安倍晋三が「朝日新聞は言論テロ」Facebook投稿に「いいね」と共鳴、内心の独裁性を曝す

2017-05-24 07:30:14 | 政治

 ――安倍晋三は朝日新聞をテロ等準備罪の監視対象にしたい衝動を疼かせているに違いない――

 安倍晋三が劇作家・今井一隆の朝日新聞は〈言論テロといっていいんじゃないか。およそ「報道」ではないし、狂ってる。〉の5月19日のFacebook投稿に「いいね」のボタンを押したと現在ネット上を騒がしている。

 要するに今井一隆の「朝日新聞は言論テロ」なる主張に共鳴した。他者の考えに共鳴する行為というのは自身が同じ考えを持っていて、自身と他者の考えが反応し合って、自身の考えがより確かさを増すか、少なくとも他者の考えに近い思いを持っていて、その思いが他者の考えに触発されて、より確かな考えの形を取るという経緯を形作る。

 2017年5月22日付「LITERA」《安倍首相が加計学園報道で「朝日新聞は言論テロ」に「いいね!」やっぱりこいつは共謀罪で言論を取締るつもりだ》が、安倍晋三が「いいね」ボタンに至った経緯を詳しく述べている。  

 マンガ家の須賀原洋行が加計学園の獣医学部新設に絡んだ「総理のご意向」文書問題で自民党議員であり、日本獣医師会顧問である北村直人(69)が「文書に書かれていることは事実だ」と認めた朝日新聞の記事を〈朝日新聞の姿勢は気味が悪いの一言に尽きる〉とTwitterで批判。この批判に劇作家の今井一隆が共鳴し、自身のFacebookに〈言論テロといっていいんじゃないか。およそ「報道」ではないし、狂ってる。〉と投稿した。

 そして安倍晋三が今井一隆のこのFacebookの共鳴文にさらに共鳴して、「いいね」ボタンを押して共鳴の意思を表した。共鳴したのだから、内心「確かにその通りだ、朝日新聞は言論テロだ」と思ったはずだ。

 安倍晋三のこの共鳴行為を記事は次のように批判している。〈許認可に絡む権力の不正をチェックするジャーナリズムの最も重要な報道を「テロ」扱いするのは、まさに反民主主義、北朝鮮並みの発想だが、これに安倍首相が「いいね!」と賛同したのである。〉

 LITERAのこの記事の題名後半は、《やっぱりこいつは共謀罪で言論を取締るつもりだ》となっている。その理由を次のように挙げている。
 
 〈自身を窮地に立たせる報道は「テロ」認定。──つまり、「テロ」か否かの判断は、こうして「自分の一存」で決められるということだ。〉

 要するに首相という立場にある者の“一存”が全体の考えとして強制されていく独裁のプロセスを取りかねない危険性とこのプロセスが気に入らない報道に対して適用されて、「テロ等準備罪」の対象犯罪とされる危険性を指摘している。

 そしてこの危険性の指摘は安倍晋三が内心に抱え、血や肉としている独裁性に対応している。抱えていなければ、「いいね」と共鳴することないし、上記危険性を指摘することもない。

 いわば安倍晋三が「朝日新聞は言論テロ」のFacebook投稿に「いいね」と共鳴ボタンを押した行為そのものが既に安倍晋三自身が独裁性を内心に抱え、血や肉としていることの証明であり、独裁性を露出させた記念すべき瞬間なのである。

 当然、朝日新聞をテロ等準備罪の監視対象にしたい動を疼かせているはずだ。

 安倍晋三は元々は国家主義者である。「国家主義者」とは、「国家をすべてに優先する至高の存在、あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(『大辞林』三省堂)の持ち主を言う。

 安倍晋三は2015年5月20日に当時民主党代表だった岡田克也と党首討論を行い、新3要件に基づいた新安保法制について議論を戦わせている。岡田代表が、「米国と戦っている相手国に対して新3要件が満たされている、その場合に日本の自衛隊が、その国の領土、領海、領空で武力行使をする、集団的自衛権を行使するということは、それはないんですね」と尋ねた。(文飾は当方)

 安倍晋三「我々が提出する法律についての説明は、全く正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(鼻先でフッと笑って言う。)

 「我々が提出する法律についての説明」をすべて正しいとしていることは、安倍政権が提出する法律自体を全て正しいとしていることになる。

 なぜなら、法律のどこがが間違っていたなら、その説明がいくら正しくても、正しいと言えなくなるからだ。法律も全面的に正しい、説明も全面的に正しいとした。

 法律は政治的・社会的・文化的主義主張が反映される。それらの主義主張の違いによって、その反映を受けた如何なる規範も相対主義を取るということに何一つ配慮していない。

 相対主義を取るために賛成多数という正義しか獲ち取ることができない。だが、安倍晋三は安倍内閣が提出する法律もその説明も絶対正義とし、その理由を自身の総理大臣という地位に置いた。

 ここに安倍晋三が内心に抱え、血や肉としている独裁性の露出を見ることができる。
 
 何度もブログに書いてきたが、2009年2月11日の明治神宮会館で開催の建国記念の日奉祝中央式典では皇室に関して次のようにスピーチしている。
  
 安倍晋三「よく『国柄、国柄』と、こういうことを議論することがあるんですが、私たちの国柄は何かと言えば、これはもう、古来からの長い長い歴史の中において、日本人の営みの積み重ねの中に自然に出来上がってきたものが、私は、『日本の国柄』ではないかなと思うところでございます。
  
 日本の歴史というのは、言ってみれば、いわば、つづら織りのようなものでありまして、タペストリーですね。

 この長い歴史をそれぞれの人々が個々の歴史を積み重ねる中で、全体のつづら織ができあがってきたわけでありますが、やはり、真ん中の中心線というのは、わたくしはそれはご皇室であろうと、このように思うわけであります。(大きな拍手)
  
 そしてそれはまさに、一本の線で、ずーーっと古来から今日までつながっている。 ここが諸外国とは大きく違う点であろうと、わたくしは思います。

 日本と外国との違い、たくさんあります。また、外国の王室との違いも私はある、と思います」――

 日本の歴史をタペストリーに譬え、その中心線に長き歴史に亘る皇室を置くこの発言と同様なことは安倍晋三著「美しい国へ」でも述べている。

 安倍晋三のこの手の発言から汲み取ることができる思想は日本の歴史の中心線は皇室であり、それが「古来から今日までつながってい」て、その繋がり・継続性を日本の「国柄」だとしていることは日本国の歴史の主人公を歴代天皇に置いて、皇室を日本の歴史の主宰者と見做す国家観であって、そうである以上、天皇を特別な存在とする国家観となる。

 この国家観は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、さらには「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とした大日本帝国憲法の天皇中心の国家観と合致し、現行憲法の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としている、天皇の上に主権者である国民を置いた国家観とは相容れない。

 安倍晋三の独裁制を担った戦前の天皇への親近性は自身が内心に独裁性を抱えていることの、その響き合いから生じている。安倍晋三が真正な民主主義者なら、響き合うことはない。

 劇作家がFacebookに投稿した「朝日新聞は言論テロ」なる投稿に「いいね」ボタンを押して共鳴を誘った内心の独裁性をこそ、最も警戒しなければならない危険性であって、そのような危険性を抱えている政治家が首相であることを相対主義によって許している勢力が一方にある。

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