安倍晋三の名人芸としか言いようのないウソ全開の2017年5月8日衆院予算委対宮本岳志衆院予算委答弁

2017-05-09 14:17:23 | 政治

 2017年5月8日衆院予算委で共産党議員宮本岳志が森友学園からの講演依頼を一旦は引き受けた件について安倍晋三を問い質した。

 ウソつきは自分がついたウソ(=事実ではない話)をウソではない(=事実)と思わせるようとするとき、元々は事実へと変えようがないウソ(=事実ではない話)だから、ウソではない(=事実)と思わせるためについつい余計なことまで言って多くの言葉を費やすことになり、ウソではないと見せかけた事実をつくり上げる。

 安倍晋三の宮本岳志に対する以下の答弁はまさにこれに当たる典型的な例であろう。 

 宮本岳志「2016年9月16日、一番最初に森友学園での講演を予定していたのは安倍昭恵氏ではなく、総理、あなた自身だった。それがあなたの自民党総裁選の立候補によって実現しなかったけれども、一旦はあなたは了承したわけですね。

 だからこそ、断る際に自ら電話に出て、言葉を掛けたわけなんです。

 事実をお話ししましょう。2012年9月16日に総理自身が森友学園で講演を予定していた。これは事実ですね」

 安倍晋三「それは事実でございます。私としてはお断りをしたということでございます」

 宮本岳志「総理はですね、この学校の教育内容がメディアなどで取り上げられ、国会でも問題になりますと、『俄にこの学校に於いて行われている教育の詳細については全く承知をしておりません』、こう答弁をされました。

 しかし行われている教育の詳細を知らずにですね、講演を引き受けるというのはあまりにも無責任な話でありまして、あなたは森友学園の教育内容を重々承知の上で2012年9月にすね、塚本幼稚園での講演を引き受けたんですよ。

 妻が、妻がと、恰も安倍昭恵氏が問題があるかのようにおっしゃいますけれども そんなことはありません。当初から森友学園を支援してきたのではありませんか」

 (ここから安倍晋三の名人芸としか言いようのないウソ全開が始まる。)

 安倍晋三「(鼻の辺りにフンとした笑みを見せてから)そもそも支援は全くしていません。支援が何を意味しているのか承知をしていないのですが、例えば一旦引き受けたことを支援ということかもしれませんが、それは全く支援ではないわけでありまして、これは我々は講演を様々な方から依頼されます。

 で、それは全て承知しているわけでは、あー、今は総理大臣でありますから、相当詳細に調べるわけでございますが、当時は自民党の総裁、えー、になる前の一議員としてですね、様々な方から依頼され、色んな所で講演してまいりました。

 誰に頼まれても半分以上はですね、覚えていないわけでわけであります。様々な方から依頼され、今、『えっー』という声が上がりましたが、それは講演の依頼が少なければですね、そういうこともありますよ(自民党席から大笑い)。

 あの、相当の数を、当時、依頼をされておりますから、相当な場所に於いてですね、講演をしてきたわけでございました。その方はですね、既に幼稚園の経営をされているということでございましたから(3秒程度言葉が止まる)・・・・、幼稚園を、ヨ、幼稚園を、幼稚園を経営(口許に一瞬、失笑気味の笑みを浮かべる)しておられますから、それは当然ですね、そういうある程度のセンシビリティにはなっていたわけでございまして、これはもう、まさにそのときに、真実を申し上げているわけでございますが、えー、大体、知人の知人や、知人の知人から依頼された場合も講演を引き受けているわけでありますから、いちいち、その、教育内容をすべて知っているということではないということははっきりと申し上げておきたいと思います。

 それはもう宮本先生がご承知のとおりだろうと、このように思い――」

 「思います」と語尾まではっきりと言って終えるのではなく、途中で切って早々にマイクから離れる。答弁を途中で切り上げたいと思いながら、ウソをついているから、なかなか言葉を止めることができなかったのだろう。

 宮本岳志「全ては知っていてですね、中身は分かって承知したのであります。森友の小学校の名誉校長に就任する2015年9月5日の講演で安倍昭恵氏は『これらの教育方針は主人も大変素晴らしいと思っている。主人も時間があれば幼稚園に来たいと言っている』。

 こう語りました。大体総理自身、今国会、9月17日の衆議院予算委員会の時点では、『妻から森友学園の先生の教育に対する熱意は素晴らしいという話を聞いている』と答弁しているんです。

 あなたがまさにこの学校を支援してきたことは否定しようがない事実だと思います」(以上)

 宮本岳志は安倍晋三が森友学園を支援してきたという印象を与えようとしたのみで、国有地売却問題の質問に変える。

 先ず宮本岳志は安倍晋三に対して森友学園から2016年9月16日に講演の依頼を受けて一旦は了承したことは事実かと尋ね、安倍晋三は一旦は了承し、その後断ったことは事実だと認めた。

 次に宮本岳志は森友学園の教育内容を知らずに講演を引き受けることはないから、それを承知の上で引き受けたはずで、当初から森友学園を支援してきたのではないかとさらに追及した。

 安倍晋三はこう答弁している。

 「そもそも支援は全くしていません。支援が何を意味しているのか承知をしていないのですが、例えば一旦引き受けたことを支援ということかもしれませんが、それは全く支援ではないわけでありまして」

 要するに講演を引き受けたことは支援に当たらないと言っているが、講演とは集まった多人数の聴衆に向かってあるテーマについて話すことであって、聴衆がその話に満足した場合、その満足は主催者に対しても一定の満足(=精神的あるいは金銭的利益)を与えて、主催者の意に適うだけではなく、講演を依頼された側も満足させる意図のもとに講演を引き受けるのだから、要請されて講演に応じることは少なくとも講演を通した支援と言うことになる。

 あるいは有名人が講演者である場合は、ある種の聴衆はその顔を見るために集まり、その顔を見たというだけで満足する場合が多々あって、そういったことも講演の主催者に対する満足(=精神的あるいは金銭的利益)となって跳ね返るのだから、上記述べた同じ性格の支援ということになる。

 安倍晋三は「それは全て承知しているわけでは、あー、今は総理大臣でありますから、相当詳細に調べるわけでございますが、当時は自民党の総裁、えー、になる前の一議員としてですね、様々な方から依頼され、色んな所で講演してまいりました」との表現で、総理大臣のときは相当に詳細に調べるが、一議員のときはそうではないとの趣旨で、講演の依頼主について全てを承知しているわけではないから、森友学園の教育内容について知らなかったと空とぼけている。

 一般的には不特定の聴衆を募集して行う講演であろうと、特定の聴衆を集めて行う講演であろうと、講演の主催者が講演を依頼するとき、その依頼が初めての相手であった場合は引き受ける側の職種や地位、関心事、思想等を承知していて依頼するのに対して相手側が主催者の職種や地位、関心事、思想等に関わる知識を有していないと見た場合にはその知識を相手に伝えてから講演を依頼するものである。

 なぜなら、主催者の職種、関心事、思想等が講演の依頼を受ける側の職種、関心事、思想等と関係し合って講演のテーマが選択されることになるからである。

 いわば講演を引き受ける側が講演の主催者の職種、関心事、思想等を知らずに講演を引き受けることはないし、引き受けることはできない。テーマは自由でいいですよと言われたとしても、聴衆自体が主催者の職種、関心事、思想等に呼応して集まることになるから、講演を引き受ける側も自身と主催者の職種や地位、関心事、思想等との兼ね合いの範囲内でテーマを決めなければならない自由度を与えられるに過ぎない。

 要するに講演を初めて依頼されて引き受ける側は講演の主催者の職種や地位、関心事、思想等の知識を得た上で、その知識と自身の職種や地位、関心事、思想等を照らし合わせながら、自分一人でか、主催者と相談し合ってか講演のテーマを決め、日時を決めて、初めてそれを一般に告知することになる。

 こういった経緯を取るのが一般的である以上、「Wikipedia」で調べてみると、森友学園は安倍晋三に講演を依頼した2012年9月16日当時は塚本幼稚園と肇國舎高等森友学園保育園を経営していたから、安倍晋三が森友学園から依頼されて一旦は講演を引き受けたということなら、講演のテーマを決めるところまでいかなくても、森友学園側は自分たちが経営している幼稚園と保育園がどういった教育方針で運営しているか知らせずに講演を依頼するはずはないし、安倍晋三にしても森友学園の教育内容を知らずに引き受けることはないし、引き受けることはできなかったはずで、知らないが事実だとしたら、宮本岳志が言うように「教育の詳細を知らずにですね、講演を引き受けるというのはあまりにも無責任」ということになる。

 安倍晋三は森友学園との関わりを避けるために名人芸のウソをついたに過ぎない。

 総理大臣のときは相当に詳細に調べるが、一議員のときはそうではないとの発言自体がウソ全開の言葉となっている。国会議員は閣僚ではなかったら、講演依頼者の身元や思想などを詳しく調べずに引受けてもいいという合理的根拠はどこにもない。

 また、「誰に頼まれても半分以上はですね、覚えていないわけでわけであります」と言っているが、頼まれて引き受けた講演、あるいは頼まれても断った講演の半分以上を現時点では忘れていたとしても、その当座は引き受けるにしても断るにしても、通常はそこにまで至る上記述べた経緯を取ることに変わりはないはずだから、講演を依頼した相手である森友学園のことは承知していなければならなかった。

 それを「誰に頼まれても半分以上はですね、覚えていないわけでわけであります」と言うこと自体がウソ全開のゴマカシに過ぎない。

 ウソ全開の圧巻は次の発言である。「その方はですね、既に幼稚園の経営をされているということでございましたから(3秒程度言葉が止まる)・・・・、幼稚園を、ヨ、幼稚園を、幼稚園を経営(口許に一瞬、失笑気味の笑みを浮かべる)しておられますから、それは当然ですね、そういうある程度のセンシビリティにはなっていたわけでございまして、これはもう、まさにそのときに、真実を申し上げているわけでございますが、えー、大体、知人の知人や、知人の知人から依頼された場合も講演を引き受けているわけでありますから、いちいち、その、教育内容をすべて知っているということではないということははっきりと申し上げておきたいと思います」

 講演の依頼が多くて依頼主の地位や立場を「全て承知しているわけでは」ないという表現で森友学園の教育内容については知らないとする趣旨のことを言いながら、「その方はですね、既に幼稚園の経営をされているということでございましたから」と、知っていたことをつい口にしてしまうが、ウソが名人芸となっているから、流石に表情には見せなかったものの、内心の狼狽えが言葉に現れることになった。

 「ございましたから」と言った後に3秒程度次の言葉を口にすることができないでいた。予期せずに口を突いて出てしまった言葉を「しまった」と思いながら、頭の中を振返っていたのだろう。

 3秒程度言葉を続けることができないでいた後、「幼稚園を、ヨ、幼稚園を、幼稚園を」とまごつくことになった。

 そのあと、「それは当然ですね、そういうある程度のセンシビリティ(?)にはなっていたわけでございまして」と言っているが、「センシビリティ」という英単語は「感受性」を意味する。

 よく聞き取れなかったから、異なる言葉を発したのかもしれないが、ネットで調べてみると、「センシティビティ分析」(私の頭では理解できないが、「分析対象の要素をパラメータ化し、ある変数の変動に対して他の変数がどのように変化するかを調べる分析手法」)という言葉があるから、「分析」という意味で使ったのかも知れないが、内心慌てていて、「センシビリティ」という発音になってしまったのかもしれない。

 問題はこのことよりも、「これはもう、まさにそのときに、真実を申し上げているわけでございますが、えー、大体、知人の知人や、知人の知人から依頼された場合も講演を引き受けているわけでありますから、いちいち、その、教育内容をすべて知っているということではないということははっきりと申し上げておきたいと思います」と言っていることである。

 同じウソをつくにしても、宮本岳志が、安倍晋三が「俄にこの学校に於いて行われている教育の詳細については全く承知をしておりません」と答弁したことに対して森友学園の「教育の詳細を知らずに講演を引き受けるというのはあまりにも無責任な話だ」と質問し、「当初から森友学園を支援してきたのではありませんか」と追及したことに講演の依頼はたくさんあって、「半分以上は覚えていない」と答え、「そもそも支援は全くしていません」と答弁すれば済むことである。

 だが、全てはウソだから、宮本岳志が「ウソをついているのではないか」と追及したわけでもないのに「真実を申し上げているわけでございますが」と自分からウソではない、全部本当のことだと言わなければならならなかった。

 これはウソつきが、言っていること自体がウソだから、「俺の言っていることはウソではない、本当のことだ」と何度も本当の話だと思わせなければならないのと同じ手順を踏んでいる。

 さらに、講演の依頼はたくさんあるから、依頼主の状況について全て聞くことはありませんと言うことで、森友学園の教育内容については知らないこととすれば済むことを、実際は知っていたが事実で、知らないはウソだから、「大体、知人の知人や、知人の知人から依頼された場合も講演を引き受けているわけでありますから、いちいち、その、教育内容をすべて知っているということではないということははっきりと申し上げておきたいと思います」と、言葉をムダに費やさなければならないことになる。

 安倍晋三が最後に「それはもう宮本先生がご承知のとおりだろうと、このように思い――」と答弁しているが、「ます」という語尾まではっきりと言うことができなかったのは、ウソつきがウソを事実と思わせるためにムダな言葉を長々と費やす罠にはまり込んでしまって、そこから早いとこ抜け出したい内心の思いが語尾まではっきりと言う余裕を与えずに切り上げさせてしまったに違いない。

 冒頭挙げた言葉を再度挙げてみる。

 ウソつきは自分がついたウソ(=事実ではない話)をウソではない(=事実)と思わせるようとするとき、元々は事実へと変えようがないウソ(=事実ではない話)だから、ウソではない(=事実)と思わせるためについつい余計なことまで言って多くの言葉を費やすことになり、ウソではないと見せかけた事実をつくり上げる。

 安倍晋三の宮本岳志の質問に対する答弁は数学の公式を当てはめて正確な答を導き出す経緯さながらにまさにウソつきがウソを事実に変える経緯を踏んだウソ全開の発言と言うことができる。

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プーチンは北方四島共同経済活動で安倍晋三の平和条約締結交渉に向けたシナリオを逆手に取っていないか

2017-05-08 12:57:36 | Weblog

 ――日本時間2017年4月27日日露共同記者会見を首相官邸サイトに公開しないのは安倍晋三の不都合を隠す情報隠蔽ではないのか――

 安倍晋三がロシアのモスクワを訪問、日本時間の2017年4月27日午後8時半過ぎからプーチンと日露首脳会談、会談後共同記者会見を行った。

 首脳の共同記者会見となると、いつもは二三日後に首相官邸サイトにその動画とテキストが公開される。4月27日の日露共同記者会見から10日以上も経過しているが、今回に限ってどちらも載らずじまいとなっている。

 2016年12月15日山口での日露首脳会談と12月16日東京での日露首脳会談後の12月16日日露共同記者会見は動画とテキスト共に公開されている。公開は国民に対する説明責任の問題に属す。今回は説明責任を果たさないことになる。

 なぜなのだろうか。 

 モスクワに向けて羽田空港を出発する際に行った対記者団発言は《首相官邸》サイトに公開されている。

 安倍晋三「プーチン大統領とは、昨年12月の長門会談の成果の上に、平和条約交渉を着実に前進させていきたいと思います。そのために北方四島での共同経済活動、そして元島民の皆さんの自由な墓参の実現について、大きな一歩を記したいと考えています。

 さらには、喫緊の課題である緊迫する北朝鮮情勢について、またシリア情勢について、様々な世界の課題について率直に意見交換を行い、共に連携して取り組んでいくこととしたいと考えています」

 要するに「北方四島での共同経済活動」と「元島民の自由墓参の実現」が「平和条約交渉進展」に資するとの考えで首脳会談に臨む姿勢でいる。

 この場合の姿勢はあくまでもこちら側の希望であって、相手の姿勢と合致する場合もあるし、合致しない場合もある。当然、当方の姿勢が首脳会談に適宜反映されたかが問題となる。

 反映の程度は共同記者会見に現れる。あるいは共同記者会見から汲み取らなければならない。

 となると、肝心の共同記者会見を公開してこそ、国民に対する説明責任を果たすことになる。だが、果たさなかった。

 安倍晋三の共同記者発表での発言要旨を次の記事から見てみる。

 2017年4月28日付《【日露首脳会談】共同記者発表での安倍晋三首相発言要旨 調査団派遣「歴史的試みだ」》産経ニュース/2017.4.28 22:08)      

 安倍晋三「4年ぶりにモスクワを訪問することができ大変うれしく思う。温かく迎えていただいたプーチン大統領とロシア国民の皆さまに心から感謝を申し上げたい。

 山口・長門で大統領を迎えた昨年12月。北方四島の元島民の切実な思いを託した手紙を真剣なまなざしで読んでくれた。君の姿は私のまぶたにいまも焼き付いている。大統領は記者会見で「心を打たれた』と率直に語ってくれた。

 初めて、北方四島の元島民の方々に航空機を利用してお墓参りをしていただくことが決まった。6月中に国後島と択捉島のお墓にお参りしていただきたい。長い間、国後島の古釜布1カ所に限られていた出入域手続きの場所を今後増やす。本年は歯(はぼ)舞(まい)群島の付近に設置することで合意した。

 北方四島における共同経済活動についても話し合った。エコツーリズムなど北方四島ならではの観光を盛んにする。その最初の一歩として5月中にも官民による現地調査団を派遣することで合意した。これは歴史的な試みだ。新しいアプローチを通じ両国民間の信頼を増進させ、ウラジーミルと私の間で平和条約を締結したい。私が昨年、ソチで提案した8項目の協力プランも着実に前進している。

 首脳会談では北朝鮮について時間を割いて話した。ロシアは国連安全保障理事会の常任理事国であり、6カ国協議の重要なパートナーだ。引き続き緊密に協力し、北朝鮮に対し安保理決議を完全に順守し、さらなる挑発行為を自制するよう働きかけていくことで一致した。シリア情勢、テロとの戦いをはじめ、世界が直面する課題はロシアの建設的な役割なくして解決できない。国際社会で日本とロシアがいかに協力を進めていくべきか、真剣にそして率直に議論した。

 ウラジーミルとは7月の20カ国・地域(G20)首脳会議の際に会うことで合意。9月のウラジオストクでの東方経済フォーラムでの再会も楽しみにしている。

 安倍晋三がモスクワに向けて出発する際に羽田空港で明らかにした「北方四島での共同経済活動」と「元島民の自由墓参の実現」が「平和条約交渉進展」に資すると考えていた内、「元島民の自由墓参の実現」は果たすことができたようだが、「北方四島での共同経済活動」は「5月中にも官民による現地調査団を派遣することで合意」へと「最初の一歩」を踏み出したことになる。

 共同経済活動に関する話し合いもなかなかの上出来だったと見なければならない。だから、その「最初の一歩」を「歴史的な試みだ」と自賛することができたのだろう。

 そして「最初の一歩」が最終目的に繋がる感触を得たはずだ。感触に応じて「新しいアプローチを通じ両国民間の信頼を増進させ、ウラジーミルと私の間で平和条約を締結したい」と平和条約締結の期待を安倍晋三をして抱(いだ)かしめた。

 これは希望的観測であってはならない。政治は現実主義に徹しなければならない。安倍晋三がプーチンとの首脳会談で得た感触、あるいは期待は共同記者会見でのプーチンの発言からも窺うことができなければならない。そこに両者の意見や主張の一致を見ることができる。

 もし窺うことができるプーチンの発言となっていたなら、共同記者会見の両首脳の発言を首相官邸サイトに公開しないまま国民の説明責任としない合理的な理由は存在しないことになる。
  
 安倍晋三にしても公開して国民への説明責任を果たすと同時に会談の成果を自慢したいはずだ。

 だが、そういった展開を取らなかった。 

 北方四島での共同経済活動開始に当たって現在一番の障害は日露双方の法的立場を害さない「特別な制度」を設ける交渉が全然進展していないことにあるとマスコミは伝えている。

 考えるに北方四島に対しては日露双方共に自国領土とし、双方共に主権を主張している関係から、領土と主権の二つの主張を双方共に降ろさないままにロシアの法律にも日本の法律にも依拠しない「特別な制度」を設けることで日露双方の法的立場を害さないように配慮し、その上で領土の帰属=主権の帰属を最終的に解決して平和条約に持っていくということなのだろう。

 だが、東京都内で2017年3月18日に開催した北方領土での共同経済活動に関する初の日露次官級協議ではロシア側は「ロシアの法律に矛盾しないような条件に基づいて実現しなければならない」と主張し、その法律下での経済活動であることを譲らなかったとマスコミは伝えている。

 いわばロシアの主権下のみでの共同経済活動に拘った。

 この日露次官級協議でのロシア側の主張はプーチンの意向を反映させているはずだ。4月27日の日露首脳会談でのプーチンの共同経済活動に関わる姿勢にイコールさせなければならないのだから、大統領の意向を反映させない一外務官僚の主張ということはあり得ない。

 いわば共同経済活動での「特別な制度」に関しては3月18日の日露次官級協議で既に答が出ていた。

 だからなのだろう、北方四島における共同経済活動開始の「最初の一歩」は日露双方の法的立場を害さない「特別な制度」構築の進展に置かなければならないにも関わらず、それを5月中の官民による現地調査団の派遣に置くことになった。

 ロシアは安倍晋三提唱の北方四島での共同経済活動を熱望している。熱望していても、ロシアの法律の適用を譲らないでいる。

 上記共同記者発表での安倍晋三発言要旨には、「新しいアプローチを通じ両国民間の信頼を増進させ、ウラジーミルと私の間で平和条約を締結したい」との安倍発言を伝えている。

 安倍晋三は平和条約締結交渉の前提に「両国民間の信頼を増進させ」ることができると信じている共同経済活動を置いていて、共同経済活動を通して構築することになる日露両国民の信頼を武器に平和条約締結交渉に持っていくというシナリを描いていることが分かる。

 いわば現在の安倍晋三にとっては平和条約締結が至上命題となっていて、今や共同経済活動の実施が平和条約締結交渉に持っていくための最重要の通過点となっているということになる。

 ということは、共同経済活動の実施が前進しなければ、安倍晋三は意に反していつまで経っても平和条約締結交渉までの道のりが遠いままとなる。

 プーチンはそのことを見抜いていて、安倍晋三のシナリオを逆手に取り、ロシアの主権下のみでの共同経済活動を譲らないでいたなら、安倍晋三が平和条約締結交渉を間近に手繰り寄せたいばっかりにプーチン側の思惑に乗るのではずだと計算して、そのためのプーチンの意向を反映させた3月18日日露次官級協議での「ロシアの法律に矛盾しないような条件に基づいて実現しなければならない」というロシア側の主張ということではないだろうか。

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テロ等準備罪:元警察庁長官国松孝次が言うように民主主義の掟も民主主義の警察も監視社会防止要件とならず

2017-05-07 12:26:52 | 政治

 朝日新聞が事務方としてオウム事件捜査指揮中にピストル狙撃を受けた当時警察庁長官だった国松孝次(79歳)に「テロ等準備罪」(組織犯罪処罰法改正案)についてインタビューしている。

 「Wikipedia」で当時を振返ってみる。

 1995年3月20日 地下鉄サリン事件発生
       3月22日 オウム真理教関連施設への一斉強制捜査
      3月30日 警察庁長官狙撃事件

 狙撃1時間後にテレビ朝日に教団への捜査中止要求の脅迫電話。
 手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2カ月半後に公務復帰

 奇跡的に助かったということか。

 記事を全文引用してみる。

 《オウム事件「共謀罪あってもお手上げ」法案賛成の国松氏》asahi.com/2017年5月4日17時07分)   

 政府が「テロ対策」の呼び声のもと成立を目指す「共謀罪」法案によって、テロ犯罪を防ぐことができるのか。全国の警察トップとしてオウム事件などの捜査を指揮したほか、自身も狙撃事件というテロの対象になった国松孝次・元警察庁長官(79)に聞いた。
 記者「政府が『テロ等準備罪』と説明している、共謀罪の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正は必要か」

 国松孝次「共謀罪でもテロ等準備罪でも、どちらの呼び方でもいいよ。21世紀の警察は組織犯罪との闘い。組織犯罪に限っては、手遅れになる前に共謀段階で捕らえなければいけない。私は共謀罪は必要な法律だと思う」

 記者「政府は『テロ等準備罪と共謀罪は別。共謀だけでなく「準備行為」がないと処罰しない』と説明する」

 国松孝次「私は、国際組織犯罪防止条約はマフィア対策だとずっと聞いていたから、『テロ対策』と急に言われて『へえ』と思った。『準備行為が必要』というのも、『へえ』だね」

 共謀するという行為を罰するわけだから、やっぱり共謀罪だ。共謀した段階で捜査が介入することが大切。他国と歩調を合わせて共謀段階を取り締まるというのが筋だと思う。

 ただ、テロ集団も組織犯罪には変わりないわけだし、五輪前でテロについて関心が高まる中で、政府のやり方が『けしからん』というほどでもない」

 記者「赤軍派やオウム事件の捜査を指揮し、テロと相対してきた」

 国松孝次「警視庁本富士署の署長だった1969(昭和44)年、庁舎が赤軍派に襲撃される事件があった。襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた。

 一方で、オウム事件や自分が狙撃された事件は、共謀罪があってもお手上げですな。『警察は情報を持っていなかったではないか』と言われればその通り。分からなかった」

 記者「だとすると、共謀罪ができても情報収集体制が整っていないとテロを防げないのでは」

 国松孝次「情報収集が大事なのはおっしゃる通り。同時並行でやるべきですな。法律をつくっても手段がなければどうしようもない。警察に手段を与えないで『取り締まれ』と言っても、できないでしょう。通信傍受や司法取引など、証拠集めのための色々な捜査手段の整備、充実をやるべきだ」

 記者「『一般市民』には関係ない法律になるか」

 国松孝次「捜査当局による乱用を懸念する声があるが、どんな法律でも解釈の仕方によっては常に乱用の恐れがある。この法律ができることと乱用の恐れは関係がない。社会と警察の間にきちんとした緊張関係があり、監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか。

 『組織犯罪だけでなく個人犯罪にまで広げるのはおかしい』という意見は分かる。どうしてもおかしい犯罪は、国会審議で外せばいい。民主主義の警察が、内心の自由を侵害するような適用をするわけがないと思う。「組織的犯罪集団」という条件があれば、その中に正当な労働組合などは入らないだろう」

 記者「共謀罪が出来たら、捜査当局にとって使い勝手はいいのか」

 国松孝次「作り方によりますな。『乱用の恐れがある』と色々条件を付けていちいち適用範囲を絞れば、『全然動かない法律は要らない』となる。ある程度フリーハンドで、捜査に委ねてもらわないといかん。共謀段階で組織犯罪について手がつけられる『武器』を与えてほしい。そうすれば、組織犯罪と相対できるようになるはずだ。(聞き手・後藤遼太)     ◇

 〈くにまつ・たかじ〉 1937年生まれ。警察庁長官だった95年、自宅マンション前で何者かに狙撃され重傷を負う。99~2002年、駐スイス大使。一般財団法人「未来を創る財団」会長。銃撃事件の際の主治医のすすめでドクターヘリ普及の活動も続けている」

■取材後記

 「共謀罪の先に『盗聴』や『密告奨励』など捜査手法の拡大がある」と反対派は懸念する。警察元トップが、法案に実効性を持たせるために必要とあげたのはまさに「通信傍受」と「司法取引」だった。

 捜査当局の乱用を防ぐため社会の監視が重要と国松氏は言う。だが、特定秘密保護法が成立するなど情報への壁は高まる一方だ。政府が「テロ等準備罪と共謀罪は別」と強調する中、終始「共謀罪」と言い切ったのも印象的だ。捜査手法の拡大といい、政府の建前と捜査現場の本音はかけ離れているということなのか。

 国松孝次は先ず「21世紀の警察は組織犯罪との闘い」と言っているが、刑法犯の70%以上を窃盗犯が占める。但し「Wikipedia」に次のような記述がある。

 〈組織犯罪とは、

 企業や役所など、一定の団体となる組織において、その構成員の全てもしくは大部分が一体となって行う犯罪のこと。特に企業における組織犯罪を企業犯罪と呼ぶことがある。

 2名以上で犯罪を遂行することを目的とした組織(犯罪組織、犯罪集団など)によって行われる犯罪のこと。もしくはその形態を指す。〉

 そして警察庁の「第5章 組織犯罪対策の推進」なる題名のサイトに、〈(4) 来日外国人犯罪者の組織化

 平成15年中の来日外国人の刑法犯の検挙件数に占める共犯事件の割合は61.7%と、日本人(17.7%)の約3.5倍となっており、来日外国人犯罪者の組織化が引き続き進展している状況がうかがえる。〉――  

 と言うことは、2名以上が共犯となって空き巣に入っても、自転車を盗んでも、自動車を盗んでも、そのような窃盗犯罪も「組織犯罪」ということになる。刑法犯の70%以上を占める窃盗犯の大半が2人以上の共犯であった場合は確かに「21世紀の警察は組織犯罪との闘い」と言うことができる。

 但し卑しくも「テロ等準備罪」という名前をつけている。テロもしくはテロと同等の凶悪な暴力的組織犯罪の取締りを目的とした法案であって、2人以上の共犯で行う確率が高くても、刑法犯の70%以上を占める窃盗犯の取締りを目的とした法案ではないはずである。

 テロ等の組織犯罪の取締り・捜査が極めて困難を要するという意味で言うなら(窃盗犯にしてもネット上に検挙率は30%以下、その中の乗り物盗の検挙率は10%以下との記述があるから、同じく取締りも捜査も困難ということになるが)、「組組織犯罪との闘いは21世紀の警察を以てしても難しい」と言うべきだろう。

 要するに警察は「テロ等準備罪」で言っている組織犯罪取締リ専用の組織ではないということである。あるいはそのような組織犯罪にだけ手を回して貰っては困るということである。

 国松孝次は「共謀した段階で捜査が介入することが大切」だと言い、介入可能とするために「通信傍受や司法取引など、証拠集めのための色々な捜査手段の整備、充実」――いわば情報収集体制整備の必要性を挙げ、それを可能とするのが「テロ等準備罪」だとしている。

 そして二つの事例を挙げて、「テロ等準備罪」は犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為を行った段階で処罰の対象とすることを可能とする法案だから、当然と言えば当然のことだが、情報収集が決定権を握っている趣旨の発言をする。

 一つは国松孝次が署長だった警視庁本富士署に対する1969(昭和44)年の赤軍派の襲撃事件。「襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた」と言っている。

 赤軍派による本富士署は1969年9月30日の午後7時頃の火炎瓶投擲事件である。

 「Wikipedia」で調べてみると、赤軍派が組織を立ち上げたのは1969年9月2日で、翌日の〈9月3日、関東学院大学金沢キャンパスに集結。9月4日に葛飾公会堂で初の決起大会を開いた。9月5日の日比谷野外音楽堂で開催された、全国全共闘結成集会に「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに公然と大衆の前に姿を現し、「秋の前段階蜂起」、「世界革命戦争」、「世界赤軍建設と革命戦争」などを主張した。〉とあって、1969年9月30日の本富士署赤軍派襲撃よりも1カ月近く前のことである。

 当時は既に過激な学生運動が盛んだった時代で警察は学生運動に目を光らせなければならない状況にあり、学生たちは大学キャンパスや公共の施設等で革命に関わるシュプレヒコールを上げていただけではなく、赤軍派が『大阪戦争」と称して計画した大阪市警察警察部管内各警察署や交番襲撃を警察は事前に察知して1969年9月13日・17日・20日に家宅捜索を行ったものの、9月22日、桃山学院大学と大阪市立大学を拠点として出撃、阿倍野警察署管内の金塚派出所・旭町一丁目派出所・阪南北派出所に火炎瓶を投げつけ炎上させ、対して警察は赤軍派の50人近くを逮捕している。

 大阪戦争に失敗した赤軍派はその後東京の各警察署や交番を火炎瓶で襲撃する東京戦争を計画、当然、「襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた」ことになる。

 因みに火炎瓶の使用、製造、所持する行為を処罰する「火炎瓶の使用等の処罰に関する法律」は1969年9月30日の赤軍派本富士署襲撃から6カ月後の1972年(昭和47年)4月24日の成立となっている。

 火炎瓶を使用する前の所持の段階でも取締まることはできなかったから、取締まるには「共謀罪」が必要だった。

 但しあくまでも犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為への完璧な情報収集(国松孝次が言うところの“謀議の把握”)が処罰の必要十分条件となることに変わりはない。

 次にオウム事件と自身に対する狙撃事件を例示して、「警察は情報を持っていなかった」ために「共謀罪があってもお手上げですな」との表現で、やはり情報収集が「テロ等準備罪」での取締り・捜査及び処罰の決定要件となると発言している。

 対して記者が「共謀罪ができても情報収集体制が整っていないとテロを防げないのでは」と当然のことを尋ねている。

 それに答えて国松孝次は情報把握・情報処理・情報管理等の組織的統一体としての情報収集体制に於ける情報把握の方法として「通信傍受や司法取引」等を挙げて、情報収集が決定要件となることに同意している。

 既遂の前段階の未遂の段階での処罰なのだから、情報収集が決定要件となることは極くごく当然のことだが、この場合の情報収集は監視のみが可能とする。

 別な言い方をすると、監視なくしてこの場合の情報収集は成り立たない。その典型例の一つが「通信傍受」ということであろう。

 記者は「通信傍受」という情報収集(=監視)の「一般市民」に対する影響に危惧を示す。

 対して国松孝次は「捜査当局による乱用を懸念する声があるが、どんな法律でも解釈の仕方によっては常に乱用の恐れがある」と答えている。

 確かに法律を厳密に解釈せずに、あるいは裁判所の判例に則った解釈に従わずに勝手に拡大解釈した場合、「乱用の恐れ」が生じる。

 だが、そういった「乱用の恐れ」以上に既遂の前段階の未遂の段階での捜査・取締り・処罰を可能とする法律であることの性質上、いわば犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為を未遂の段階で把握しなければならない責任を負うことになって、その反動として既遂にまでいくことを恐れて、情報収集という名の監視に走りがちとなる危険性が向かわせかねない「乱用の恐れ」を国松孝次が言う「乱用の恐れ」以上に気をつけなければならないはずだ。

 いずれにしても国松孝次は「社会と警察の間にきちんとした緊張関係があり、監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか」と、「乱用の恐れ」は生じないことを確約し、さらに「民主主義の警察が、内心の自由を侵害するような適用をするわけがないと思う」と一般市民に対する“内心の自由の侵害”は起きることはないと請け合っている。

 だがである、警察官が警察官としての任務に常に忠実であるなら、取調べ対象の女性に近づいたり、情を通じたり、あるいは取調べ対象ではないアカの他人の女性を盗撮したり、強姦したり、強盗のために他人に家に侵入したり等々の犯罪を犯すことはないし、過剰捜査に走ったりすることも誤認逮捕することもない。

 誰もが承知しているように現実はその逆であって、警察官が警察官としての任務に常に忠実であるとは限らない以上、常に「監視の目がしっかり作用」する保証はどこにもない。

 また、「監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか」と言っていることは民主主義なるものを絶対視している発想からの発言であって、民主主義が掟通りの原理・原則で常に機能する絶対性が保証されていたなら、民主主義に於ける平等の理念に反して人種や性別に基づく社会的な差別や性的少数者に対する差別も、イジメ等の抑圧をマスコミ情報を通して目にすることはない。

 当然、「民主主義の警察」であっても、「内心の自由を侵害」しない保証はどこにもない。取調室の自白の強要などは内心の自由侵害の典型例であろう。

 「民主主義社会の掟」にしても、「民主主義の警察」にしても、情報収集(=監視)の乱用を食い止める絶対的な道具立てと位置づけることができない以上、「共謀段階で組織犯罪について手がつけられる『武器』」――情報収集(=監視)は既遂にまでいく最悪の事態を避けるために未遂の段階での摘発を必然とさせなければならない責任上、情報収集という名の監視だけが突出する危険性を常に付き纏わせることになる。

 このことと国松孝次が「『組織的犯罪集団』という条件があれば、その中に正当な労働組合などは入らないだろう」と言っていることを併せると、労働組合が「組織的犯罪集団」か否かは完璧な監視(=情報招集)が判断可能とすることになるのだから、自ずと対象選ばずの監視に向かうことになって、監視社会とならない保証もどこにもないことになる。

 つまるところ国松孝次はインタビューで気づかないままに監視社会とならない保証はどこにもないことを口にしたに過ぎない。

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安倍晋三の困難直面の被災者を置き去りにした陽の当たる場所のみの大忙しで駆け抜けた5月2日被災地訪問

2017-05-06 11:18:43 | 政治

 安倍晋三が2017年5月2日宮城県下を訪問、南三陸町で仮設から本設に移り新たにスタートした南三陸さんさん商店街と女川町の再開発商業地区を視察、そして石巻市の「がんばろう!石巻」看板前で献花及び黙礼を行い、石巻南浜津波復興祈念公園の整備予定地等を視察、東松島市で高台に整備された野蒜(のびる)北部丘陵地区・宮野森小学校を視察、最後に名取市閖上(ゆりあげ)地区の慰霊碑で献花及び黙礼を行い、土地区画整理事業等を視察と大忙しで被災地を駆け抜けていった。

 前復興相の今村雅弘が2017年4月25日夜、自身所属の自民党二階派の派閥パーティーで講演、「東日本大震災は社会資本などの毀損を考えると、首都圏近くではなく、東北の、あっちの方でよかった」と、あろうことか被災地住民の神経を逆撫でする二度目の失言をやらかし、翌日の4月26日に辞表を提出させることになった自身の任命の失敗を帳消しする意味もあったのではないのか。

 被災地で改めて自身が変わりなく復興を力強く推進していく確約を発信することで今村失言を忘却の淵に早いとこ沈めたい思いがあったはずだ。

 そのためにも新復興相吉野正芳を伴った。

 視察後の対記者団発言を「首相官邸」サイトから見てみる。   

 安倍晋三「東日本大震災からの復興は、安倍政権発足以来の最重要課題であります。いまだに多くの方々が様々な困難に直面している中、一日たりとも停滞は許されません。今回の、私にとって34回目の被災地訪問を吉野復興大臣とともに行いました。現場主義を徹底していく。そして被災地の皆様の心に寄り添っていく。この方針の下に、しっかりと一つ一つ結果を出していくことで信頼を回復していきたいと考えています。

 今日は、南三陸の新しくなったさんさん商店街、そして女川のハマテラス、元気な笑顔に再会することができました。地域の皆様の情熱と努力によって新しい拠点が生まれ、そして新しい人の流れが生まれています。着実に復興が前進していることを実感できてうれしく思っています。

 そしてまた、東松島におきましては、高台に新たに開校した宮野森小学校を訪れました。木材をふんだんに使った大変ぬくもりのある校舎、正に森の学校だなと思いました。すばらしい環境で学ぶ子供たちは被災地の希望であり、未来であろうと思います。

 あの大震災においてあまたの尊い命が失われました。そして、多くの方々が大切な人、愛する人を失いました。今回、改めて石巻で、そしてこの閖上で黙とうを捧げました。そうした方々の思いをしっかりと受け止めながら、住まいの復興、生業の復興、心のケア、被災地の復興に向けて全力で取り組んでいく決意を新たにいたしました。東北の復興なくして日本の再生なし。この考え方の下、安倍政権一丸となって復興に取り組んでまいります」――

 被災地復興と一言で言うが、被災地復興には人口という要素は絶対的に欠かすことはできないはずだ。勿論、人口の回復は雇用の回復と一体でなければならない。

 《明暗が分かれる地方移住の促進-国勢調査からみる5年間の都道府県別人口移動の状況》には次のような記述が載っている。     

 平成27年国勢調査から、〈都道府県別の人口の増減についてみると、北海道および福島県では10万人以上、青森県、岩手県など8県では5万人以上、それぞれ減少〉している。

 〈宮城県や岡山県など人口全体としては減少していても、社会移動による人口の増加が自然増減の影響を緩和している府県もみられている。〉――

 ここでの社会移動とは県内外移動(転入+転出)を言い、被災地である宮城県は転出よりも転入が上回っているが、人口全体としては減少していることになる。

 宮城県のサイトにアクセスして人口を調べてみた。大震災の影響で2010年10月1日から2011年10月1日までの1年間で2万4941人減少したが、2011年10月1日現在の宮城県の推計人口は232万3224人で、2016年年10月1日現在の推計人口は232万9431人となっていた。

 2011年10月1日から2016年年10月1日までに人口は6207人増加しているが、2010年10月1日から2011年10月1日までの1年間で減少した2万4941人の内、6207人分を補っているだけで、この中に自然減が含まれているものの、1万8734人減少していて、震災前の人口を取り戻していないと見ることができる。

 だとしても、宮城県の人口はマシな方で、福島と岩手は相当な人口減に見舞われていて、被災地復興に欠かすことはできない絶対的要素である人口の欠損状態からの回復が急務となるはずである。

 人口と雇用を回復して、生活の復興は可能となる。いくらインフラ整備が進んでも、人口と雇用が回復しなければ、真の生活の復興と言うことはできない。

 人口減の影響での困難の一例を挙げると、一早く店を再開して戻ってくる住人のために備えたところ、インフラ復興の土木作業で一時的な人口増加を担った土木作業員が顧客となって賑わうという恩恵は受けはしたが、復興が進むに連れて増加していた人口が減少に転じ、ついには復興終了と共にその姿は途絶えることになったばかりか、被災者が満足に戻らないために賑わいを取り戻すことができず、廃業せざるを得ないといった困難に直面した例も被災3県から拾い出せば、かなりの数であるに違いない。

 津波で流された住宅の跡地に家を新築したものの、近所の住民が戻らないままであるために近所付き合いを築くことができないばかりか、地域社会をも満足に構築することができないために生活の復興とまではいかない例も聞く。

 店舗を失い、ようやくのことで前の場所に再建したものの、人口減少で被災前と比べて売上が思う程には伸びないために生活が復興できたとは言えないという例も跡を絶たないはずだ。

 生活の困難な例を挙げるとしたら、未だに仮設住宅に取り残されている被災者を挙げないわけにはいかない。東日本大震災から間もなく6年近くの2017年2月27日付「河北新報」は、〈東日本大震災から間もなく6年を迎える中、東北の被災3県では東京電力福島第1原発事故の自主避難者を含めて3万3748世帯、7万1113人がいまだに仮設住宅での生活を余儀なくされている。〉と、強いられている生活の困難を伝えていて、生活の復興が未だ道遠しの状況に置かれている。

 安倍晋三が「いまだに多くの方々が様々な困難に直面している」と言っていることはこうしたことを指しているはずだ。

 と言うことなら、今以って困難に直面している「いまだに多くの」被災者の直面しているその困難そのものを除去する優先的施策は人口の回復と雇用の回復であり、そのような施策を集中的に行って生活再建の機会創出を図るのが安倍晋三が常々口にしている“現場主義の徹底”を言行一致させる方法であり、そうしてこそ「被災地の皆様の心に寄り添っていく」という言葉が生きてくるはずだ。

 だが、安倍晋三は「いまだに多くの方々が様々な困難に直面している」と言いながら、視察先は復興や再建ができている、いわば陽が当たっている場所を好んで選んでいる。

 当然、被災者がどのような困難に直面しているのか、その情報は置き去りにされる。

 その程度の「34回目の被災地訪問」であり、その程度の「被災地の皆様の心に寄り添っていく」でしかない。

 2015年2月15日の当「ブログ」に、〈復興が軌道に乗った陽の当たる場所にだけ出かけていって、自分の成果のように誇り、マスコミに目を向けさせて、復興全体が軌道に乗っているかの如くに国民に印象づけの情報操作をする。〉と書いた  

 被災者が満足に戻らないために賑わいを取り戻すことができない場所に出かけて、閑散とした光景を目に焼き付けるといったことはしない。

 被災地復興施策の優先順位を人口の回復と雇用の回復に置く必要があるなら、ロシア政府が2016年6月から極東地域で開始し、同年10月から北方領土でも適用、2017年1月にロシア全土で申請することができるようになった北方領土を含めた極東地域の土地を最大で1ヘクタール無償提供して、5年間農地などとして使用すれば正式に所有を認める土地無償提供制度を見習い、政府が空き地を買い上げて無償で提供、職種自由の職業での活用を許可、5年後、あるいは10年後には所有を認める制度を特区として被災3県の特に人口減少地域に街の一角を形成できる形で設けるといった思い切った施策を行わなければ人口の回復と雇用の回復を伴った真の復興は望むことができないのではないだろうか。

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安倍晋三の「自衛隊違憲は間違い」は強過ぎる合憲願望が砂川最高裁判決をそのように解釈させている

2017-05-05 11:39:11 | 政治


 安倍晋三は2017年5月3日「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(民間憲法臨調、櫻井よし. こ代表)が都内で開催した「公開憲法フォーラム」にビデオメッセージを送って、憲法を改正し、東京オリンピック・パラリンピック開催の2020年に施行を目指す意向を示した。結構毛だらけ、猫灰だらけ。

 その中で自衛隊について次のように発言している。

 安倍晋三「例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。

 私は少なくとも、私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません。そこで『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは国民的な議論に値するのだろうと思います」(「日経電子版」)  

 先ず安倍晋三は自衛隊に対する「国民の信頼は9割を超えています」と言っている。その9割の多くは災害救助活動の自衛隊についてであって、戦争する自衛隊に対してではないはずである。

 憲法に関わる世論調査を見れば、一目瞭然である。

 2017年3月に行った《世論調査 日本人と憲法 2017》NHK NEWS WEB/2017年4月29日)を見てみる。

 全国の18歳以上の4800人を対象に電話ではなく、直接会って聞く個人面接方式で実施し、55.1%に当たる2643人の有効回答。

 「憲法改正は必要か」

 「必要」43%
 「必要ない」34%
 「どちらともいえない」17%

 「『戦争の放棄』を定めた憲法9条を改正する必要があると思うか」

 「改正する必要があると思う」25%
 「改正する必要はないと思う」57%
 「どちらともいえない」11%

 回答者の多くが自衛隊や集団的自衛権とは関係しない個所の憲法改正を望んでいる。

 9条に関しての傾向は郵送方式で行い、有効回答2020人となった、「朝日新聞世論調査」(2017年5月2日00時20分)にも現れている。      

 「憲法第9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」

 変えるほうがよい29%
 変えないほうがよい63%

 前のところで自衛隊に対する信頼の9割の多くは災害救助活動の自衛隊についてであって、戦争する自衛隊に対してではないはずであると書いたが、朝日新聞世論調査の次の回答がこのことを証明している。

 ◆自衛隊が海外で活動してよいと思うことに、いくつでもマルをつけてください。

 災害にあった国の人を救助する92%
 危険な目にあっている日本人を移送する77%
 国連の平和維持活動に参加する62%
 重要な海上交通路で機雷を除去する39%
 国連職員や他国軍の兵士らが武装勢力に襲われた際、武器を使って助ける18%
 アメリカ軍に武器や燃料などを補給する15%
 アメリカ軍と一緒に前線で戦う4%(以上)

 自衛隊の戦争活動への支持は僅か4%に過ぎない。支持は期待と信頼を裏打ちとして成り立つ。

 安倍シンパの「産経新聞社とFNN合同世論調査」を見てみる。    

 「憲法改正について」

 「賛成」52・9%
 「反対」39・5% 

 「賛成52・9%のうち、戦争放棄や戦力不保持を明記した憲法9条改正について」

 「賛成」56・3%
 「反対」38・4%

 この記事には調査方式も回答者数も記載されていない。同じ内容の記事を載せている「政治に関するFNN世論調査」で調べてみた。   

 〈2017年4月15日(土)~4月16日(日)に、全国から無作為抽出された満18歳以上の1,000人を対象に、電話による対話形式で行った。〉と書いてある。但し有効回答者数は記載していない。1000人共が有効回答と見て計算してみる。

 憲法改正に賛成は529人。反対は395人。529人の内、9条改正賛成は529✕56・3%≒298人。529人の内、9条改正反対は529人✕38・4%≒203人。

 憲法改正反対39・5%(1000人の内395人)は9条改正反対にそのまま右へ倣えするから、9条改正反対は395人+203人=598人となって、賛成298人よりも300人上回ることになる。

 このように自衛隊に対する9割の信頼の多くは災害活動に対してであり、戦争への役割に対してではないにも関わらず、安倍晋三は9割の多くを戦争する自衛隊への信頼だと道理を捻じ曲げて憲法9条に自衛隊を明文化しようとしている。

 安倍晋三は自衛隊は合憲と位置づけている。その根拠を周知の事実となっているが、安倍晋三は1959年の砂川事件最高裁判決に置いている。

 2015年6月26日の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する衆議院特別委員」での答弁。

 安倍晋三「平和安全法制について、憲法との関係では、昭和47年の政府見解で示した憲法解釈の基本的論理は変わっていないわけであります。これは、砂川事件に関する最高裁判決の考え方と軌を一にするものであります。

 そこで、砂川判決とは何かということであります。この砂川判決とは、『我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない』、つまり、明確に、必要な自衛の措置、自衛権について、これは合憲であるということを認めた、いわば憲法の番人としての最高裁の判断であります。

 そして、その中における必要な自衛の措置とは何か。これはまさに、その時々の世界の情勢、安全保障環境を十分に分析しながら、国民を守るために何が必要最小限度の中に入るのか、何が必要なのかということを我々は常に考え続けなければならないわけであります。そして、その中におきまして、昭和47年におきましてはあの政府の解釈があったわけでございます。

 今回、集団的自衛権を限定容認はいたしましたが、それはまさに砂川判決の言う自衛の措置に限られるわけであります。国民の命と平和な暮らしを守ることが目的であり、専ら他国の防衛を目的とするものではないわけでありまして、それは新たに決めた新三要件を読めば直ちにわかることであります」

 昭和47年(1972年)の政府見解(「安全保障の法的基盤に関する従来の見解について」)は次のように記している。(一部抜粋)     

 〈外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉

 要するに昭和47年(1972年)の政府見解は自国防衛の個別的自衛権のみを認めていて、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」としている。

 だが、安倍晋三は「昭和47年の政府見解」は「砂川事件に関する最高裁判決の考え方と軌を一にする」とこじつけ、「今回、集団的自衛権を限定容認はいたしましたが、それはまさに砂川判決の言う自衛の措置に限られるわけであり」と、恰も砂川最高裁判決が集団的自衛権をも認めているかのようにこじつけの上にこじつけを架し、「憲法の番人としての最高裁の判断」だと、その判断を絶対とする我田引水をやらかしている。
 
 砂川事件は1957年に基地反対派の学生が基地拡張に抗議して米軍立川基地内に突入、日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で逮捕されたことが発端となって、日本政府が日本への米軍の駐留を認めているのは9条で武力の不行使、戦力の不保持、交戦権の否認を規定している日本国憲法に違反しているのではないか、それとも合憲かを争うことになった裁判だから、あくまでも米軍の日本駐留は合憲か否かを判決の本筋としている。

 東京地方裁判所が米軍の日本駐留は日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持に当たり、違憲であるとして全員無罪の判決を下したのに対して最高裁は1959年12月16日、日本駐留を合憲として地裁に差し戻している。

 先ずご承知のように日本国憲法「第2章 戦争の放棄」第9条は第1項で「戦争の放棄」を、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を規定している。

 では、「最高裁判決」を見てみる。但し現在サーバー障害が発生していて、記事内容は把握できない。以前保存しておいた記事から必要個所を抜粋してみる。     

 先ず判決は9条について、〈いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。〉と、自衛権を認めている。

 ここで問題となるのは日本国憲法第9条と自衛権との整合性である 

 〈われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。〉と憲法前文を根拠として、〈憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。〉との文言で、自衛権の他国依存(ここでは米国)に正当性を与え、既にここで日米安保条約を合憲としている。

 他国に安全保障を求めた場合、次に問題となるのは自衛隊自身の自国自衛権(=自国安全保障)への関与である。

 〈そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉

 9条2項が〈保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力〉――自衛隊を指し、〈結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉との言い回しで、「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」、いわば「わが国自体の戦力」=自衛隊は9条2項が「戦力の不保持」を禁止している違憲の存在だと、“憲法の番人”である最高裁は9条2項に対する憲法判断を下した上で、自衛隊が違憲の存在である以上、自国自衛権(=自国安全保障)への関与が認めることができない代わりに「わが国が主権国として持つ固有の自衛権」は「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても」、9条2項が「いう戦力には該当しないと解すべき」であって、「他国に安全保障を求めることを」日本国憲法は「何ら禁ずるものではない」と“憲法の番人”はかくこのように9条を解釈したのである。

 そして米軍日本駐留合憲を次のように明確に述べている。

 〈アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。〉――

 どこをどう見ても、自衛隊は合憲だとは書いてない。裁判が争うことになった米軍の日本駐留は合憲か否かにあくまでも添った判決の体裁を取っている。

 集団的自衛権に関しては次のように述べている。

 日米安全保障条約に関して、〈右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障条約を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。〉

 日本が「わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み」、アメリカと安全保障条約を締結する権利を有することは認めているが、ここで言っている「集団的自衛」はアメリカ側から見た「集団的自衛」である。違憲である自衛隊は個別的自衛も集団的自衛も担うことはできない。

 砂川事件最高裁で裁判長を務めた田中耕太郎が補足意見を述べている中でも集団的自衛に触れている。

 〈およそ国家がその存立のために自衛権をもっていることは、一般に承認されているところである。自衛は国家の最も本源的な任務と 機能の一つである。〉

 〈一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべ きでない。

 一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。〉

 以上の文言はあくまでも補足意見であって、米軍の日本駐留は合憲であるとした判決理由の根拠に挙げた自衛隊は9条2項が禁ずる戦力に該当する違憲の存在だとした判断に影響は与えない。

 補足意見で言っている自衛の考え方への賛否は国民それぞれが決める。

 “憲法の番人”である最高裁が自衛隊は日本国憲法に違反しているとしている以上、安倍晋三が張りっきっているように「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」といった芸当はどう逆立ちしても不可能となる。

 安倍晋三の当初の本音は9条2項の戦力の不保持を改めて戦力の保持に持っていくことであったが、その本音を封印して、9条1項、2項をそのままに3項を付け加えて、自衛隊の合憲を明文化することだと2017年5月4日付け「asahi.com」記事が伝えている。      

 この目的を果たせば、9条2項を改変し、それが成功したら、次は9条1項へと進むことは間違いない。

 その次は現在は必要最小限と限った安倍晋三の集団的自衛権にしても、その必要最小限という限界を取り外すことになるはずだ。

 こういったプロセスを踏むことになるだけではなく、昨日のブログに書いたように安倍晋三が理想だとする改正憲法は自身が思想・信条としている復古主義・戦前回帰主義・国家主義を条文の背後に巧妙に隠したものになるだろう。

 小沢一郎自由党共同代表曰く。

 「そもそも総理は、信じがたいことであるが、『憲法で国家権力を縛るというのは絶対王政時の旧い考え方』と国会で答弁するなど、現行憲法と立憲主義を全く理解しておらず、この総理が提唱する憲法改正など、考えただけでも恐ろしいことである」(産経ニュース/2017.5.3 05:01)  

 例え国民の合意を取り付けて自衛隊を合憲と位置づけるにしても、武力行使を必要最小限に限った集団的自衛権を必要だと認めるにしても、安倍晋三みたいに口先だけの積極的平和主義外交ではなく、真に平和主義に立った国のリーダーの元、行うべき憲法改正でなければならない。

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安倍晋三の改正憲法には自身が思想・信条としている復古主義・戦前回帰主義・国家主義が忍び込むことになる

2017-05-04 10:31:59 | Weblog

 安倍晋三が「『21 世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(民間憲法臨調、櫻井よし. こ代表)2017年5月3日都内開催の「公開憲法フォーラム」にビデオメッセージを送ったと同日付マスコミが一斉に報じた。

 「日経電子版」からその全文を読んでみた。 

 安倍晋三「ご来場のみなさま、こんにちは。自由民主党総裁の安倍晋三です。憲法施行70年の節目の年に、「第19回 公開憲法フォーラム」が盛大に開催されましたことに、まずもってお喜び申し上げます。憲法改正の早期実現に向けて、それぞれのお立場で精力的に活動されているみなさまに心から敬意を表します。

 憲法改正は、自由民主党の立党以来の党是です。自民党結党者の悲願であり、歴代の総裁が受け継いでまいりました。私が首相・総裁であった10年前、施行60年の年に国民投票法が成立し、改正に向けての一歩を踏み出すことができましたが、憲法はたった1字も変わることなく、施行70年の節目を迎えるに至りました。

 憲法を改正するか否かは、最終的には国民投票によって、国民が決めるものですが、その発議は国会にしかできません。私たち国会議員は、その大きな責任をかみしめるべきであると思います。

 次なる70年に向かって、日本がどういう国を目指すのか。今を生きる私たちは、少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化など、我が国が直面する困難な課題に対し、真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。

 憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです。私たち国会議員は、この国の未来像について、憲法改正の発議案を国民に提示するための『具体的な議論』を始めなければならない、その時期にきていると思います。

 わが党、自由民主党は未来に、国民に責任を持つ政党として、憲法審査会における『具体的な議論』をリードし、その歴史的使命を果たしてまいりたいと思います。

 例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。

 私は少なくとも、私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません。そこで『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』」という考え方、これは国民的な議論に値するのだろうと思います。

 教育の問題。子どもたちこそ我が国の未来であり、憲法において国の未来の姿を議論する際、教育は極めて重要なテーマだと思います。誰もが生きがいを持って、その能力を存分に発揮できる一億総活躍社会を実現するうえで、教育が果たすべき役割は極めて大きい。

 世代を超えた貧困の連鎖を断ち切り、経済状況にかかわらず、子どもたちがそれぞれの夢に向かって頑張ることができる、そうした日本でありたいと思っています。70年前、現行憲法の下で制度化された小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさに、戦後の発展の大きな原動力となりました。

 70年の時を経て、社会も経済も大きく変化した現在、子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならないと思います。これは個人の問題にとどまりません。人材を育てることは、社会・経済の発展に確実につながっていくものであります。

 これらの議論の他にも、この国の未来を見据えて議論していくべき課題は多々あるでしょう。

 私はかねがね、半世紀ぶりに夏期の五輪・パラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけにすべきだと申し上げてきました、かつて、1964年の東京五輪を目指して、日本は大きく生まれ変わりました、その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。

 2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと強く願っています。私は、こうした形で国の未来を切りひらいていきたいと考えています。

 本日は、自由民主党総裁として、憲法改正に向けた基本的な考え方を述べました。これを契機に、国民的な議論が深まっていくことを切に願います。自由民主党としても、その歴史的使命をしっかりと果たしていく決意であることを改めて申し上げます。

 最後になりましたが、国民的な議論と理解を深めていくためには、みなさまがた『民間憲法臨調』、『美しい日本の憲法をつくる国民の会』のこうした取り組みが不可欠であり、大変心強く感じております。憲法改正に向けて、ともにがんばりましょう。

 先ず憲法とは、〈国家における組織の形態や国民の義務と権利、統治者や為政者が権限を行使する根拠、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。なお、法規範ではなく国家の政治的統一体の構造や組織そのものを指す場合もある(事実的意味の憲法)〉(Wikipedia)と解説されている。

 また、〈立憲主義とは、政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方。〉(Wikipedia)とある。

 要するに国家権力の国家統治の制度を憲法のもとに置き、その恣意的な濫用を防ぐ役目を憲法は担っている。

 国家権力の恣意的な濫用は権力や富の独占を専らとすることになって、その反動として表現の自由や信教の自由等の基本的人権を含めた広い意味での人間が人間らしく生きる生存権の抑圧を誘発する。

 いわば国民の生存権の抑圧があって国家権力の恣意的な濫用――権力や富の独占が成り立つ。

 安倍晋三のメッセージから主な内容を拾ってみる。

 「次なる70年に向かって、日本がどういう国を目指すのか」

 「憲法は、国の未来、理想の姿を語るもの」

 「9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません」

 その上で、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」

 「戦後の発展の大きな原動力となった」「70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化」を「子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」

 東京「五輪・パラリンピックが開催される2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」

 安倍晋三は2006年10月23日の参議院本会議で次のように答弁している。

 安倍晋三「現行憲法が持っている主権在民、自由と民主主義、そして基本的な人権、平和主義といった原則は普遍的な価値であり、当時の日本国民が希求していたものであるというのも事実であると思います。

 他方で、占領軍の影響下において憲法が制定されたことも事実であり、いかに中身がすばらしいものであっても、憲法が基本法である以上、その制定過程にはこだわらざるを得ないと考えています。こうした観点から、私は、やはり私たち自身の手で新しい憲法を作っていくことが必要であると考えております」――

 安倍晋三の改憲意志には日本国憲法が占領軍の影響下で制定されたから、日本人自身の手で新しい憲法を作るという意図が込められていることになる。

 但し、「現行憲法が持っている主権在民、自由と民主主義、そして基本的な人権、平和主義といった原則は普遍的な価値であり」と、いわば「人類共通の価値だ」と答弁していることに関しては今回のビデオメッセージでは一言も触れていなが、「主権在民、自由と民主主義、そして基本的な人権、平和主義」が「普遍的な価値」(=人類共通の価値)であることに変わりはないから、この基本的構造は堅持しなければならない。

 安倍晋三は「憲法を戦後、新しい時代を切り開くために自分たちでつくったというのは幻想だ。昭和21年に連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も全く素人の人たちが、たった8日間でつくり上げた代物だ」とか、「本来であれば、この日(主権回復の日)を以って、日本は独立を回復した国でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」と日本国憲法を占領軍憲法だと忌避し、占領軍の政策が日本を改造し、日本人の精神に悪影響を及ぼしたと嫌悪していながら、「70年前、現行憲法の下で制度化された小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさに、戦後の発展の大きな原動力となりました」と憲法の貢献を言うのは相変わらずのご都合主義ここに極まれりである。

 悪い方向にという意味で“日本は改造された”と言っていることは“改造”の原型を戦前日本国家に置いた言葉に他ならない。いわば戦前日本国家を理想の国家像としているからこそ、“日本は改造された”という趣旨の言葉が口をついて出ることになる。

 同時にそうであるからこそ、安倍晋三は復古主義・戦前回帰主義に走ることになる。

 戦前の大日本帝国は国家主義(国家を最高の価値あるもの、人間社会の最高の組織と見なし、個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方――「goo辞書」)の考えに立ち、国家を統治していた。

 戦前の日本国家が国民に対して天皇と国家への奉仕を求めたのはこの国家優先の国家主義による。

 また国家優先・国民非優先の関係構造を取る国家主義の前にあっては、戦前の日本国家がそうであったように「主権在民、自由と民主主義、そして基本的な人権、平和主義」等の「普遍的な価値」(=人類共通の価値)は無力化される危険性を常に付き纏わせることになることを忘れてはならない。

 安倍晋三にしても大日本帝国を理想の国家像としている以上、国家主義を自らの思想・信条としている。国家主義が国民個人の在り様よりも国家の在り様を優先する考え方によって成り立っているためにアベノミクスは必然的に格差ミクスの構造を取ることになる。

 当然、「次なる70年に向かって、日本がどういう国を目指すのか」、いわゆる新しい憲法に書き込む国の姿、「憲法は、国の未来、理想の姿を語るもの」と言っている、“国の理想の未来像”は安倍晋三が理想の国家像としている戦前の大日本帝国をモデルとした国家統治を頭に描いた憲法ということになる。

 「9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません」と言いつつ、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」憲法改正意志にしても、明文化の背後に安倍晋三の復古主義・戦前回帰主義・国家主義が忍び込むことになる。

 忍び込まなければ、安倍晋三ではなくなるし、安倍晋三が憲法を改正する意味を失う。

 と言うことは、安倍晋三が憲法改正を主導した場合、その憲法は安倍晋三自身の主義・主張を忍び込ませた国家権力の行使を密かに規定しない保証はないと用心しなければならない。

 この用心は国民が愉しみな目標としている東京オリンピック・パラリンピックに便乗させて、その「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」 という言葉に下手に乗ってはいけない配慮をも含むことになる。

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トランプが北朝鮮に対して如何なる先制攻撃もできない自明の理由 核の反撃で応えるという警告

2017-05-02 11:58:28 | 政治

 以下の文章は大方のマスコミ記事や識者が見ていることをなぞるような形で進めることになる。

 トランプ政権は北朝鮮が核兵器をミサイルに搭載して運搬する能力を保持していると受け止めている。

 当然と言えば当然だが、北朝鮮がミサイル発射実験を繰返すことで、核運搬能力と飛距離を高めていくことと核実験を繰返すことで、その小型化と威力増強を成し遂げていくと見ている。

 これらを阻止するためにトランプは北朝鮮のミサイル発射実験と核実験に対峙することになる。

 2017年4月4日にシリア政府が同国西部の反政府勢力支配地域を空爆、化学兵器サリンを充填した爆弾を投下、100人近くの死者と大勢の負傷者を出したのに対してトランプは2日後の4月6日にその報復としてアサド政権の軍事施設を巡航ミサイルで攻撃した。

 この報復は北朝鮮に対してこれ以上のミサイル発射実験や核実験を強行した場合はこういった攻撃もあり得るという見せしめでもあると言われた。

 そしてその具体化の一つとしてトランプは4月11日に米海軍の原子力空母カール・ビンソンを中心とする第1空母打撃群を朝鮮半島周辺に向けての航行を指示している。

 トランプはこの他にも2017年4月13日にアフガニスタン国内の「イスラム国」の拠点に対して核兵器以外の通常兵器で最大の破壊力があるとされ、「すべての爆弾の母」と呼ばれている「大規模爆風爆弾」を投下、大きな被害を与えているが、北朝鮮に対してアメリカの軍事力の高さを見せつけるデモンストレーションを兼ねていたと言われている。

 トランプがホワイトハウスの記者団に対して「アメリカには素晴らしい軍隊がある。米軍をとても誇らしく思うし、今回の作戦もまた成功裏に遂行された。米軍は世界一の軍隊で、通常通り作戦を遂行した。米軍にはすべての権限を付与しているし、それが実行されただけだ」(Newsweek)と米軍の攻撃能力を誇示しているが、その優れた攻撃能力はいつどこでも示すことができるという北朝鮮に対する警告の意味を含んでいるはずだ。

 この警告に対して北朝鮮は2017年4月15日が金日成の生誕105年に当たるに際して国運隆盛のデモンストレーションとしてアメリカやその他の国が予想した核実験は決行しなかったものの、翌日の4月16日、ミサイルの発射実験を行った。

 ミサイルは発射直後に爆発している。

 このミサイル発射に対して4月16日同日、アメリカ高官が「核実験が行われたら、米国は別の行動を取っていた」(毎日新聞と、即軍事行動の意思表示を露わにしている。   

 だが、北朝鮮は4月16日に続いて4月29日、再びミサイルを発射させた。このミサイルも北朝鮮の領域を出ずに空中で爆発した。

 アメリカも韓国も日本も、各政府共にミサイル発射は失敗したと伝え、マスコミはそれに倣ったが、ミサイルの性能試験のために意図的に爆発させたのではなかいと一部マスコミは伝えている。

 但し4月16日に北朝鮮のミサイル発射に対してアメリカ高官が「核実験が行われたら、米国は別の行動を取っていた」と強く牽制していながら、何ら軍事行動を取らなかった。

 トランプはシリアやアフガニスタンを攻撃して米軍の軍事能力の高さを誇示し、尚且つ、「テーブルの上にはすべての選択肢がある」と北朝鮮に対して軍事攻撃の可能性もあり得ることを発信し、これらを以って北朝鮮に対する牽制とする一方で、2017年4月6日、7日のアメリカ南部フロリダ州での米中首脳会談で中国に北朝鮮に対して影響力を行使するように迫っていて、その影響力による北朝鮮のミサイル開発と核開発の断念を実現させる外交手段を継続させていた。

 トランプは2017年4月11日に自身のツイッターに「中国が北朝鮮問題を解決すれば、アメリカとより良い貿易取引ができるだろうと中国の習近平国家主席に(首脳会談で)説明した。中国が協力を決断するなら、それは素晴らしいことだ。そうでなければ、中国抜きで我々が問題を解決する」と投稿して、中国の影響力に期待する外交努力と並行させて期待通りにいかなかった場合の軍事攻撃の選択肢をテーブルに乗せたままでいる硬軟二面作戦を北朝鮮に対して示したままでいる。

 北朝鮮はトランプの4月11日のツイッター投稿「中国抜きで我々が問題を解決する」に反応したのか、同じ4月11日、米国が北朝鮮に対して軍事的先制攻撃の兆候があれば米国へ核攻撃すると警告を発した。

 (「時事ドットコム」記事から、「北朝鮮弾道ミサイルの推定射程」を載せておく。)  

 これは当然の反応であろう。アメリカと北朝鮮は通常兵器による軍事力の差は相撲取りと子ども程度の力の差があるはずである。これに核兵器を加えた場合、相撲取り10人に対する、あるいはそれ以上に対する子ども1人の程度に差が開いているかもしれない。

 この力の差は戦争継続の経済力についても言えるはずだ。

 かつての朝鮮戦争当時のように一進一退の攻防は期待できない可能性の方が高い。

 いわばアメリカと北朝鮮が実際に戦争となった場合、北朝鮮勝利の確率は極めて低い。

 当然、アメリカが通常兵器を使った対北朝鮮先制攻撃であろうと、核兵器を使った先制攻撃であろうと、ためらうことなく即核ミサイルを使った反撃に出るという警告の有効性のみが北朝鮮側からしたら金正恩独裁体制を守る、あるいは金親子三代の独裁体制を守る唯一無二の、それしか残されていない安全保障と言うことになる。

 そしてこの手の安全保障は北朝鮮が核兵器をミサイルに搭載して運搬する能力を保持していて、アメリカ本土に届く弾道ミサイルを開発しているというアメリカ側の受け止めにかかっている。

 その受け止めは実際に有事が生じた場合、北朝鮮に先制攻撃で大きな打撃を与えることができたとしても、核施設全てを一度に壊滅させることができる保証はなく、そのためにも北朝鮮は移動式ミサイル発射装置の開発に余念がなく、アメリカ本土の一部のみならず、韓国、日本、ハワイ、グアム島が核攻撃の標的とされ、多くの市民が犠牲となる想像力をアメリカ側に誘発させることになって、トランプは指導者としての責任を考えざるを得なくなる。

 このことまでを含めた北朝鮮の警告という手を使った、その有効性に頼った安全保障であるはずである。

 有効性を維持しているから、トランプは中国の影響力に期待する外交努力を続ける一方で、軍事攻撃の可能性を発信する硬軟二面作戦に出ざるを得ず、このことが北朝鮮への通常兵器を使った先制攻撃であろうと核兵器を使った先制攻撃であろうと困難にしている自明の理であろう。

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自民幹事長二階俊博のマスコミ批判をフィフィのように一理あると見るか、報道の自由抑圧体質の現れと見るか

2017-05-01 10:18:57 | Weblog
 
 東日本大震災の発生地域が「首都圏近くではなく、東北の方が良かった」と発言して実質的には安倍晋三に更迭された復興相の今村雅弘が所属する派閥グループ二階派のボス自民党幹事長の二階俊博が今村を擁護、マスコミを批判した。

 今村雅弘の辞表が受理された直後の4月26日の講演。文飾は当方。

 二階俊博「政治家が何か話したらマスコミが記録取って、一行悪い所があったらすぐ首を取れという。なんちゅうことですか。そんな人は排除して入れないようにしなきゃダメだ。(今村氏の発言は)人の頭をたたいて血を出したという話じゃない。言葉の誤解の場合は、いちいち首を取るまで張り切らなくても良いんじゃないか。

 ちょっと間違えたら明日やり玉に挙がって、次の日首だ。こんなアホな政治ありますか。何でもかんでもやり玉に挙げるやり方は、あまり利口ではない」(asahi.com

 マスコミは「一行悪い所があったらすぐ首を取れ」などという記事は書いていない。発言そのものを問題発言と見做して報道すると同時にその思いに基づいて被災地の各自治体の長などの関係者にこういった発言があったがと伝えて意見を聞くことはするが、その意見はマスコミ側の思いを常に受け入れるわけではない。

 意見は主体的な見解に基づかなけれならないからだ。

 例えば2017年4月25日付け「NHK NEWS WEB」記事は被災自治体の首長に今村発言についての意見を聞いている。二つ取り挙げてみる。

 村井宮城県知事「首都圏と東北を比較したらばく大な財源が必要になるというのは、そのとおりかもしれない。ただ、『東北だからよかった』というのは被災者の感情を逆なでするものであり、東北を軽んじている印象を与える。復興大臣という要職にあるので発言にはくれぐれも注意してほしい」

 村井知事は冷静に自身の見解を述べているに過ぎない。

 阿部秀保東松島市長「今、初めて聞いて驚いている。影響力の大きい方の発言なので、発言自体がどんな趣旨で発言したのかまずは確認したい」

 NHKの取材記者に今村発言を伝えられて意見を求められた経緯を窺うことができる。NHK側は問題発言の思いで意見を求めたはずだが、東松島市長はその思いを機械的に受け入れているわけではない。

 マスコミが問題発言と見做して報道するのは発言自体に閣僚の資質が現れていると見做すからだろう。そして野党がマスコミ報道に呼応して本人に閣僚辞任や安倍晋三に更迭を求めるのはマスコミ同様に閣僚としての資質を欠いた発言と見るからだろう。

 ところが二階俊博は今村発言に閣僚としての資質が現れているかどうかを見ずに、「人の頭をたたいて血を出したという話」ではない、「言葉の誤解」に過ぎないと判断した。

 要するに今村雅弘は傷害事件を起こしたわけではなく、ただ単に誤解に基づいた発言をしたに過ぎないと庇った。当然、「言葉の誤解の場合は、いちいち首を取るまで張り切らなくても良いんじゃないか」という判断となる。

 マスコミや野党と二階俊博とでは問題点の置き所が違った。どちらが置き方に正当性があると見るかどうかということになる。

 但し「ちょっと間違えたら明日やり玉に挙がって、次の日首だ」と決めたのはマスコミではなく、安倍晋三だと理解するだけの頭を二階俊博は持ち合わせていた。だから、「こんなアホな政治ありますか」と口にした。

 二階俊博はマスコミ批判にかぶせて安倍晋三が今村雅弘を実質的に更迭したことを批判するのではなく、「単なる誤解に基づいた発言に過ぎないのだから、辞表を出させるのはどういうことなのか」と、安倍晋三を直接批判すべきだったろう。

 但し二階俊博が優れた頭で判断したように今村発言が誤解に基づいた発言に過ぎないとしたことが事実そのものであったとしても、マスコミが閣僚としての資質を欠く問題発言と見て大々的に報道したことを以って「そんな人は排除して入れないようにしなきゃダメだ」の発言には記者排除の思想が否応もなしに現れていて、この思想は報道の自由に対する抑圧体質を抱えているからこその表出であろう。

 二階俊博は本質のところで報道の自由抑圧体質を抱えている。そして今村発言を閣僚としての資質の有無で判断していない二階俊博の発言となっている。

 マスコミはこの判断を今村が二階の派閥に属していることからの身内に甘い姿勢、身内庇いだと報道している。

 もし身内庇いから出たマスコミ批判であり、今村擁護だとすると、身内庇いで判断を鈍らせる国会議員が公党の幹事長職に就いていることも国会議員としての資質の有無に帰着して、大きな問題であろう。

 少なくとも二階俊博は今村の発言のどこに閣僚としての資質を欠いているのか、マスコミと意見を戦わして、欠いていないことをマスコミに認めさせることができたなら、その勝利を武器に安倍晋三に対して直接「こんなアホな政治ありますか」と言葉をぶっつけるべきだったろう。

 だが、そうせずに自身が抱えている報道の自由抑圧体質を露わにした。

「週刊女性PRIME」の記事を紹介している2017年4月30日付け「ライブドアニュース」記事がテレビで政治的発言をしている、確か「そこまでいって委員会」にも出演していたと思うが、エジプト出身のタレントのフィフィが二階俊博の4月26日の講演でのマスコミ批判を「一理ある」と擁護している。

 関係個所のみを抜粋する。

 フィフィ「今村氏の辞任の件は、そもそも今回の失言以前に、この人は復興相に向いていないんだなと思う言動が多々あったので、いずれにせよ辞めなきゃいけなかったんだとは思います。発言自体も、居酒屋でおじさんがノリで言うような発言に近かったですし、適切ではなかったと思う」――

 要するに「そもそも今回の失言以前に、この人は復興相に向いていないんだなと思う言動が多々あ」って、「いずれにせよ辞めなきゃいけなかった」と今村発言に現れている今村の復興相としての資質の欠如を問題にしている。

 フィフィは続けて次のように発言している。

 フィフィ「(今村発言)に対して発した二階氏の言葉は一理あるなと。発言のなかに1行でも悪いところがあると、首を取れと言わんばかりに報道するマスコミの姿勢を二階氏は批判していましたが、そこには深いものがあると感じたんです。

 本来、政治とマスコミは対峙するところにいなければならないわけですから、マスコミが政治家の足元を掬おうとするのは、ある程度仕方のないことではあります。だけど、それがあまりにも行き過ぎてしまうのは問題。テレビを見ていても、誰かが失言した、誰かが不倫した、ずっとそういう話ばかりでしょ。報道がそこに留まってしまっていて、本当にしなければいけない話にまでいっていないわけです。

 そして、こうした過度なマスコミの報道に世間が刺激され、謝罪ばかりを求める窮屈な風潮ができてしまうこと。これを私は危惧しているんです」――

 フィフィは今村発言に現れている今村の復興相としての資質の欠如を見ていながら、資質の欠如を問題にしないままに同じく資質を問題にしない二階の発言を「一理あるな」と肯定している。ここに矛盾はないだろうか。

 「誰かが失言した、誰かが不倫した」という記事だけを見ていいれば、「ずっとそういう話ばかりでしょ」ということになり、「報道がそこに留まってしまってい」ることになる。

 だが、天皇の退位についても、トランプの対北朝鮮発言も、北朝鮮の動向についても、その他その他、多くのことをマスコミは同時併行で報道している。

 当然、「本当にしなければいけない話にまでいっていない」という事態に陥っているわけではない。

 政治家だけではなく、芸能人に対する「誰かが失言した、誰かが不倫した」といった記事はテレビのワイドショーが好んで取り上げて集中攻撃的に報道するから、ワイドショーの報道にのみ目を奪われると、あるいはワイドショーを見ないまでも、そういったマスコミ報道にのみ好んで接すると、自ずと「ずっとそういう話ばかり」に見える弊害の落とし穴に嵌まることになる。

 フィフィのこの発言はそういった弊害に囚われた者の発言であろう。

 あるいは国会質疑で野党が「誰かが失言した、誰かが不倫した」といった問題を集中的に取り上げて、肝心の政府の政策を問う時間を割いていることを以って「本当にしなければいけない話にまでいっていない」と批判する向きがあるが、野党はあくまでも閣僚の資質を問題にしている。

 資質は深く人格に関係する。資質や人格を欠いた閣僚が内閣の一員として席を占めていることを許すかどうかにかかってくる。

 もし政治家としての能力さえあれば、資質を欠いていようと人格を欠いていようと問題ではないと見做すなら、自分はそのように見做していると言うべきだろう。

 フィフィがそう言っていたなら、今村発言の資質を問題にしていながら、「二階氏の言葉は一理ある」と擁護したとしても、矛盾は起きない。

 二階俊博にしてもそう言っていたなら、自身が抱えている報道の自由抑圧体質を迂闊に見せることはなかったろう。

 今村雅弘の閣僚としての資質を問題にするなら、二階俊博のマスコミ批判に一理あるとすることはできないし、二階俊博の報道の自由抑圧体質に危惧を感じないわけにはいかないことになる。

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