東日本大震災の発生地域が「首都圏近くではなく、東北の方が良かった」と発言して実質的には安倍晋三に更迭された復興相の今村雅弘が所属する派閥グループ二階派のボス自民党幹事長の二階俊博が今村を擁護、マスコミを批判した。
今村雅弘の辞表が受理された直後の4月26日の講演。文飾は当方。
二階俊博「政治家が何か話したらマスコミが記録取って、一行悪い所があったらすぐ首を取れという。なんちゅうことですか。そんな人は排除して入れないようにしなきゃダメだ。(今村氏の発言は)人の頭をたたいて血を出したという話じゃない。言葉の誤解の場合は、いちいち首を取るまで張り切らなくても良いんじゃないか。
ちょっと間違えたら明日やり玉に挙がって、次の日首だ。こんなアホな政治ありますか。何でもかんでもやり玉に挙げるやり方は、あまり利口ではない」(asahi.com)
マスコミは「一行悪い所があったらすぐ首を取れ」などという記事は書いていない。発言そのものを問題発言と見做して報道すると同時にその思いに基づいて被災地の各自治体の長などの関係者にこういった発言があったがと伝えて意見を聞くことはするが、その意見はマスコミ側の思いを常に受け入れるわけではない。
意見は主体的な見解に基づかなけれならないからだ。
例えば2017年4月25日付け「NHK NEWS WEB」記事は被災自治体の首長に今村発言についての意見を聞いている。二つ取り挙げてみる。
村井宮城県知事「首都圏と東北を比較したらばく大な財源が必要になるというのは、そのとおりかもしれない。ただ、『東北だからよかった』というのは被災者の感情を逆なでするものであり、東北を軽んじている印象を与える。復興大臣という要職にあるので発言にはくれぐれも注意してほしい」
村井知事は冷静に自身の見解を述べているに過ぎない。
阿部秀保東松島市長「今、初めて聞いて驚いている。影響力の大きい方の発言なので、発言自体がどんな趣旨で発言したのかまずは確認したい」
NHKの取材記者に今村発言を伝えられて意見を求められた経緯を窺うことができる。NHK側は問題発言の思いで意見を求めたはずだが、東松島市長はその思いを機械的に受け入れているわけではない。
マスコミが問題発言と見做して報道するのは発言自体に閣僚の資質が現れていると見做すからだろう。そして野党がマスコミ報道に呼応して本人に閣僚辞任や安倍晋三に更迭を求めるのはマスコミ同様に閣僚としての資質を欠いた発言と見るからだろう。
ところが二階俊博は今村発言に閣僚としての資質が現れているかどうかを見ずに、「人の頭をたたいて血を出したという話」ではない、「言葉の誤解」に過ぎないと判断した。
要するに今村雅弘は傷害事件を起こしたわけではなく、ただ単に誤解に基づいた発言をしたに過ぎないと庇った。当然、「言葉の誤解の場合は、いちいち首を取るまで張り切らなくても良いんじゃないか」という判断となる。
マスコミや野党と二階俊博とでは問題点の置き所が違った。どちらが置き方に正当性があると見るかどうかということになる。
但し「ちょっと間違えたら明日やり玉に挙がって、次の日首だ」と決めたのはマスコミではなく、安倍晋三だと理解するだけの頭を二階俊博は持ち合わせていた。だから、「こんなアホな政治ありますか」と口にした。
二階俊博はマスコミ批判にかぶせて安倍晋三が今村雅弘を実質的に更迭したことを批判するのではなく、「単なる誤解に基づいた発言に過ぎないのだから、辞表を出させるのはどういうことなのか」と、安倍晋三を直接批判すべきだったろう。
但し二階俊博が優れた頭で判断したように今村発言が誤解に基づいた発言に過ぎないとしたことが事実そのものであったとしても、マスコミが閣僚としての資質を欠く問題発言と見て大々的に報道したことを以って「そんな人は排除して入れないようにしなきゃダメだ」の発言には記者排除の思想が否応もなしに現れていて、この思想は報道の自由に対する抑圧体質を抱えているからこその表出であろう。
二階俊博は本質のところで報道の自由抑圧体質を抱えている。そして今村発言を閣僚としての資質の有無で判断していない二階俊博の発言となっている。
マスコミはこの判断を今村が二階の派閥に属していることからの身内に甘い姿勢、身内庇いだと報道している。
もし身内庇いから出たマスコミ批判であり、今村擁護だとすると、身内庇いで判断を鈍らせる国会議員が公党の幹事長職に就いていることも国会議員としての資質の有無に帰着して、大きな問題であろう。
少なくとも二階俊博は今村の発言のどこに閣僚としての資質を欠いているのか、マスコミと意見を戦わして、欠いていないことをマスコミに認めさせることができたなら、その勝利を武器に安倍晋三に対して直接「こんなアホな政治ありますか」と言葉をぶっつけるべきだったろう。
だが、そうせずに自身が抱えている報道の自由抑圧体質を露わにした。
「週刊女性PRIME」の記事を紹介している2017年4月30日付け「ライブドアニュース」記事がテレビで政治的発言をしている、確か「そこまでいって委員会」にも出演していたと思うが、エジプト出身のタレントのフィフィが二階俊博の4月26日の講演でのマスコミ批判を「一理ある」と擁護している。
関係個所のみを抜粋する。
フィフィ「今村氏の辞任の件は、そもそも今回の失言以前に、この人は復興相に向いていないんだなと思う言動が多々あったので、いずれにせよ辞めなきゃいけなかったんだとは思います。発言自体も、居酒屋でおじさんがノリで言うような発言に近かったですし、適切ではなかったと思う」――
要するに「そもそも今回の失言以前に、この人は復興相に向いていないんだなと思う言動が多々あ」って、「いずれにせよ辞めなきゃいけなかった」と今村発言に現れている今村の復興相としての資質の欠如を問題にしている。
フィフィは続けて次のように発言している。
フィフィ「(今村発言)に対して発した二階氏の言葉は一理あるなと。発言のなかに1行でも悪いところがあると、首を取れと言わんばかりに報道するマスコミの姿勢を二階氏は批判していましたが、そこには深いものがあると感じたんです。
本来、政治とマスコミは対峙するところにいなければならないわけですから、マスコミが政治家の足元を掬おうとするのは、ある程度仕方のないことではあります。だけど、それがあまりにも行き過ぎてしまうのは問題。テレビを見ていても、誰かが失言した、誰かが不倫した、ずっとそういう話ばかりでしょ。報道がそこに留まってしまっていて、本当にしなければいけない話にまでいっていないわけです。
そして、こうした過度なマスコミの報道に世間が刺激され、謝罪ばかりを求める窮屈な風潮ができてしまうこと。これを私は危惧しているんです」――
フィフィは今村発言に現れている今村の復興相としての資質の欠如を見ていながら、資質の欠如を問題にしないままに同じく資質を問題にしない二階の発言を「一理あるな」と肯定している。ここに矛盾はないだろうか。
「誰かが失言した、誰かが不倫した」という記事だけを見ていいれば、「ずっとそういう話ばかりでしょ」ということになり、「報道がそこに留まってしまってい」ることになる。
だが、天皇の退位についても、トランプの対北朝鮮発言も、北朝鮮の動向についても、その他その他、多くのことをマスコミは同時併行で報道している。
当然、「本当にしなければいけない話にまでいっていない」という事態に陥っているわけではない。
政治家だけではなく、芸能人に対する「誰かが失言した、誰かが不倫した」といった記事はテレビのワイドショーが好んで取り上げて集中攻撃的に報道するから、ワイドショーの報道にのみ目を奪われると、あるいはワイドショーを見ないまでも、そういったマスコミ報道にのみ好んで接すると、自ずと「ずっとそういう話ばかり」に見える弊害の落とし穴に嵌まることになる。
フィフィのこの発言はそういった弊害に囚われた者の発言であろう。
あるいは国会質疑で野党が「誰かが失言した、誰かが不倫した」といった問題を集中的に取り上げて、肝心の政府の政策を問う時間を割いていることを以って「本当にしなければいけない話にまでいっていない」と批判する向きがあるが、野党はあくまでも閣僚の資質を問題にしている。
資質は深く人格に関係する。資質や人格を欠いた閣僚が内閣の一員として席を占めていることを許すかどうかにかかってくる。
もし政治家としての能力さえあれば、資質を欠いていようと人格を欠いていようと問題ではないと見做すなら、自分はそのように見做していると言うべきだろう。
フィフィがそう言っていたなら、今村発言の資質を問題にしていながら、「二階氏の言葉は一理ある」と擁護したとしても、矛盾は起きない。
二階俊博にしてもそう言っていたなら、自身が抱えている報道の自由抑圧体質を迂闊に見せることはなかったろう。
今村雅弘の閣僚としての資質を問題にするなら、二階俊博のマスコミ批判に一理あるとすることはできないし、二階俊博の報道の自由抑圧体質に危惧を感じないわけにはいかないことになる。