新聞各社のWEBサイトを見ていて、思い浮かんだコトがある。
それが「ソーシャルデザイン」というコトだった。
実際、インターネットで検索をすると「ソーシャルデザイン」という言葉で、イロイロなモノが表示される。
ネットショップだったり、商工会議所の講演テーマだったり・・・様々な意味を持って「ソーシャルデザイン」という言葉が使われている。
ただ、私が考える「ソーシャルデザイン」というのは、ネットショップや商工会議所などの講演テーマではなく、企業における「ソーシャルデザイン」というコトなのだ。
アメリカ発の金融不安は、アッと言う間に世界を駆け巡り、世界同時的な株安を発生させた。
その原因は、今更言うまでもない「実態のない消費優先のアメリカ経済」だった。
言い換えるなら、「儲け優先主義経済」の破綻だ。
そして、それを象徴するかのような場面があった。
先日アメリカの「ビッグ3」の経営者が、経営支援を求めて公聴会へと出向いた時だ。
最初は、プライベートジェットで乗り付け、今回は「ハイブリッド車」を自分で運転してきたようだが、帰りとなると「運転手付リムジン」だったようだ。
経営のトップとなると、そのくらいの「贅沢」は当然なのかも知れない。
だが、末端で働く人たちは「明日から、仕事にこなくて良いよ!」的な「レイオフ」や、日本の場合は「派遣切り」と呼ばれる、実に働く側のことを考えないある種の理不尽な行為が、「企業存続のため」という理由で行われている。
「企業が存続するコトで、多くの従業員の生活が保証される」というコトもあるのだが、そこで考える必要があると思うのは、「企業はどんな社会を描きたいのか?」というビジョンなのだ。
「安易な人員整理をする企業=人を大切にしない企業」だということではないだろうか?
すなわち「(企業にとって)大切なお客様も大切にしない企業」だということを、自ら言っているようなモノだと思うのだ。
「人がいて、人が集まり社会を形成していく」というのは、小学生でも分ることだと思うのだが、「人を大切にしない企業=お客様を大切にしない企業=社会を大切に考えない企業」というコトにもなるはずなのだ。
とすれば、企業は「どんな人の集まる社会を創るのか?」という、デザイン力が必要なのではないだろうか?
企業にとって得となるような人ばかりが集まる社会では、社会そのものが発達も成熟もしない。
文化的なモノも共有できない。
やはりライバルとなる存在があったり、「NO!」という人がいることで、多様な価値観が生まれ、社会が発展・成長していくのだと思う。
そんなコトを考えもしないで、企業の都合ばかりを社会に押し付けてはいないだろうか?
もちろん、それは政治などでもあることなのだが、今の「モンスター○○」と呼ばれる「自分都合主義」的な我儘を、一種の主張であるかのような受け止め方をする社会というのは、やはり問題だと考えるし、その一端には「その場限りの企業の都合」がまかり通っているというコトも影響しているように感じるのだ。
時代と共に変化していくのが社会だが、社会が時代を創っているとも言える。
その時代を創り、社会を創る人たちに対して、企業がどんな「社会デザイン」を提案できるのか?
人が真中にいて、そして企業や政治がどんなデザインで包み込むのか?
そんな力が必要な時代になってきている、と感じているのだ。
それが「ソーシャルデザイン」というコトだった。
実際、インターネットで検索をすると「ソーシャルデザイン」という言葉で、イロイロなモノが表示される。
ネットショップだったり、商工会議所の講演テーマだったり・・・様々な意味を持って「ソーシャルデザイン」という言葉が使われている。
ただ、私が考える「ソーシャルデザイン」というのは、ネットショップや商工会議所などの講演テーマではなく、企業における「ソーシャルデザイン」というコトなのだ。
アメリカ発の金融不安は、アッと言う間に世界を駆け巡り、世界同時的な株安を発生させた。
その原因は、今更言うまでもない「実態のない消費優先のアメリカ経済」だった。
言い換えるなら、「儲け優先主義経済」の破綻だ。
そして、それを象徴するかのような場面があった。
先日アメリカの「ビッグ3」の経営者が、経営支援を求めて公聴会へと出向いた時だ。
最初は、プライベートジェットで乗り付け、今回は「ハイブリッド車」を自分で運転してきたようだが、帰りとなると「運転手付リムジン」だったようだ。
経営のトップとなると、そのくらいの「贅沢」は当然なのかも知れない。
だが、末端で働く人たちは「明日から、仕事にこなくて良いよ!」的な「レイオフ」や、日本の場合は「派遣切り」と呼ばれる、実に働く側のことを考えないある種の理不尽な行為が、「企業存続のため」という理由で行われている。
「企業が存続するコトで、多くの従業員の生活が保証される」というコトもあるのだが、そこで考える必要があると思うのは、「企業はどんな社会を描きたいのか?」というビジョンなのだ。
「安易な人員整理をする企業=人を大切にしない企業」だということではないだろうか?
すなわち「(企業にとって)大切なお客様も大切にしない企業」だということを、自ら言っているようなモノだと思うのだ。
「人がいて、人が集まり社会を形成していく」というのは、小学生でも分ることだと思うのだが、「人を大切にしない企業=お客様を大切にしない企業=社会を大切に考えない企業」というコトにもなるはずなのだ。
とすれば、企業は「どんな人の集まる社会を創るのか?」という、デザイン力が必要なのではないだろうか?
企業にとって得となるような人ばかりが集まる社会では、社会そのものが発達も成熟もしない。
文化的なモノも共有できない。
やはりライバルとなる存在があったり、「NO!」という人がいることで、多様な価値観が生まれ、社会が発展・成長していくのだと思う。
そんなコトを考えもしないで、企業の都合ばかりを社会に押し付けてはいないだろうか?
もちろん、それは政治などでもあることなのだが、今の「モンスター○○」と呼ばれる「自分都合主義」的な我儘を、一種の主張であるかのような受け止め方をする社会というのは、やはり問題だと考えるし、その一端には「その場限りの企業の都合」がまかり通っているというコトも影響しているように感じるのだ。
時代と共に変化していくのが社会だが、社会が時代を創っているとも言える。
その時代を創り、社会を創る人たちに対して、企業がどんな「社会デザイン」を提案できるのか?
人が真中にいて、そして企業や政治がどんなデザインで包み込むのか?
そんな力が必要な時代になってきている、と感じているのだ。