚に出かけなければならないことになる。

 このことに本人は気づいているのだろうか。気づいているはずはない。気づいていたなら、以前ブログに取り上げたことだが、4月23日夕、訪日したオバマ大統領を東京銀座高級寿司店「銀座 すきやばし次郎」で行った安倍晋三の非公式夕食会に誘ったとき、寿司のシャリを特別に頼んで福島産米にして貰い、寿司種を福島産魚介類とし、オバマ大統領と共に頬張ることを絶好の風評被害払拭の機会としただろうし、それは日本国内にとどまらずに、世界に向けて発信されたされたはずだが、そんな発想はさらさらなかった。

 安倍晋三が福島の風評被害を心底心配していたなら、被害払拭に利用できる機会を常に心がけていただろうから、役者も揃う「銀座 すきやばし次郎」での会食を絶好のチャンスとしたはずだが、そのチャンスをみすみす逃してしまった。

 逃したことすら気づいていない。逆に風評被害払拭の試食は福島へ出かけてするものだと思っている節さえある。

 その程度の心配ということなのだろう。

 そして今頃になって、「今までの伝え方で良かったのか全省的に検証する」などと言っている。

 勿論、「銀座 すきやばし次郎」の寿司米を福島産米とし、寿司種を福島産魚介類としたとしても風評被害を完全には払拭できないかもしれないが、オバマが福島産の魚介類を乗せた福島の米で握った寿司を食べたということなら、安倍晋三が福島を訪れてイカだ、タコだ、カキ汁だ、シラスだ、サクランボだと試食するよりも大きな話題となり、話題の大きさに応じた発信力を持った風評被害払拭の情報になり得ていたはずだ。

 民主党政権時代の菅無能が福島を訪れて試食し、次の首相の野田佳彦が福島に行っては試食し、そして安倍晋三が2012年12月26日就任から1年4ヶ月半、東日本大震災発災2011年3月11日から計算して3年3ヶ月にもなるのに今以て風評被害払拭行脚を続け、試食を恒例行事としている。

 つまり同じことの繰返しをしている。

 安全が事実であることを示すためにも、そろそろ試食を卒業した方がいいのではないのか。安全であるにも関わらず大丈夫だということを示すために試食を続けるから、わざわざ大丈夫だということを示さなければならないのではないのかと逆に疑われることになっているのではないのだろうか。

 「試食は卒業です」と試食不必要安全宣言をする。「何月何日 試食卒業記念日」と書いた垂れ幕や看板を福島県庁や各市町村庁舎に垂らしたり、要所要所に建てる。看板や垂れ幕の顔に安倍晋三ではなく、人気のあるお笑いタレントや壇蜜を用いる。壇蜜の場合は、勿論ギリギリの下着姿で。

 福島産米のお握りを挟んで股の間を隠したら、ちょっと卑猥かな?

 尤もらしい試食を続けるよりも、もうとっくに試食を卒業すべきだったはずだ。試食を卒業したあと、オバマに福島産米・福島産魚介類の寿司を食べさせたなら、卒業の確認となって、また別の意味を持ったはずだ。安全宣言の上に安全宣言となっただろう。

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安倍晋三・下村博文の「私の道徳」は相対的思考能力を阻害し、独善性を育むには役立つ

2014-05-17 11:33:01 | Weblog

  


      生活の党PR

       《5月18日(日) 鈴木克昌代表代行・幹事長『日曜討論』出演 》
   
      番組名:NHK『日曜討論』 ・日 時:平成26年5月18日(日)9:00~10:20(生放送)

 2013年5月5日当ブロブ記事―― 《安倍晋三、 下村博文が意図している道徳教育はクソの役にも立たない-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に 以下のコメントを頂いた。

 

 コメント

道徳教育が考える力を失わせることにはなり得ません。強引過ぎます。そもそも社会的な観点に基づいた教育が学校教育の前提としてあるわけですから、画一的にならざるを得ない点というのは考える力を失わせることではなく、むしろ社会的な意識を考えることになります。

また道徳教育において思考の強制はありません。一つの事柄に対して善し悪しの判断は生徒に委ねられています。それでも道徳教育によって伝える社会の基準はあります。しかしこれをいけないというのであれば殺人やあらゆる犯罪、マナー違反、モラル違反を善しとすることになりますが、それも考える力なのでしょうか?

教育の場においてそれらを見過ごすことが社会的に許されるはずはありません。放っておけば自然に道徳教育が成されるというのであれば、他国のマナーをご覧ください。あなたの批判には学校教育に関する知識や経験がなく、且つ代案の責任も果たしていません。批判事態は理論だててはいますが内容が主観に頼り過ぎており論拠に乏しく、強引になっています。

  〈社会的な観点に基づいた教育が学校教育の前提としてある〉と書いているが、果たして実現できているのだろうか。実効性を持たせることができていなければ、単なるタテマエで終わる。

 〈画一的にならざるを得ない点というのは考える力を失わせることではなく、むしろ社会的な意識を考えることになります。〉と言っていることが私の悪い頭ではどうも理解できない。画一的思考とは他の考えに従うことによって成り立つ思考性のことを言うのだから、そもそもからして考える力を持ち合わせていないことによって可能となる画一化であるはずだが、そのような画一的思考が、〈むしろ社会的な意識を考えることになります。〉 ということに なるらしい。

 要するに戦前のように全体行動を取れば、社会的意識に適うということなのだろうか。しかし戦前、全体行動を取っているようで、裏では政治家も官僚・役人も企業も校長・教師も様々な収賄・贈賄の汚職やらを働いていた。

 〈道徳教育において思考の強制はありません。〉以下は後回しにして取り上げることにする。 

 〈あなたの批判には学校教育に関する知識や経験がなく、且つ代案の責任も果たしていません。〉 云々。

 確かに仰るとおり、教師とい う立場に立った、学校社会に於ける中からの学校教育に関する知識や経験がない。だが、かつて、かなり昔のことになるが、生徒という立場に立った、学校社会に於ける中からの学校教育に関する知識や経験をそれなりに持ち、以後社会人という立場から外から学校教育に関する知識や間接的経験をプラスアルファーしている。

 もし私が書いている教育論らしきものが学校教育の実態を全然反映していないということなら、私自身の洞察する力が貧弱そのものということになって、相手にする価値がないことになる。

 だとしても、それなりの読者を継続させているから、違う見方の読者も存在することになる。まあ、精神衛生上も書きたい欲求は抑えることができないから、批判を受けながら書き続けるしないことはお断りしなければならない。

〈代案の責任も果たしていません。〉 と仰っているが、記事の最初 に、―― 人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――と書き入れている。

 このブログ記事では具体的には「人間という存在を考えさせる教育」について触れていないが、2012年12月19日等ブログ記事 ――《いじめ防止 対策プログラ ム - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に、「自己実現を問う教育」と題して、「自己実現」、「自己活躍」、「自己存在証明」の何たるかを教える教育の必要性を提案している。
 
 具体的には、〈いじめはいじめを通して自己を優越的な上の地位に置く一種の自己実現だと書いた。 そのような自己実現を望ましい自己の在り様としたのである。

 自己の在り様として望ましくないと自覚していたなら、いじめは起きな い。

 当然、い じめは自己可能性の追求であり、成功した可能性の実 現は自己活躍の証明と なり、その証明は自己存在証明そのものとすることになる。

 いじめが自己活躍の主たる手段となり、いじめによって自己存在の証明とし、そこに自己実現を置いているということである。〉――

 勿論、学校社会の集団を構成している生徒それぞれがそれぞれに「自己活躍の手段」 があり、それを以て「自己実現」を日々図ろうと努め、実現した自己を以って自己存在証明とする具体化への欲求を持っている。

 いわば逆に「自己実現」とは何か、「自己存在証明」とは何かを教えることによって、生徒それぞれに自身が何を「自己活躍の手段」としていて、どのような「自己実現」を図ろうとし、実現させた自己によってどのような「自己存在証明」としようとしているのかを自覚させることによって、自身の在り様を客観視させ、その在り様の善悪を判断させることができるのではないかとした。

 例えばイジメを働いていた児 童・生徒がいたら、「君はイジメを自己活躍の手段とし、イジメによって自己という人間を実現させているんだ。イジメを自己存在の証明としている」と諭したなら、「イジメは悪いことだ。イジメられた子がどれ程 悲しむか理解しなければならない」といった紋切り型の注意よりも効果があると私は確信している。

 例え年少の児童であってたとしも、人間の誰しもが持っている「自己実現」欲求を、それがどような意味なのか噛んで含めるように教えていったなら、誰もがというわけにはいかないし、程度の差もあるだろうが、自己を客観視する自覚性の植付けが期待できることになる。

 2010年8月9日等ブログ 記事 ――《考える教育はノートを取らない教育から - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》では、小学校の間はノートを取らせない教育を授業に取り入れることを提案した。 

 こ の記事を書く1カ月程前に教 師実体験のある乙武洋匡がテレビで、「小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというの は教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で 普段の学習の中でなかなか行われていない」と発言していたことを裏打ちとして、私自身がテレビや新聞記事、その他から学んだことだが、現在もなお日本の教育は暗記教育を伝統とし、文化としているとする認識に立ち、ゴミ焼却場に見学に行った小学生児童が工場側の人間の説明を一生懸命ノートに書いているのをテレビで見て、単に説明していることをなぞってノートに書き、教室に戻ったなら、ノートに書いたことをなぞって教師の問に答える、同じ暗記式の知識の授受しか行われていないだろうと判断して、ノートを取らせない授業のメリットを書いた。

 要するにノートを取ることができなければ、与えられる知識・情報の一字一句を記憶することは不可能だから、目の記憶と耳の記憶を頼ることになって、ノートに取らな かった知識・情報の何たるかを教師に尋ねられたとしても、自身で作文に書くにしても、そこに知識・情報の再構築を行わなければならない。 知識・情報の再構築には思考のプロセスを踏む作業が必要となって、思考能力が育つことになる。

 この記事には書かなかったが、社会見学してノートを取らずに目の記憶と耳の記憶に取り入れた知識・情報がどのような内容だったのか、何が役に立ったか、どのように解釈したのか、教室に戻ってクラス全員で意見を交わしながら再構築の思考作業を行ったなら、思考能力だけではなく、議論する力もついてくる。

 英語の授業の教科化の際だと思ったが、幼稚園・保育園の頃から小学校と日本語ドラマの朗読劇に簡単な内容からより複雑な内容へと馴染ませていき、そこから入って、朗読劇の力をつけて、小学校5・6年生の英語教科化の際には日本語の朗読劇を英訳した朗読劇を、既に意味内容は日本語で理解しているから、英語の話し方を練習するだけで英会話が上達するのではないかと、2010年9月21日の当ブロ ググ記事 ―― 《考える教育は朗読劇から - 『ニッポン情報解読』by手代 木恕 之》に書き入れ、朗読劇から普通の演劇に発展させることも、表現力を養うことや人間の姿を学ぶ機会となるのではないかと提案した。

 役に立つ提案かどうかは分からないが、決して代案の責任も果たしていないというわけではない。

 後回しにした〈道徳教育において思考の強制はありません。〉と言っていることいついて。

 安倍晋三の2014 年26年3月20日国会答弁。

 安 倍晋三「教育においては第一義的に家族が責任を持っていくということも書いたわけでありますし、教育の目的の中に日本の文化と伝統を尊重し、それらを育んできた郷土を愛する心やそして愛国心、さらには、他国を敬い、そして国 際協調の中においてしっかりと平和に貢献をするという態度等について教えていくということを、これらを、旧教育基本法にはなかったことを書き込んだわけでございます。言わば、日本人としてあるべき姿をしっかりと教えていくということになった」――

  そして第1次安倍内閣で2006年12月に成立させた『改正教育基本法』

 第一章教育の目的及び理念

(教育の目標)

五伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 安倍晋三の教育論が表れた『改正教育基本法』に於ける「教育の目標」の「五」と言うことができる。

 要するに『改正教育基本法』で様々に規定した中で優先的に「日本の文化と伝統を尊重し、それらを育んできた郷土を愛する心やそして愛国心」を身につけることが「日本人としてあるべき姿」 だとしていて、そのことを学校教育に求めていることになる。

 ここに暗黙の強制がないだろうか。暗黙の強制ばかりか、日本の伝統や郷土や国家を画一的に善と把えて、日本人が愛する理想の対象だとしているこの思考構造には、伝統や文化、国家、郷土が常に正しい姿を取るわけではなく、光と影を交錯させているのだから、そのような相対的な姿を隠すことによって、日本の伝統や文化、国家や郷土を絶対化する独善的な力が働くことになる。

 当然、教育の現場に於いて誇ることができる優れた伝統と文化のみを取り上げて、教える絶対化へと進む。誇ることのできる優れた国の姿や郷土の在り様のみを取り上げて、教える絶対化を植え付けることになる。

 2006年6月 16日のNHKの夜9時台のニュースの「どう教える愛国心」のコーナーを基に2006年6月22日に、《愚かしいばかりの“愛国心”教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を書いた。

 詳しいことはアクセスして貰うこととして、愛国心教育に熱心だという、国の研究指定校となっている西東京市の向台小学校6年生の教室での愛国心授業風景を取り上げていた。

 愛国心をテーマとする授業は初めてという男性教師に校長が付き添って授業を行うことになえい、校長が自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけた。

 女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」

 男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」

 女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」――

 この教育形式には安倍晋三の教育論にある日本の伝統や郷土や国家を画一的に善と把えた絶対化の見事な反映を見ることができる。善と把えて絶対化することによって、愛国心教育が日本の伝統や郷土や国家の“日本のよさ”の発見へと公式化の 一歩を踏み出していることを物語ることとなっている。

 ここに児童それぞれの思考性を見ることができるだろうか。みな、誰もが言っている手垢のついた言葉をなぞっただけとなっている。これが国の研究指定校の授業風景である。

 2006年から8年近くも経過して、現在の道徳教育は以前とは違うと言うかもしれないが、安倍晋三が現在も言っていることは相対化を欠いた日本の伝統と文化、国や郷土の絶対化のみである。

 物事が常に一つの価値で成り立つわけではないにも関わらず、一つの価値で成り立たせて絶対としたとき、他の価値を排除することになるばかりか、柔軟であるべき思考を一つの価値に膠着させることになる。相対化なくして認識の世界を広げることはできない。

 相対化意識の育み、世界の中の日本、あるいは世界あっての日本という 相互性に関わる相対的な視点・認識の育みこそが幅広い柔軟な思考能力を育てるはずだ。

 8年近く経過してもほぼ変わらないことを証明してみる。

 下村博文は3月3日(2014 年)の参院予算委員会で道徳教育について答弁している。

 下村博文「かつての道徳と違うのは、今回は、例えば教員の指導書でも、これはこう教え るべきだという一方的な価値観を入れない、子供たちが議論によってあるべき道徳は何なのかということを考えさせるという教材です」――

 新しい道徳教育は子どもたちに考えさせる教育だと言っている。

 では、中学校用(2)の『私達の道徳』から、思考能力を試す個所を幾つか抜粋してみる。 

 ◇「挨拶は自分が行うだけではなく、相手から受けることがある。
 
 そのとき、どんな思いを伝えようとしているのだろうか。

 🔴挨拶や丁寧な言葉遣い、態度を受けて、気持ちが良いと思ったり、うれしいと思ったりしたことを思い出してみよう。

 「礼儀へのためらい」

 挨拶するのも、応えるのも面倒。
 敬語を使うことが恥ずかしい。
 形だけのお辞儀をしてしまう。
 ・・・・・そんなことはないだろうか。

 🔴礼儀の大切さがわかっていても、実際に振る舞えなかったのはなぜだろう。
  振り返ってみよう、考えてみよう。

◇あなたにとって友達とは?

 楽しいばかりではく、周りのことを考えられる人(中3・男子)
 
 お互いに思いやっていける人(中2・女子)

 良きライバルでもあり、相談相手でもあり、信頼できる人(中3・女子)

 けんかもするけれども、何でも話せる人(中1・男子)

 宝物。友だちがいなかったら、すごく寂しい(中1・女子)

 質問

 「あなたにとって友達とはどんな存在か、考えてみよう」

 「友達のために何ができるか、考えてみよう」

◇社会は男女互いの力で成り立っている。

 我が国は男女共同参画社会の実現を目指している。

 男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、ともに責任を担うべき社会」(男女共同参画社会基本法第2条)のことである。

 質問

 なぜ男女共同参画社会の実現が必要なのか。その実現に向けてどのような課題があるのか、考えてみよう。友達とも話し合ってみよう。

 確かに考えさせる設問を設けている。

 だが、ここに描かれている道徳教育はかくあるべきだとする善なる人間を育てることのみを目指す、ある種の強制が存在している。

 この強制によって人間はときにはウソをつくし、ときには横着な気持にもなり、意地悪な人間にもなる、 弱い相手に威圧的にもなる、強い存在に対してときには卑屈にもなる、普段の自分を失って付和雷同することもある弱い生きものだという相対化による自覚を失わせる力として働いたとき、その思考性は偏った狭いものとなる。

 人間は善として存在するばかりではない。弱い部分を学ばせ、自覚させることによって、そのような人間にならないよう努めさせる道徳教育となる。

 だから、コメントを頂いた記事の冒頭に、――人間という存在を考えさせる教育こそが道徳教育に優る――と書いあるのはこのためである。

 また、考えるという思考作用は暗記教育によって獲得し得る能力ではなく、価値観の相対化や異なる意見を交わすことによって相対化を促すことになる議論によって育まれる。

 だが、先に上げた国の研究指定校の授業では校長も担任も児童の発言を受け止めるだけで、生徒同士で意見を交わさせることもなく、自身の意見を言って、児童の考えを広げることもしなかった。世界へどこか行けば、宏大な土地を覆う宏大な夜空に眩しいばかりに輝く満点の星を眺める場所がありながらである。

 さらに思考作用は短時間で獲得できるわけではない。長い伝統を必要とする。にも関わらず、日本の教育は暗記教育を長い伝統とし、現在も抜け出ることができないでいる。結局、新しい道徳教育にしても、与えたテーマに添った範囲内の「考えてみよう」、「友達とも話し合ってみよう」をなぞった思考と話し合いになりかねない。

 「あなたにとって友達とは?」の問に答えている中学生男女の発言は、全てどこかで聞いた言葉ばかりである。理想像に過ぎて、人間の現実の姿から程遠く、人間味を感じることができない。

 人間は自身の厭な部分、弱い部分を自覚してこそ、せめて社会的に間違うことのない人間存在であろうと努めることになる。

 当然、人間の厭な部分、弱い部分を教えない道徳教育は相対的思考能力を阻害して道徳教育足り得ないことになる。

 逆に日本人は優秀だとする絶対化意識のもと、人間の善なる部分のみを教え、そのような人間像を求めた場合、独善性のみを育むことになり、却って危険となる。

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安倍晋三の4月15日記者会見は集団的自衛権憲法解釈行使容認を求める余り数々の情報操作・ウソがある

2014-05-16 09:20:30 | 政治




      生活の党PR

       《2014年5月15日総合政策会議 安保法制懇報告書提出を受けて、鈴木代表代行・幹事挨拶要旨》
   

 昨日4月15日夕方6時から、安倍晋三は自身の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇) から政府の憲法解釈では禁じてきた集団的自衛権の行使を容認するよう要請した報告書を受理、記者会見を総理官邸で開いた。

 何度でもブログに書いてきたが、私自身は集団的自衛権行使容認に反対ではない。但し憲法が国家の恣意的権力行使を制約する立憲主義を原理としている以上、憲法は国民のためのものであって、その如何なる規定を変えるのも、国民の手を経なければならないはずだから、一内閣が憲法解釈で変える権利はないはずである。

 いわば一内閣の責任に於いて憲法解釈で変えるのではなく、国民の責任に於いて憲法を変えるか変えないかを通して認める認めないかを決めるべき問題だと考えている。

 だとしても、安倍晋三のこの記者会見には憲法解釈で認めることを国民に納得させようとする余り、数々の巧妙な情報操作――ウソを紛れ込ませている。

 発言は首相官邸HPに拠った。

 安倍晋三は集団的自衛権の憲法解釈行使容認は「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため」だと言っている。いわば日本の平和と国民の生命・財産を守るためだと。

 安倍晋三「今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です」――

 安倍晋三「(海外で平和活動やPKO活動する日本人が)突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。

 皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。

 こうした事態は机上の空論ではありません」――

 海外在住の日本人が突然紛争に巻き込まれること、そのような日本人を救助・輸送している米軍に対する攻撃や攻撃を受けた他国部隊からの自衛隊に対する救援要請等々の「事態は机上の空論ではありません」と、起こらない保証はないという文脈で言っている。
 
 確かに安倍晋三が言うように起こらない保証はない。

 安倍晋三は同じ文脈の発言を後の方で繰返している。

 安倍晋三「日本は戦後70年近く、一貫して平和国家としての道を歩んできました。これからもこの歩みが変わることはありません。しかし、平和国家であると口で唱えるだけで私たちの平和な暮らしを守ることはできません。私たちの平和な暮らしも突然の危機に直面するかもしれない。そんなことはないと誰が言い切れるでしょうか。テロリストが潜む世界の現状に目を向けたとき、そんな保障はどこにもありません。政府は、私たちは、この現実に真正面から向き合うべきだと私は考えます」――

 その通り、何も起こらないと「誰が言い切れる」のか。何の保証もない。

 但し、ここには言わないウソが存在している。言わないことによる情報操作を窺うことができる。

 安倍晋三の発言は突然紛争に巻き込まれた海外在住の日本人を救助・輸送している米軍がテロ集団や米国を敵とする非民主国家の軍部隊に襲われた場合、日本の自衛隊が集団的自衛権行使に基づいて襲撃側に対して攻撃を仕掛け、米軍を救助・援護する事態を想定したものである。

 さらには海外で平和活動やPKO活動する日本人が突然武装集団に襲われた場合、その地域や国で活動していた自衛隊が集団的自衛権行使に基づいて救助に向かい、武装集団に攻撃を仕掛けて救助するという役目を想定した発言でもある。あくまでも国民の生命・財産を守るために。

 いわば自衛隊はテロ集団や敵国部隊と交戦する機会が増える。だが、安倍晋三が言っているように平和な暮らしが突然の危機に直面しない保証がないと同様に、邦人救助や同盟国軍部隊援護を目的としていたとしても、簡単に目的を果たし、全てが成功するという保証もない。交戦する機会の増加に応じて逆に撃退され、退却を余儀なくされるケースが生じない保証もないし、一進一退の膠着状態に陥らない保証もない。

 当然、自衛隊員すべてが無傷(ムキズ)というわけにはいかなくなる。一進一退の膠着状態が単なる交戦から、安倍晋三が掲げている積極的平和主義に反して戦争状態に進まない保証もない。例えば中東やアフリカでテロ集団によって邦人が拉致・誘拐されて人質となった場合、その国が許可するという条件付きだが、移動しながら敵攻撃から身を守る作戦を常套手段としている武装集団を自衛隊はどこまでも追跡して邦人の救助を果たさなければならなくなる。なかなか目的を果たせないからと言って、ここでヤーメたというわけにはいかないだろう。

 それが何カ月もかかる場合、その間に自衛隊の増派という事態も起こり得るし、自衛隊員を交代させながら、戦闘に当たるという事態も生じる。少なくとも生じないという保証はない。

 例えそれが外国の地での戦闘であったとしても、長引く状況に陥った場合、自衛隊員にしても日本国民である以上、日本は戦争状態に入ったことになる。自衛隊員以外の国民は俺達に関係ないこととすることはできない。

 もし戦争状態ではないとするなら、日本が戦前、外国の地である中国国土で日中戦争を仕出かしていたとき、日本は戦争状態にはなかったことになる。

 だが、安倍晋三は集団的自衛権行使によって自衛隊員すべてが無傷というわけにはいかなくなる危険性には触れずに集団的自衛権の憲法解釈行使容認を国民に納得させようとする情報操作・ウソを用いているばかりか、次のような情報操作・ウソを駆使している。

 安倍晋三「(集団的自衛権行使によって)日本が再び戦争をする国になるといった誤解があります。しかし、そんなことは断じてあり得ない。日本国憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます。このことは明確に申し上げておきたいと思います。むしろ、あらゆる事態に対処できるからこそ、そして、対処できる法整備によってこそ抑止力が高まり、紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます」

 安倍晋三「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る、そのためにはいかなる事態にも対応できるよう、常日頃から隙のない備えをするとともに、各国と協力を深めていかなければなりません。それによって抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれることがなくなると考えます」――

 平和主義の反対語は戦争主義である。民主国家の指導者の誰が戦争主義を掲げるだろうか。誰もが平和主義を掲げながら、時として戦争に巻き込まれる。日本も集団的自衛権を行使するようになれば、同じ状況に立たされることを覚悟しなければならないはずだが、日本は戦争に巻き込まれないと情報操作・ウソを平気で口にしている。

 邦人救助・輸送の米軍部隊がテロ集団や米国を敵とする非民主国家の軍部隊に襲われない保証はないと同様に、あるいは海外で平和活動やPKO活動する日本人が突然武装集団に襲われない保証はないと同様に、米軍のイラク戦争やアフガン戦争が証明しているようにいくら抑止力を高めたとしても、それが部分的衝突や短期間の戦闘で終わる保証とはならないことから考えてみても、日本が戦争に巻き込まれないとは断言できないはずだが、その逆を断言する情報操作・ウソを展開している。

 更に次のような情報操作・ウソを用いている。

 安倍晋三「一つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動の全てを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」――

 武力行使を初期的な目的として「湾岸戦争やイラク戦争での戦闘参加」のような類似的なことはないと断言できても、「一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受け」て集団的自衛権行使に基づいて救助に向かった場合、当然、救援要請の他国部隊と襲撃側部隊との戦闘に巻き込まれていくのだから(大相撲のように行事が力士の勝負がつくまでハッケヨイ残った、ハッケヨイ残ったと軍配を振っていれば済むというわけではないのだから)、救援を目的に武力行使することになって、「湾岸戦争やイラク戦争での戦闘参加」との類似行為を結果としないと断言できないはずだが、にも関わらず、「これからも決してありません」と断言する情報操作・ウソである。

 石破茂自民党幹事長は4月5日(2014年)、テレビ東京の番組で集団的自衛権の行使によって自衛隊員が死傷する可能性について問われて次のように発言している。

 石破茂「政治家が覚悟しなきゃいけない。内閣が吹っ飛ぶからやめとこうというのは政治が取るべき態度ではない。自衛官は危険を顧みないとの誓いをしている。危険だからやめようということがあってはならない。そうならないよう(政治の側は)ベストを尽くす」(asahi.com)――

 石破茂が言っていることを安倍晋三も言わなければならなかったはずだが、このような事態が起こり得る危険性を隠す情報操作・ウソを巧妙・狡猾にも駆使している。

 かつてイラクで日本の自衛隊がPKO活動していた当時、もし集団的自衛権行使が認められていたとしたら、米軍部隊が武装集団に襲われて窮地に陥った場合、救援部隊として最も近い距離に自衛隊が位置していたなら、自衛隊に救援要請を出すだろう。わざわざ自衛隊よりも遠い距離に所在している他の米軍部隊に救援要請を出すことはあるまい。

 集団的自衛権行使が容認されたなら、今後こういったことを想定しなければならない。

 最も大きな情報操作・ウソは集団的自衛権憲法解釈行使容認を求めるために「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため」に必要だと言っている、あるいは「命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいの」かと言っている、その言葉そのものである。

 いわば集団的自衛権行使容認によって国民の生命・財産を守ることができると保障している。

 では、集団的自衛権行使が容認されていたなら、2013年1月16日発生のアルジェリア邦人人質事件でテロ集団に殺害された邦人10人の生命を救うことができただろうか。ノーである。

 世界一の軍事力を持ち、世界の警察を任じるアメリカ政府にしても救うことはできなかった。手出しすることすらできなかった。アルジェリア政府がテロとは交渉せずの姿勢に立ち、他国政府の支援を断って、軍事優先の解決策に出たからなのは誰もが承知している。

 アルジェリア邦人人質事件と類似のテロ事件が起きない保証はない。既に起きているし、これからも起きるだろう。

 既に起きている最近の事件として、4月14日に武装集団に276人の女子生徒が学生寮から拉致された事件を誰もが挙げるはずだ。旧宗主国のイギリスやアメリカ、フランス、中国の救出チームが現地に既に到着していて、捜索を開始しているということだが、武装集団側が女子生徒解放の条件に拘束中の仲間の釈放を求めているのに対してジョナサン大統領はかつてのアルジェリア政府と同様に武装勢力と交換交渉はしないという姿勢を取っているという。女子生徒たちは政府が交渉に応じる場合と違って、非常に危険な状況に曝されていることになる。もし武装勢力と救出チームが銃撃戦となった場合、さらに危険な状況に見舞われることになる。

 結末はどのように展開するか分からないが、安倍晋三は海外にいる日本人が可能性として否定できない武装集団に襲われるケースを言い、国民の「命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか」という表現で集団的自衛権行使容認を求めると同時に反意的に容認された場合、すべてがさも救出可能だとするような幻想を与える、さながら“集団的自衛権安全神話”と言うべき雰囲気を振り撒いているが、例え集団的自衛権行使が容認されたとしても、アルジェリア邦人人質事件と同様に救出不可能の場合もあることを国民に伝えずに可能とする最大の情報操作・ウソをついている。

 これらの情報操作・ウソに騙されてはいけない。

 日本国民は安倍晋三が記者会見で言っていることとは正反対に集団的自衛権行使容認によって自衛隊のテロ集団や敵国部隊との交戦機会・戦闘機会が増えて、自衛隊員の命にしても、海外在住の邦人の生命にしても、決して無傷で済ますことができる保証はないことを覚悟しなければならない。

 また、自衛隊の交戦・戦闘の状況に応じて、それが遠い海外での出来事であったとしても、長引いた場合はそれなりの国力や自衛隊員の注入を要求されることになって、戦争に巻き込まれる状況に進むケースも有り得ることを覚悟しなければならない。

 あるいは自衛隊の海外の武装集団との交戦・戦闘の機会が増えることによって現地国のテロ集団が、あるいは同盟関係にある別の国のテロ集団が報復として日本にテロ要員を送り込み、日本国内でテロ行為を起す危険性を増す事態も覚悟しなければならないし、北朝鮮のような独裁国家が自衛隊との不測の突発的衝突によって過剰反応し、あるいは報復意志を誘発されて計画的に日本に向けてミサイルを発射する可能性も覚悟しなければならない。

 であるなら、なおさらのこと、集団的自衛権の行使容認は憲法解釈ではなく、国民投票による憲法改正の手続きを経て、国民が責任を持つ形の決定事項としなければならないはずだ。

 そうでなければ、国民の生命・財産=国民の生き死にを一内閣の憲法解釈による集団的自衛権行使に任せることになる。

 もし一内閣の憲法解釈による集団的自衛権行使によって多くの国民の生命・財産が失われた場合、戦前の日本国家の戦争遂行に一億総動員で協力していながら、戦争に負けたあと、多くの国民が「国に騙された」と国にのみ責任を転嫁したように、同じく安倍内閣に責任を押し付けることになるだろう。

 もし集団的自衛権行使をどうするかを国民自身の決定による国民自身の責任とする自律性(自立性)を自らに担うとするなら、憲法改正の手続きを採るべきだろう。

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安倍晋三のウクライナ領土の一部を盗み取った泥棒の一人を民間文化交流だからと迎える入れる国際法上の感覚

2014-05-15 08:44:02 | 政治

 
 
 アメリカ、EUが、ロシアがウクライナ領土の一部クリミアを盗み取った国際法違反に制裁を追加していく形でロ ア政府やロシア政府高官 ロシア企業、あるいはクリミア企業に対してビザ発給停止や貿易停止、資産凍結、投資停止等を科しているのに対して日本は口では、「ロシアがクリミア自治共和国の独立を承認したことはウクライナの統一性、主権及び領土の一体性を侵害するものだ」、「力を背景とした現状変更の試みを決して看過でない」などと厳格なことを言いながら、3月17日、日ロ間の渡航者のビザ発給手続き簡略化のための協議停止、新投資協定や宇宙協定、危険な軍事活動防止に関する協定などの日ロ間の新たな交渉開始を見合わせる対ロ制裁を科し、追加制裁として4月29日、 ロシア政府関係者ら23人へのビザ発給当面停止という、アメリカ、EUに比べて実害と言う程の実害を与えない、当り障りのない格落ちの制裁でお茶を濁した。

 お茶を濁すなら、「ロシアがクリミア自治共和国の独立を承認したことはウクライナの統一性、主権及び領土の一体性を侵害するものだ」とか、「力を背景とした現状変更の試みを決して看過でない」などと言わない方がいい。言っていることが国際法違反に対する非難であるにも関わらず、違反を阻止する強い意志を伴わせた制裁となっていないからだ。

 昨日のマスコミがロシアのナルイシキン下院議長の 6月訪日予定を伝えていた。目的は東京で 開催のロシア文化フェスティバ ルの式典出席ため。但しナルイシキンはプーチン大統領の側近で、ウクライナ問題に絡んで米国や欧州連合(EU)から渡航禁止の制裁を受けている、 言ってみればお尋ね者の身である。Wanted!――!

 菅官房長官は5月14日の記者会見で、ナルイシキンの 訪日は問題ないと発言している。《ロシア下院議長の訪日は問題なし》NHK NEWS WEB/2014年5月14日 13時05分)

 菅官房長官 「ロシアのナルイシキン下院議長が、来月に日本で行われるロシ ア文化フェスティバルという民間主催の文化行事に出席する意向を示したことは承知している。現時点において滞在中の日程はまだ明らかになっていない。

 渡航禁止のリストを示しているが、抵触していないので、そこは問題ないと考えている」――

 政府主催の政治的行事ではなく、民間主催の文化行事だからと、その点に先ず免罪符を置いている。

 そして「渡航禁止のリストを示しているが、抵触していない」 と、ビザ発給当面停止対象の23人のリストには入っていないことを理由に日本への入国は問題ないとしている。

 ここで疑問が一つ湧く。米国やEUがプーチン側近としてビザ発給停止対象者リストに載せていながら、日本の対象者リスト23人の中になぜ入れていないのだろうか。

 アメリカやEUと日本の対ロ制裁の程度の差だとでも言うのだろうか。

 プーチンがクリミアを独立国家として承認する大統領令に署名した3月17日、ナルイシキンはクリミアの編入に関する法律的な手続きについて議会として「迅速に責任を持って対応するつもりだ」と述べたと、「NHK NEWS WEB」 (2014 年3 月18日 4 時38分)記事が伝えている。

 プーチンの側近としてプーチンと共にウクライナ領土の一部略奪を謀議し、成功させた主たる積極的協力者の一人なのである。安倍晋三や菅官房長官や岸田外相が主張していることに反して、「ウクライナの統一性、主権及び領土の一体性を侵害」した、プーチンを主犯としたロシアの無法者たちの中で主犯に近い国際法犯罪者であり、「力を背景とした現状変更の試み」を不法に強行し、国際秩序騒乱に積極的な立場から加担した一人である。

 日本政府の対ロ制裁ビザ発給当面停止の23人の中に入っていないからと言って、しかも民間主催の文化行事だからといって、ナルイシキンの国際法違反に目をつぶることになる入国許可は理解に苦しむだけではなく、安倍晋三や菅、岸田の国際法上の感覚を疑わざるを得ない措置に見える。

 アメリカやEUは制裁を科すと同時に制裁対象の金融機関名や政府高官名、企業名を公表している。だが、日本政府はビザ発給当面停止の対象者すら公表していない。菅官房長官が「渡航禁止のリストを示している」 と言っているから、ロシア政府 には伝えているのだろうが、ロシア政府に伝えて、日本国民に知らせないのは国民に対する説明責任を無視していることになる。

 いわば特定秘密指定にでもしているのか、日本国民に秘密の状態にしている。秘密の状態にしていてもいい正当な理由を説明すべきだろう。

 疑うなら、秘密にしていることによって、対象者を入れ替えることもできる。ナルイシキンを実際には制裁対象者リストに載せていながら、民間行事に出席させる形で訪日させる制裁破りに密かに協力することで、日本の対ロ制裁が有名無実であることを知らしめることができて、結果、ロシアの反発を弱め、歓心を買うことが可能となり、日ロの後々の友好関係に役立てることができる。

 日本の制裁は実際には形ばかりで、大したことはないんですよと。

 もしナルイシキンを最初からリストに載せていなくて、23人をプー チンの側近か ら程遠い有象無象で構成していたとしたら、最初から無害であるとブロックサインを複雑・巧妙にも出した日本政府の形式的な対ロ制裁と言うことになる。形式的な制裁でないことを知らしめるためにも、ウクライナからの領土一部略奪に深く関わっているナルイシキンをリストの最初の方に積極的に載せるべきだが、載せていないとしている。

 ウクライナ領土の一部を盗み 取った泥棒の一人を民間文化交流だからと迎える入れる国際法上の感覚と言い、プーチンと共に側近とし領土略奪に深く関わった>ナルイシキンをビザ発給当面停止23人の対象者リストに載せていなかったことと言い、安倍晋三やそれ以下の対ロ制裁の本気度は限りなく疑わしい。

 「ウクライナの統一性、主権及び領土の一体性を侵害」とか、「力を背景とした現状変更の試み」といった非難は実際はロシア向けではなく、アメリカとEU向けのポーズに見えてくる。

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安倍晋三の自分の都合がいいように美化した日本の歴史観を国民にを押し付けようとしている

2014-05-14 09:32:41 | 政治

 


      生活の党PR

 5月13日『ナイジェリアにおける女子生徒集団連れ去られ事件について』小沢一郎生活の党代表談話発表

 『ナイジェリアにおける女子生徒集団連れ去られ事件について』

 平成26年5月13日
 生活の党代表 小沢一郎

 ナイジェリア連邦共和国北東部で発生したイスラム過激派集団「ボコ・ハラム」によって200名を超える女子生徒が連れ去られた事件に対して強い憤りと抗議を表明する。

 事件の背景として貧困問題や経済格差、宗教間対立が指摘されているが、如何なる理由や目的があろうとも、このようなテロ行為を正当化することはできない。一刻も早い女子生徒の解放を要求する。

 私たちは、ナイジェリア国民及び政府、国際社会と連帯し、本件の解決に向けた取組みを全面的に支持し、支援する。

 安倍晋三が「G1サミット2011」と題した講演で、櫻井よしこなどと発言している。《安倍晋三氏×櫻井よしこ氏 「誇りある日本人として~今、如何に行動して、何を次世代に伝えてゆくか」~G1サミット2011レポート~》GLOBIS.JP/2012年1月23日)   

 「2011レポート 」となっているが、なぜか発信日付は「2012年1月23日」となっている。2011年12月の講演で、文字起こしに年を越したということなのかもしれない。

 この記事の存在は最近知ったのだが、安倍晋三のご都合主義の歴史観が如実に現れていることから、取り上げてみることにした。 

 安倍晋三「グローバル経済のなかで『日本はこれがいいんだ』と思っていても、勝ち残れなければ意味はない。ただ、日本には日本の生き方だって当然ある訳ですから、資本主義経済にしっかり と軸足を置きながら、併せて日本の長い歴史と伝統を大切にしていく。日本人は基本的に畑や田をつくり、皆で水を分け合いながら稲をつくって生きてきた民族ですね。そして1年に1回、天皇陛下を中心として皆で五穀豊穣を祈ってきました。そんな風に水を分け合ってきた民の生き方としての資本主義が当然あるのだろうと思っています。

   ――中略――

 私たちが歩んできた歴史に対して私たち自身が愛おしいという気持ちを持てるかどうかが大切だろうと思います。

   ――中略――

 かくいう私も、よく復古主義的で排他的な人間であるといった雰囲気を、いわゆる政敵の皆さまからレッテル貼りされます(会場笑)。決してそんなことはない訳ですよ。ただいま申しあげましたように、過去や先人に対して愛おしさをたたえた眼差しを持つ必要があるという話です。逆に、常に過去を否定するような人間になると、結局は自分自身が自尊心を持てないという結果に繋がっていくのだろうと私は思っています」――

 そして何人かが発言したあと、安倍晋三が再び登壇して、「歴史というものには光の部分もあれば影の部分もあります」と触れた後、次のように発言している。

 安倍晋三「国と国との歴史においては、一瞬だけを取り出して現代のスタンダードから裁くという考え方はやはり間違っているのだろうと私は思っております」――

 要するに安倍晋三が言わんとしていることは、戦前の一時期の日本の歴史を「一瞬だけを取り出して現代のスタンダードから裁くという考え方は間違っている」。日本人としての自尊心を持つためにも過去を肯定して、日本の全歴史を通して「愛おしいという気持」を持って眺め、受入れなければならないと主張している。

 そして日本のその歴史を「基本的に畑や田をつくり、皆で水を分け合いながら稲をつくって生きてきた」麗しい共助の精神で象徴させている。

 このような共助の精神で象徴させた歴史観は、既にご存知のように機会あるごとに発言している。

 2013年3月15日のTPP交渉参加決定安倍晋三記者会見。

 安倍晋三「最も大切な国益とは何か。日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化。その中から生まれた世界に誇る国民皆保険制度を基礎とした社会保障制度。これらの国柄を私は断固として守ります」――

 2013年5月17日、安倍晋三「成長戦略第2弾スピーチ」

 安倍晋三「息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統があります。

 農業を中心とした、こうした日本の『国柄』は、世界に誇るべきものであり、断固として守っていくべきものです」――

 他の機会にも同じようなことを言っている。

 安倍晋三が言っている「国柄」とは、日本古来からの伝統・文化が歴史を貫いて今に続いて発展の礎となっている国の形を指しているはずだ。いわば「息を飲むほど美しい田園風景」、「朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」に過去から現在に続く日本の国柄を象徴させている。

 ということは、日本の歴史をも象徴させている、日本人の生活の営み・風景ということにもなる。

 そして今回の講演では言及していないが、自著『美しい国へ』やテレビに出演して発言している、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」だとか、「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大なつづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」と言っている天皇家を日本の歴史の中心に置く、「太陽中心説」ならぬ天皇中心説。

 以上が安倍晋三という政治家の日本の歴史観である。天皇を中心に置いて共助の精神で支えてきた農村・農民文化とその伝統を、少なくとも日本の歴史の表紙としている。

 だからこそ、「私たちが歩んできた歴史に対して私たち自身が愛おしいという気持ちを持てるかどうかが大切だろうと思います」と言うことができる。

 だからこそ、「国と国との歴史においては、一瞬だけを取り出して現代のスタンダードから裁くという考え方はやはり間違っているのだろうと私は思っております」と戦前日本と戦前日本の戦争をその侵略性を剥いで肯定することができる。

 これを日本の歴史の美化だと言わずに、何と表現したらいいのだろうか。

 大体からして「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのもの」だと規定し、タペストリーの真ん中の糸に譬えて天皇中心説の歴史論を打ち立てていること自体が歴史の美化に当たる。

 現皇室は第26代の継体天皇(450年?~531年?)を初代として樹立されたとする新王朝論が存在し、実在が確実な最初の天皇であると、「Wikipedia」が記述しているが、継体天皇の時代に軍事を担った豪族の物部一族が天皇の権力を凌ぐ世俗権力をどれ程に握っていたか理解していないが、同じく「Wikipedia」を参考にすると、物部氏は同じ豪族の蘇我氏と対立、用明天皇崩御後、物部氏が推す穴穂部皇子と蘇我氏ば推す泊瀬部皇子(はつせべのみこ)との間に皇位継承争いが起き、蘇我氏は敏達天皇の后(後の推古天皇)の詔を得て穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺し、最終的に蘇我氏は物部氏を攻めて、戦死させている。

 そして蘇我氏が推薦した泊瀬部皇子が皇位に就き、崇峻天皇を名乗っている。

 この経緯を見ただけでも、豪族が如何に天皇の地位・命運を操っていたかが理解できる。例え豪族が皇族の詔や命を受けて動いていたとしても、それらは豪族が行動を起こすために皇族の許可を得たとする大義名分のお札に過ぎないことは親子である蘇我蝦夷と蘇我入鹿が甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称して、皇居と天皇の意味を持たせていたことが証明する。

 皇族の詔や命が詔として、あるいは命としてその権威が常に機能していたなら、豪族が天皇以上の権勢を誇るということはあり得ない。

 当然、豪族が必要としたとき、自身の方から求めて皇族に詔や命を出させたということもあるはずである。

 いずれにしても蘇我氏は自らを天皇に擬す程に権勢を誇った。その権勢が天皇以上であったからこそできた宮門といった自己顕示であったはずだ。

 このような権勢を誇った蘇我蝦夷・入鹿父子を暗殺して滅ぼすことになった645年の乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)とその後の大化の改新は中大兄皇子(後の天智天皇)が皇族として主導権を握った行動とされているが、新興勢力の中臣鎌足(後の藤原鎌足)と二役で成し遂げた出来事であって、藤原氏全盛期の藤原道長が、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠って、天皇の世ではなく、「わが世」とした権勢の誇りから見ると、新興豪族の中臣鎌足が既成豪族の蘇我氏に取って代わろうとして中大兄皇子を動かした疑いは拭うことはできない。

 もう一つの証拠として、豪族が自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は、豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段となっていたことを挙げることができる。

 蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのお)を生ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍が皇位継承争いから斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる例は、外祖父して権力を掌握する失敗した例であろう。

 成功した一例として、蘇我稲目が2人の娘を欽明天皇の后とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生んでいる例を挙げることができる。

 藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。

 「Wikipedia」を参考にすると、藤原道長は、〈一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(いっかりつさんこう)=一家三后)と驚嘆された。〉――

 この一文を読んだだけで、豪族が自身の権勢維持のために如何に天皇の地位を操作しているかが分かる。

 この天皇と世俗権力者による権力の二重構造――と言っても、天皇は世俗権力の傀儡としての地位しか築くことができなかったが、武家の時代となっても続く。

 豊臣秀吉は征夷大将軍に就かなかったものの、内大臣や関白といった宮中の官職を利用したが、源実朝以下、徳川家まで、天皇家から征夷大将軍の官職を賜ることで日本の支配・統治の正統性を得る二重権力構造を築き、それを伝統とした。

 この構造は明治に入っても続いている。戦前の天皇は国家の統治権と陸海軍の統帥権を握っていたが、実質的な権力は明治時代は薩長閥、戦前昭和期には軍部が握って日本という国を動かしていた。

 戦後に於いても、同じである。天皇は日本国憲法の規定で国政に関する権能を有しないにも関わらず、アジアの国々を訪問の際まどに発する、いわゆる「天皇のお言葉」は時の首相や内閣によってそれらの助言という名目で作成され、天皇は自身の言葉でない「天皇のお言葉」をアナウンスするのみというロボット役に甘んじている状況は裏で内閣が操っている二重権力構造の証明に他ならない。

 全斗煥大韓民国大統領が1984年9月6日より8日まで3日間日本国国賓として訪日、天皇との晩餐会に臨んだ際の天皇のお言葉は当時の首相中曽根康弘が主導して作成したもので、天皇はそれを自身の「お言葉」として全斗煥に発信した。

 中曽根康弘は1990年5月の盧泰愚(ノ・テウ)韓国大統領来日を控えて、朝日新聞のインタビューに答えて、次のような打ち明け話を行っている。

 中曽根康弘(1984年に韓国の全斗煥(チョン・ドウファン)大統領が来日した 際の昭和天皇のお言葉は)「全大統領は政治生命をかけて日本にやって来る。大統領が金甫空港に帰ったとき、韓国国民が喜ぶような環境づくりをすることが日韓親善促進のうえでキーポイントだ。ついては私に任せてほしい』と一任をとりつけ、『お言葉』の表現を決めた」(朝日新聞/1990年5月.1日)

 中曽根康弘作成の「お言葉」を昭和天皇は自らの「お言葉」として全斗煥にアナウンスする役目を果たす二重性を強いられたのである。

 安倍晋三はこのように日本の歴史を通じて権力の二重構造に於ける傀儡部分を担わされてきた、あるいは傀儡部分に追いやられていた皇室が「日本の伝統と文化、そのもの」だと言う。

 世俗権力者が権力の正統性を得るために天皇を利用して繰返してきた陰惨な権力争い(戦前の軍部内でも激しいは派閥争いや権力闘争が存在したと言う)が日本の歴史の何十枚という大枚のページを成すにも関わらず、「私たちが歩んできた歴史に対して私たち自身が愛おしいという気持ちを持てるかどうかが大切だろうと思います」と言う。

 「国と国との歴史においては、一瞬だけを取り出して現代のスタンダードから裁くという考え方はやはり間違っているのだろうと私は思っております」と言う。

 あるいは、「息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統があります」と言って、このような風景を日本の歴史の表紙に仕立てようとしている。

 日本の歴史のすべてを「愛おしい」とすることはできない。「愛おしい」とすることは考える思考作用を自ら捨てることを意味する。自らの合理的判断能力を麻痺させることに他ならない。

 歴史を通して世俗権力者の権勢誇示の裏には搾取される対象としての庶民が存在し、権勢を支える一方で貧しい生活を強いられていたのである。子どもが生まれても食べさせることができないからと殺してしまう間引きは貧民層に存在した日本の文化・伝統でもある。

 歴史をどう判断するかはそれぞれに任されている。だが、安倍晋三は日本の歴史を美化し、それを国民に押し付けようとしている。この思考作用の放棄・合理的判断能力の麻痺を伴わせる歴史解釈は危険極まりない歴史捏造としか言いようがなく、安倍晋三の歴史に関わる正体は歴史捏造者そのものである。

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NHK『日曜討論』が取り上げていた人口減少社会の問題点、人口東京一極集中の原因は日本人の権威主義

2014-05-13 09:15:07 | Weblog



 5月4日(2014年)のNHK日曜討論が『どう向き合う 少子化・人口減少』と題して人口問題を扱っていた。 

 人口の東京一極集中の原因が日本人の権威主義にあることは以前から言っていたことだが、最近、人口減少が盛んに言われるようになり、労働力人口の減少を補うために外国人労働者を入れるかどうかといった議論まで出てきているが、人口の東京一極集中問題に限って改めて取り上げてみることにした。

 NHK日曜討論冒頭、次のような解説が行われていた。

 解説「日本の子どもの数は減り続け、人口減少に歯止めがかからない。出生率は1.41。2061年には総人口は今よりおよそ4000万人減るという試算も。

 人口の減少を見据え、働き手をどう確保するかも課題となっている」

 番組冒頭近くで、元総務大臣、元岩手県知事、現野村総合研究所顧問、東京大学公共政策大学院客員教授と肩書の多い増田寛也氏が人口の東京一極集中について発言していた。

 島田アナウンサー「大都市とそ例外の地域との人口格差が深刻な問題となっているが、その点については」

 増田寛也「若い人の数が減ったり、総人口が減るといういうことは 出生率が関係していることが大きな要素一つだが、もう一つの要素として、東京に若い人がどんどんどんどん出て行ってしまう、地方から見ると。そのことにより地方の人口の減少がより加速している。この人口移動の部分が日本の極めて世界的には稀な特色であり、若い人たちが東京に行くと、東京はなかなか子どもさんを産み育てにくい環境にあります。一方で地方も経済などが衰退していってしまう。

 ざっとした私の計算でも、2040年からちょっ経ったそのぐらいの間に市町村の数で全国で523の市町村がもうほぼ消滅する、その危険性すらあるのではないのか。母数は大体1800(市町村)ぐらいですね。

 ですから、この人口移動って言うか、東京一極集中問題は総人口の中で、よりその問題を考えないといけないと思います」――

 では、なぜ若者は東京を目指すのか。勿論、東京一極集中によって東京の消費が栄え、経済が栄えて、文化が栄えて、雇用が栄え、その他諸々が栄える結果、その反動、もしくは代償として逆に地方は若者人口が減り、消費が衰え、経済が衰え、文化も衰え、雇用が細まり、その他諸々が衰退していく東京と地方の善と悪の無限循環に支配されて、東京のみが若者を地方から吸収する力をより一層蓄えていく人口移動の過剰な一方通行が原因となっているからだとは分かるが、このような状況になったことの、あるいは善と悪の無限循環を生み出したことのそもそもの原因は何かということである。

 権威主義とは人間活動やその成果、社会慣習的制度から経済・人口・文化規模等を合わせた各地域の総合力まで上下に権威づけ、権威づけの上下に応じて人間自体を上下に価値づける思考様式・行動様式を言う。いわば職業や学歴、家柄に始まって収入や住む地域の規模に応じて上下に権威づけて、ランク付けた権威に応じて人間を価値づける文化・慣習を言う。

 日本の中央集権体制も中央=東京を最上位の権威と看做し、地方を順次下の権威に置く権威主義によって成り立っている。

 東京は何事につけても最上位に権威づけられているということである。地方の田舎で働いているよりも、東京で働いている方が働いている本人だけではなく、親にしても鼻を高くすることができる。それも有名企業なら、なおさらのこととなる。

 遊びに行くにしても、自分が住む田舎町の繁華街で遊ぶよりも、東京の渋谷や原宿、あるいは秋葉原に遊びに行った方が価値あることとして自慢できて、自分を何様とすることができる。

 1946年(昭和21年)の学制改革によって各都道府県庁所在地に国立大学が新設されたが、それらの大学は旧東京帝大や旧京都帝大、旧東北帝大、旧九州帝大、旧北海道帝大といった選りすぐりの日本のエリートを集めた錚々たる優秀大学に対して、急行が停車する各都道府県所在地の駅では駅弁が売られていて誰もが選り取りみどりに買って手に入れることができることから、エリートとなれない者も入れるという意味で駅弁大学と揶揄された名称を有り難くも頂くことになったが、こういった現象自体・ランク付け自体が権威主義による価値づけであって、何を学び、学んだ学問を如何に社会に役立てるかで人間を価値づけるのではなく、社会的にランク付けた大学のステータスで人間を価値づける倒錯を日本の社会は、あるいは日本人総体はそもそもから孕んでいた。

 この結果が、学問の質や大学生の質を基準とするのではなく、東京に所在するというだけで学生が集まり、大学の規模を大きくしていることを基準とした六大学等の有名私立大学までが駅弁大学よりもランクを上とする権威主義的趨勢が日本の社会に形づくられ、東京一極集中の大いなる手助けを果たすこととなったということであろう。

 このような権威主義の根を断ち、人間を権威というハコモノで価値づけるのではなく、個人として身につけた経験や知識、それらの社会的な応用力と応用に応じた社会的貢献によって価値づける、権威主義から解き放たれた個人主義(「国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重することを主張する立場や理論」『デジタル大辞泉』)の考え方に立って、人間の中身や人間の活動の実質を重視するようにならなければ、東京一極集中の流れに到底、歯止めをかけることはできないだろう。

 
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安倍晋三の良き伴侶安倍昭恵の「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」は一般論か

2014-05-12 08:35:17 | Weblog

 

 安倍晋三の良き伴侶、安倍昭恵が自身のFacebookで、「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」と書き込んだことを新聞報道で知って、彼女 のFacebookを覗いてみた。

 「安倍昭恵 5月9日

 私はたまたま縁あって安倍晋三という男と結婚した。

 結婚した当初は、政治家になるだろうとは思っていたものの、総理大臣になるなど思ってもいなかった。

 女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる。

 私は自分の努力ではなく、夫の立場によって今の自分の立場があることを胸に刻み、今私ができる限りのことをしたいと思う・・・」――

 第一番に奇異に感じたのは、「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」と、「女性」という言葉を当てずに、「女」という言葉を使っていることである。

 最近では何か事件が起きたとき、事件関係者の立場にある場合は「女性」という名称で扱われるが、容疑者や犯人へと立場を変えると、「女」という名称に変化するが、そういった扱いの違いを言っているのではない。

 「女」と言う場合、社会性を剥いだ剥き出しの生きものの印象を与える。そういった生きものとして扱うとき、「女」と言う言葉を用いるのではないだろうか。 

 「女性」という言い方は、逆に社会性を持たせた表現となるはずである。社会的生きものとしての観点から把えた名称であろう。

 例えば「女性の社会参加」とは言うが、「女の社会参加」とは言わない。「社会参加」とは「社会人として社会の一翼を担う」社会性に関わる行動なのだから、社会性を持たせた言葉である「女性」の 表現を用いることによって前後の脈略に矛盾のない一貫性を与えることができる。 

 いわば「女の社会参加」は社会性を持たない存在による社会参加という不可能を言うことになって、前後矛盾する脈略となることになる。

 もう一つ例を言うと、よく小説などで使われる表現だが、「女は男に対して大きく身体(からだ)を開いた」と書くことはあっても、「女性は男性に大きく身体を開いた」と書いた表現にお目にかかったことがあるだろうか。

 ベッドの中ではお互いに社会性を剥いだ剥き出しの存在――動物的になるということであろう。ベッドの中でも男が自身の社会性を纏ったままの男性であったなら、つまらない男と軽蔑されるだろうし、逆に女にしても、自身の社会性から逃れることができずに女性として相手を務めたとしたら、行儀優先となって、面白くもない女ということになるだろう。
 
 安倍昭恵は「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」と、自身及び自身の同性者を社会性を持たせない存在として表現しただけではなく、社会性を持たせていない存在を「結婚」という極めて社会性に関わる行為――社会的行為の主語とする矛盾した言葉の使い方をしたことになる。

 このような矛盾は一般女性なら許されもするだろうが、首相夫人という極めて社会的地位の高い女性が曝したのである。

 この言葉の使い方の矛盾は 彼女自身の判断能力が深く関わっているはずだ。もし社会性を意識して言葉を判断していたなら、「女性」という言葉になっただろう。

 余分なことを言うと、ベッドの中ではお互いがお互いを悦ばせるためには お互いに如何に社会性を殴り捨てるかにかかっていることになる。

 もう一つ、奇異に感じたというより、違和感を感じたことがある。

 「人生が大きく変わる」 の「人生」とは、思想的な、あるいは哲学的な生き方ではなく、社会的境遇を指しているはずで、社会的境遇を意味していると前提として論を進めることにする。

 「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」と言っていることは、例えそれがある程度大勢のことであっても、その大勢は例外的なケースだと把えて言っているのではなく、自身を含めた自身の同性者に一般な出来事として把えた一般論として言っている言葉であるはずだ。

 いわば「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」ということを女性の一般的な境遇として把えた言葉ということになる。

 果たして「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」ということは女性の一般的な境遇なのだろうか。

 いくつかの例を挙げる。

 結婚前からバリバリのキャリアウーマンとして社会に活躍し、社会的自律を十分に果たしている女性が結婚後も家庭に入らずにキャリアウーマンとしての地位を守っていた場合、家庭内での自己よりも社会的存在としての自己を優先させた結果だから、あるいは結婚は結婚、社会的存在としての自己は自己と区別した結果だから、「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」という境遇の大きな変化は起こらない。

 少なくとも社会的な境遇の変化は殆ど変わらないはずだ。

 もう一つ逆の場合、例えば結婚後、夫が海外で仕事をすることになり、夫についていくために女性が長年かかって築いた日本でのキャリアを捨てたといったケースは結婚した相手に応じて人生が大きく変わるという例に当てはまるものの、特殊な例であって、多くの女性に当てはまる一般的な人生の大転換――境遇の大きな変化というわけではない。

 つまり安倍昭恵の場合は政治家と結婚して家庭に入り、主婦となったことからの、自身を例に挙げた「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」ということであって、政治家の妻に当てはまっても、女性に一般的な境遇として当てはめることができる一般論ではないと言うことである。

 一般論ではないことを一般論として言う合理的判断能力のないところを曝した。

 政治家の妻であっても、安倍昭恵の文言に当てはまらない場合もある。

 例えば結婚前から国会議員になっていた女性が同じ国会議員の男性と結婚したものの、家庭に入らずに国会議員を続けた場合、結婚した相手に応じて人生が大きく変わるという境遇の変化は先ず起こらないだろう。

 もしその女性国会議員が首相になった場合、外国訪問に夫の国会議員がついていくことになったら、結婚した相手によって人生が大きく変わるという境遇の大きな変化は男性側に起こることになる。

 ただの平社員だった男が運よく社長令嬢を射止めて、俗に言う逆玉に乗って社長の跡を継ぐことになり、結婚した相手によって人生が大きく変わるという境遇の大きな変化を受けることになったとしても、あくまでも特殊な例であっ て、一般的に起こり得る事例ではない。

 要するにケースバイケースでありながら、そのことを無視で きたのは安倍昭恵が政治家の妻となって家庭に入り、ついにはファーストレディの境遇となった、そのような境遇に限定される特殊な例でありながら、既に触れたように合理的判断能力を欠いて一般論として言う過ちを犯したからに他ならない。

  安倍昭恵がなぜ「女は誰と結婚するかで人生が大きく変わる」と言うことができたのか、その経歴から探ってみようとして、「Wikipedia」 で調べてみた。 

  1962年6月10日生まれ。 1987年6月に安倍晋三と25歳で結婚。

 最終学歴は立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程修了。修了後、電通に入社。

  一般的には修士課程修了は24歳で、25歳結婚ということは 1年そこそこしか勤めていないことになり、電通社員としてそれ相応のキャリアを築いていたわけではなく、社会的自律をそれ相応に獲得していたというわ けでもない。

 つまり結婚によって捨てるべき自身のキャリアもなかったし、捨てるべき社会的自律性もなく、一般的な社会的経験に未熟なまま家庭に入り、主婦となった。

 勿論、ただの主婦ではない。地元に戻れない安倍晋三のために政治家の妻として地元を預かり、選挙のときは演説することもあったというが、そういったことによって学ぶ社会的経験や社会的自律性は政治の世界という特殊な環境に限られたもの、あるいは政治の世界から見た特殊な経験に限定され、当然、社会的自律性もそういった特殊な環境に制約を受けることになって、そのような事情が自身か、自身に似た境遇に置かれた女性限定の一般的ではない経験を一般論として言う過ちを犯してしまったのではないだろうか。

 安倍昭恵の合理的判断能力の欠如は安倍晋三も同じ欠如の持ち主だから、その点、似た者夫婦の良き伴侶同士だと言うことができる。

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