安倍晋三夫人安倍昭恵が瑞穂の國記念小學院の名誉校長に就いていたが、アッキード疑惑勃発によって辞任、だが、過去を含めて、小学校、その他の20の団体やイベントの名誉会長等の肩書を持っていたと、2017年3月9日付「asahi.com」記事が伝えている。
その中の一つとして「鈴蘭(すずらん)会」(福岡市)を紹介している。森友学園の幼稚園に教材を売った一般社団法人だという。
記事は次のように紹介している。
〈鈴蘭会の広報担当者によると、昭恵氏は2007年に会の前身団体を視察し、漢文などを音読する「素読(そどく)」を体験した。「何かお手伝いはできないか」と昭恵氏から申し出があり、09年に会を発足した時に名誉会長になった。教材の売買には関与していないという。
広報担当者によると、昭恵氏は「私の肩書を自由に使って」と話していたという。「昭恵氏は人気があり、色々なところで宣伝してくれる」〉――
教材の売買には関与していなくても、肩書を自由に使っていいと言うことなら、教材の売買に利用されるだろうし、販売拡大のアイテムとして利用されないわけはない。
「Wikipedia」は「一般社団法人」を次のように解説している。
〈一般社団法人
一般社団・財団法人法に基づいて一定の要件を満たしていれば設立できる法人で、事業目的に公益性がなくても構わない。原則として、株式会社等と同様に、全ての事業が課税対象となる。〉
但し、〈法人税法施行令3条に規定する要件を満たす一般社団法人を「非営利型一般社団法人」といい、収益事業のみ課税され、非営利事業については非課税となる。〉
鈴蘭会がどちらの一般社団法人か分からないが、ネットで調べてみると、漢文の素読会は有料で、一般人の場合の最高額は1万円となっている。支払は「事前決済」、前払いである。
森友学園の幼稚園に教材を売り、漢文素読会が有料と言うことなら、法人税法施行令3条に規定する要件を満たす一般社団法人だったとしても、営利の部分がかなり占める団体ということになる。
つまり安倍昭恵が首相夫人の「肩書を自由に使って」と言うことは、一見気さくなように見えて、実は営利に関しても肩書を利用させていることになる。
例え本人は私人であっても、首相夫人なる肩書は主として夫の首相という肩書の恩恵を受けているのだから、そのような公人の肩書を本人ではない夫人が営利に自由に利用させることは果たして相応しい行為と言えるだろうか。
また、「肩書を自由に使って」と言うことは安倍昭恵という存在を自由に使わせることを意味する。勿論、肉体と精神を備えた存在それ自体を使っていいということではなく、首相夫人という肩書を備えた一個の女性に対して人それぞれがイメージとして抱いている存在を、それは安倍昭恵の手から離れた存在であって、自由に使っていいということである。
多くの人は権威主義に災いされて、首相夫人と聞いただけで立派な女性と思うだろうが、それはあくまでも実体としての安倍昭恵から離れたイメージ上の存在でしかない。
例え本人は気づかなくても、それをも自分から自由に使うことを許していることになる。このことは私は私であるという自己同一性の欠如がもたらす気さくさであろう。
私は私であるという自己同一性を持ち合わせていたら、決して「肩書を自由に使って」などとは言わないはずだ。
更に言うと、「肩書を自由に使って」は例えどのように気さくに見えよううとも、自分を何様に置いていることことによって口にすることができる。首相夫人という肩書の価値を承知した上で、その価値を利用し、自身を売り込むという経緯を取る、その神経は首相夫人という肩書を持った自分自身に大きな価値を見い出していることになるからである。
もし首相夫人という肩書を取ったら、自分は一般人に過ぎないという意識を有していたなら、「肩書を自由に使って」とは言わないだろうし、とても言うことはできない。肩書と自分という人間を切り離して、一般人としての自己は自己という態度を取ることになるだろう。
あるいは首相夫人という肩書がなくても、一個の個人として優れて自律した人間であったなら、あるいは優れて自律した女性であったなら、夫から与えられた肩書など「自由に使って」などと言わずに自分という人間と一致させた肩書、あるいは自己を大切にするはずだ。
安倍昭恵の首相夫人という肩書を利用したこの何様意識は以前「ブログ」に書いたが、ある女性がインタビューのために首相公邸の安倍昭恵を訪ねて待ち構えている部屋に入ったところ、6~7人は囲めそうな楕円形のテーブルの奥の席で、多分、来客が座る位置から最も遠い正面の席なのだろう、そのように距離を置くことにも現れていることだが、立ち上がりもせずに座ったまま迎えた何様意識と根は同じである。
その女性は〈来客に慣れた様子で「謁見(えっけん)」の趣だった。〉(asahi.com)と書いていて、安倍昭恵の何様意識を嗅ぎ取っていた。
要するに何様意識にしても私は私であるという自己同一性の欠如の行き着く先としてある感覚であるはずである。一個の人間としての、あるいは一個の女性としての統一された自己を持たない。
一個の人間としての、あるいは一個の女性としての統一された自己を持たないからこそ、やたらと名誉会長だ何だと引き受けることになる。あるいは引き受けた名誉会長だ何だで自分と言う人間を何様に表現しようとする。