北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】菅大臣神社,洛陽天満宮二十五社菅原道真公邸宅跡は中心部京町屋に浮かぶ

2025-01-08 20:16:17 | 写真
■千百年前の菅原道真公邸宅跡
 菅原道真公邸宅跡地は北野天満宮のような洛端ではなく中心部のいい所に住んでいたというお話しです。

 菅大臣神社、洛陽天満宮二十五社と菅公聖蹟二十五拝の巡礼地に数えられる神社です。この社殿の由来は、かの菅原道真公邸宅跡地という。社殿は下京区仏光寺通新町西入ルという、いわばもっとも観光客で混雑しそうな京都観光と京都繁華街の中心部に位置します。

 四条通から東本願寺の方角へ散策して往きますと至るという立地で、洛中中心の閑静な京長屋の住宅地にふと気づく数多ある鳥居の一つが菅大臣神社という。京都の歴史と共に境内の様相は紆余曲折を経ているのですが、しかし歴史は創建未詳ながら千年に昇るという。

 北野天満宮、今出川通り沿いの壮大な神域が菅原道真公所縁社殿と云えば思い出されるものですが、あちらが嵐電沿線であるのに対しこちらは阪急沿線、四条通が近いという。そして詳細は内緒ですが、凄く喜ばれる当方手土産定番その一はこの近くで手に入れている。

 菅原道真公邸宅跡というのは、境内に産湯の井戸が現在も残されており、社伝によれば承和年間の845年8月1日に菅原道真公がこの地に生誕した事は確かという。ただ上京区にも菅原是善邸跡産湯の井戸がありまして、此処を巡るのが菅公聖蹟二十五拝だったりする。

 怨霊というか後ろめたい方々が不幸に遭った際に思い当たった事から天満宮として祀られました菅原道真公ですが、若いという者は勇敢で幼いとは恐れ知らずというもの、実はこの神域、何も知らない頃には単なる近道と通過したり、自転車のまま直に踏破したり、と。

 菅公聖蹟二十五拝として方々に分かれているのは正一位太政大臣となった菅原道真が左遷先で亡くなったのが延喜年間の903年、菅大臣神社は慰霊の意味もあって910年頃までに邸宅跡地へ創建されたと伝わるものの、それから1100年と少し、京都は色々ありました。

 入口石鳥居は幾つかあり、その神域は十字の如く不思議な立地という、いわば長屋と町屋に浮かぶ神社という印象です。故に鳥居を潜り、奥へ歩みを進めると共に、ここは参拝が許されている場所なのかとふと考える錯覚に陥るほどの、不思議な神域が奥へ続いている。

 正一位太政大臣道真公邸宅は、それは広く跡地全てを神域とするには難しく、鎌倉時代には既に菅大臣神社は南北に分かれていたといい、此処を天神御所と称し北社は紅梅殿社とした。やはり応仁の乱で焼かれ、江戸時代初期に曼殊院宮良恕法親王により再建される。

 東風吹かば-匂ひをこせよ-梅の花-主なしとて-春な忘れそ。これは道真公が大宰府左遷に際し、京都を離れる事を惜しみ、梅香に名残りを感じた有名な和歌ですが、北社の紅梅殿社とはこの愛称の由来の和歌であり、また、北野天満宮の梅園もこの和歌に因むともいう。

 三間社流造の拝殿、正面桁行の柱間が三間あり柱が四柱となっているこの構造は平安朝末期に神明造から導き出された流造の系譜に在る事が分ります。伝わるところでは天保年間の1835年造営下鴨神社社殿を式年遷宮の際に譲り受け移築されたといい、江戸後期のもの。

 幣殿が拝殿と共に広がる八棟造は明治時代の物。ここは阪急烏丸駅と地下鉄烏丸線四条駅から徒歩五分です。この二つは同じ駅というのはさておき、京都名所旧跡と云いますと千客万来百花繚乱全員混乱な印象がありますが北野天満宮とは打って変わって静かな境内だ。

 八棟造の社殿と共に、静かな京の名所を紹介したのですが、しかし二十年程前は夕方には子供の活況、灯篭に昇る悪さも含めあったもの、観光客増大と共に神社では子供たちが走り回る風景も思い返すのみ、躾の行き届きもあるのかもしれませんが何か神域と生活の場が離れてしまったようで寂しいですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】八坂神社紅葉,師走の紅葉巡りと間近となった鑽火式そして新年の白朮祭

2024-12-25 20:22:53 | 写真
■白朮祭
 寒さ本番というと事ですがそのとおりで年末年始が近づいてきました。

 白朮祭、これはやはり難読文字、となるのでしょうね、おけらさいという、八坂神社の神事で年始に行われます、いや正確には大みそかから行われ、白朮火授与所というところで火縄に火をつけてもらいまして、この火を持ち帰り竈にくべるという。

 鑽火式という、これは明々後日にもう行われる火鑽臼での点火とともに白朮祭に準備が整うというものですから、もう今年もいよいよ、考えてしまうもの。今年は年の瀬まで有難いことに多忙ではあるのですけれどもね。

 八坂神社の白朮火、これは正月だけのものではなく神社全体で見ていますと実は1年間本殿内でろうそくに灯されまして燈し続けられるという神事でもある。するとやはり年始の行事というものは大切にされている、ということの証左でもありまして。

 年始の神事はこの火をくべた竈でその年最初の煮炊きをすると無病息災のご利益があるという。年始の煮炊きは御雑煮とか、また神棚のろうそくに火をともして、その火を使ってもいい、と言われてもいるのですが、市バスには火はもちこめなかったはず。

 をけら参り、とも呼ばれるもので、前に撮影に行きましたところ、結構な人口密度に化繊の上着を着て行ったり革の上着を着て行ってしまったので、ちょっと裸火は怖いなあ、と思いつつ、これも正月の行事なのだと感慨深く見守ったもの。

 紅葉の季節が遅かった、しかしもう雪の季節となっている、不思議なものです。年末年始、というものも間近ですし、本日はもうクリスマス、クリスマスのイルミネーションと紅葉撮影が重なるのも、これは昔は無かったという印象で思い出す。

 十二月になっても青椛、気温だけは冬になっていますが、実感するのは紅葉が遅れても暦はそのままですので火の沈むのが本当に早く感じるということ。椛を撮影できる時間も減ってしまう、という事になるのですね。

 異常気象の常態化、といいますか、既に京都には古都の庭園の苔が、この数年で真夏の高温に一機に曝され、一部寺院では人工霧装置をつかって夜間に苔を保護しているようですが、あんまり水をまきすぎると今度は伽藍のほうに黴が及ばないか心配だ。

 季節感といいますか、紅葉と年末年始のあいだにはちょっと時間がある、という感覚で一年の計画を立ててきましたので、こういう風に紅葉が遅くなってしまうと、師走の多忙感が極まりまして、この辺りは年賀状のさくせいなんかにも悪影響を及ぼして。

 ただ、夏の酷暑を思い出すと、一応紅葉の季節が来たとともに、木々も枯死せず、いちぶはもうこれだめらしいなあ、という枯死した様子をみてしまうのですが、それでも、遅れてはいるけれども紅葉を観れて、年末年始を準備に入ることができる、と。

 雪の気配もしますので、今年も一応、いや今年というよりもこの冬、というべきでしょうね、雪景色などを見ることも叶いそうですし、いちおう季節は廻っているのだと思う、それでも異常気象というものなのだけれども。

 八坂神社の紅葉を見るとともに、来年の紅葉というか徽章はどうなるのだろうと考えつつ、今年もいよいよ、白朮祭というものの季節を感じることができるようになってきたわけですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】八坂神社紅葉,祇園界隈と東山界隈を巡る基点の神社を彩る紅葉の木々

2024-12-25 20:00:44 | 写真
■紅葉を巡り
 メリークリスマスです。

 八坂神社、紅葉を巡りました。全国的にこの神社を有名にしているのは、恐らくNHKなどで夏の風物詩のように全国ニュースの終わりのほうで紹介してくれる祇園祭、ではないかとおもうのですが、あの祇園祭がここ八坂神社のお祭りでもあるのです。

 楼門をくぐりますと、石段が曲がりくねって続いていまして、この辺りは東山と言われる通りの高低差を感じるのですが、その先に本殿があり拝殿なども、巨大な本殿が狭い場所に広がっている。参拝の列は拝殿まで伸びるが、隣から賽銭を投じても、いい。

 祇園社、祇園感神院、明治以前はこう呼ばれていまして、この名前ですと八坂まつりではなく祇園祭、と呼ばれます所以を親しみもてるのではないかとおもいます、ここは東山区祇園町北側という四条通の東端に鎮座していまして、祇園の繁華街からも楼門が。

 深夜にも煌々と照らされる楼門は、ちょっとほろ酔いの際にも遠景に目立つものでして、そして深夜にも参拝できる神社という事ですから、酔客でもなにかご利益を、と参拝する姿を、私はかなり前から興味深く見ていたのですけれども。

 併せて祇園界隈には、ちょっと敷居が高いとおもわれるかもしれませんが、それは一部の一角だけでして、少しも勇気でかなり美味しいものを手軽に頂けるという事もありますので、この界隈も散策の経路から、少し歩けば高台寺に清水寺に知恩院、かずおおい。

 紅葉の季節、東山界隈は混雑するところではあるのですが、祇園祭の神幸祭や年末年始と比べれば混雑など微々たるものでして、ちょっとした時間に早めの初詣、というわけではないのだけれども、参拝にかこつけて周りを散策するのは、たのしいもの。

 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神、この三柱をまつる神社となっていまして、ただそのはじまりはつまり、祇園祭のはじまりは貞観11年こと西暦869年、神泉苑で行われた御霊会を原点としていまして。それが今日まで大切に継承されているということ。

 貞観時代というのは富士貞観噴火や貞観地震など、歴史上の大災害が凝集している時代です。平安時代、毎年のように疫病が洛中に黒い影を落とすようになっていました時代ですので、これを祓う神事として祇園祭が始まった歴史があるのですが。

 四条通から参拝に向かう際には、目の前の交差点の奥に石階段がありまして、此処の楼門は南楼門というこの神社一番の楼門よりは大きさは小さいのですけれども、目の前の道路とともに、自動車と神社、なにか古都らしい風情を醸し出すようで私は好きです。

 興福寺とつづいて延暦寺の影響を受けるなど、実は神社としてよりも寺院として認識されていたようで、のちに延久2年こと西暦1070年、朝廷から鴨川の西岸地域を境内として認められ、不入権、というものを承認されるなど異質な地位にありまして。

 神仏習合という歴史的背景はあったのですが、天台宗の延暦寺の末寺という位置づけになり、長くを時代と共に歩みました。ただ、神社としては足利義満の時代に祇園社を比叡山延暦寺から分離させるなどの措置を取ったことで漸く神社として認識されるように。

 紅葉の名所か、といわれますと、東山散策のさいの基点に、という印象があるのですけれども、同時に祇園や先斗町からいちばんちかい大きな神社という立地を見ていますと、ちょっとご飯を食べて、若しくは阪急や京阪で移動した際にちょっと寄れる神社だ。

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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依と嵯峨天皇の空海への下賜

2024-12-22 20:00:12 | 写真
■京都散策
 当時の話題をそろそろ紅葉の季節よりも年末の季節を迎えます故に本日も紹介しましょう。

 東寺は嵯峨天皇から空海に下賜されたことで密教寺院となった。真言宗の根本道場という位置づけであり、この位置づけが明治維新まで連綿と受け継がれたことで、現代においても多くの国宝を、そして重要文化財などをたたえている、という。

 教王護国寺、東寺とともにこの寺院の正式名称の一つは、仏教を布教する事により国家を、という、それは科学が未発達であり人心さえ不安定な時代において、国家の一体性を保つための一つの方法論として、布教というものを位置付けていた寺院です。

 真言宗、布教の過程というものを私は専門研究者ではない故によくわからないのですが、御大師様、という信仰は平安朝の頃ではなく鎌倉時代から大きく広まったということでして、このころから拝観者も増えてゆき、皇族から庶民まで、という規模で。

 後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依、というものが東寺を大きく高めたとされていますが、平安朝の初期に密教が日本に伝来し、嵯峨天皇の時代にこの東寺が下賜されたと歴史にはあるわけですから、東寺がこう、大きく飛躍するのに時間があったという。

 歴史、知ったようでこれも専門研究をしている訳では無いものですからわかりにくいのは、密教がどのように広まっていったのかを時系列的に地域というものをわからないのですが、これが広まるとともに拝観者が増えたのだろうか、と考えたりするのです。

 伊勢神宮のような、一つの参拝への長躯という巡礼がおこなわれていたのかということもちょっとわからないものですから、日本という社会における東寺と真言宗の位置づけがどう広まったのかも、これは一つ興味あるところです。

 京都を中心に物事を見ていますと、十二月十四日は?と人に問われましたならば、戦艦榛名の進水式記念日、と答えて、いやそこは忠臣蔵、と反論され、わらわれてしまうこともあるのですが、この寺院の信仰の広まりも京都中心にどうしても考えてしまって。

 歴史を感慨深く散策するという事は、独りよがりになってしまう、それは自分の解釈の幅が大きいためなのですが、その歴史をもう少し深く調べてみたいなあ、とは思うところ、もっともこれを突き詰めるにはもう少し、時間に余裕のある年代をまつほかない。

 龍谷大学にでも聴講生で行ってみたい、とかくと百寺巡礼の著者のようになってしまいますが、まあ、そこまでわたしは作家ではないものですから、こうした興味を満たすのは、もう少し書籍と研究をあさってゆくしかないのだろうなあ、とも。

 東寺一長者という東寺の筆頭は真言宗の中心という位置づけであるとともに、法務という、法律ではなく宗教的な法務という意味なのですけれども、この地位が律令制における仏教界の首座として位置づけられていた訳です、これも明治維新まで続いたという。

 紅葉の季節の当時を巡りますと、こうした乗艦のようなものが湧き出してきますとともに、やはりここも思ったほど混雑していないのだな、という率直な感想が湧き出てくるものでしてちょっと不思議に思います。実際、今年紅葉で混雑を感じていない。

 紅葉の季節、思えば十二月に入っても紅葉が続いている訳ですので、常識的な観光ツアーではもう紅葉の拝観というものの計画を立てていない時期になっているのか、と考えつつ、やはり京都は観光よりも散策する街として考えるべきだ、と実感しました。

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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,開かれた寺院に薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像

2024-12-19 20:18:00 | 写真
■ひらかれた寺院
 本日も東寺の紅葉を。

 東寺の拝観、興味深いのは当時の有料公開されている区画は五重塔と一部であり、ご本尊は遠くから自由に拝観する事ができまして、毎回のように拝観料を収めずとも、仏教を身近に感じることについては、ひらかれた寺院だ、という事が出来るもので。

 薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像が安置されています金堂は、拝観料なしに、少し離れたところからではありますが拝観出来て。いや、おちついて京都の寺院を考えますと、ご本尊は自由に拝観できるところの方が実に多い。

 寺院と布教、という視座をかんじられるのはこうした風情から感じ入ることができるのですが。ただもう一つ、仏教というものはイスラームやキリスト教のような一つの聖典に収まらない一つの哲学のような体系を構成していますのですから。

 寺院を幾度も通う、もちろん協議の複雑さから浄土宗のように、阿弥陀念仏に特化するという選択肢もありはするようですが、このあたりは変容とともに親交のあり方と信仰する対象というものにより移ろうという信仰のありかたなのか。

 京都は変化の街である、最先端建築物が平安朝の頃から鎌倉の様子は残念ながら応仁の乱で当時の建物が多く破壊され現存するものは例外的な僅かではあるのだけれども、室町時代と安土桃山時代、いや江戸時代に在っても変化をつづけていまして。

 現代の京都を古都の趣が無い、と言われる事は確かにあるのですが、すると京都、として思い浮かべる、そういった方々の京都、という定義はどういうものなのだろうなあ、と考えてしまうのです。しかしそうした変化のある京都に在って、当時は不思議で。

 伽藍の配置が、東寺だけは真言宗の寺院ということで、もちろん荒廃する時機は何度もあり、一つ歴史が違っていれば、京都が核攻撃を受けたかもしれないという危機もありましたから必然の今日、という訳では無いが、伽藍の配置が換わらないといい。

 東寺の立体曼荼羅というものは、実のところ極楽浄土を分かりやすく再現して拝観者に示すためのものという、このあたり、東寺の拝観というものは、その目的という視座から、早い時代から拝観者に門戸を開いていたことを示すのですけれども。

 大日如来、空海の時代から恵果和尚との出会いを経ての創建当初の配置を、建物は世代交代する事があったといいましても、当時の、空海が密教を伝えた世界観を伽藍の配置として維持しているという点が、これは考えてみると感慨深い訳でして。

 立体曼荼羅があるならば、それを包む風景についても軽傷されているのだろうか。創建当時、しかし不思議と調べても出てこないものなのですが、東寺の寺域を構成する木々の情景というものは、東寺のままなのだろうか、という素朴な疑問を持ちまして。

 極楽浄土の具現化、というものを立体曼荼羅から構成されているならば、情景というものも再現されているのではないか、と考えてしまうのですね。もっとも、木々の配置に関する記録が当時に残っているかも含めて、不明なのですけれども。

 紅葉とともに春は桜花、東寺という寺院にはこうした、今では溢れているものだけれども極楽浄土、というものを再現している、そうした意趣がいまも湛えられている訳ですから、いつのじだいもここには拝観者が絶えないのだろうなあ、と思ったりするのです。

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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,東寺から羅生門は黒澤明監督の映画と宮川一夫カメラマンの技法

2024-12-18 20:24:41 | 写真
■紅葉を撮影する
 拝観と散策の際のふと思った事をつらつらと。

 東寺の紅葉、東寺といえば桜、という印象が、特に不二桜が東寺を代表する情景となっているものですから感じ入るものなのだけれども、こう、巡ってみますと紅葉の情景が素晴らしい。そして今年はやはり紅葉も遅めなのだという印象が更に深く。

 紅葉を撮影する際に、わたしが疑問に感じるのは、椛を最拡大してで、構図を決めている方が多く、ああ云った写真を撮影する方には、東寺の椛、という葉の形状から直ぐに見分けられるものなのかなあ、と思ったりするのですけれども。

 東福寺の三つ葉楓、ではないのですが、わたしの場合は、確かに植物学的に葉をみただけでどこなのかわかるような鑑識眼がほしいところなのですが、ちょっとそうした才能はなさそうですので、紅葉と伽藍、さくらと伽藍、伽藍を第一に考えます。

 伽藍と紅葉、という構図は、実は簡単そうで難しい、こういうのも、紅葉は一年に一定期間、鮮やかに彩るだけなのですが、木々に、ある一定の角度で素晴らしい情景を醸すというのは実は一日の中で一瞬ということもありますので、その瞬間を収めたい。

 順光と逆光、不思議なもので青椛と紅葉と、写真の中では逆光は、まあ大空を白く染めてしまいますし建物も影のように黒く塗りつぶしてしまうものではあるのですが、桜花や紅葉、青葉というものは逆に際立てているように感じられるのですよね。

 羅生門、黒澤明監督の映画作品にて宮川一夫カメラマンの、あえて近畿とされた逆光を情景の撮影にうまく描きこむ手法で、世界の絶賛を浴びたことがありまして、あの時代はモノクロなわけですから物凄い発見と挑戦だった訳ですが、それをまねて。

 東寺から羅生門といいますと、映画作品は兎も角としてなにかこの距離的な親近感がわいてしまうのですけれども。紅葉を逆光で撮影しますと、当たり前ですが椛は太陽光を透かして色彩を強調しますので、不思議と情景を際立たせる構図となります。

 宮川一夫カメラマンの技法、と表現しますと妙に格好よくなってしまうのですが、この逆光を紅葉に活かすもう一つの理由は、レンズに直射日光が当たるのを椛が防いでくれますので、被写体として考える伽藍というものも思いの外逆光の影響を受けない。

 写真撮影、寺社仏閣の拝観と一つのつきものとして考えている東宝は、よく見せる写真というものはある程度布教の一助となってこうしたWebなどで広まってくれる、ここまで考えて拝観者に撮影を許してくれているのではないか、という事でして。

 清水寺のような観光寺を例に挙げますと、観光寺と呼ばれてもいい、その分ひとりでも観音信仰に近づいてもらって興味を持ってもらえれば、というかんがえ方を清水寺の北法相宗の高僧の方がはなした、という話題を知りまして、なるほどなあとおもった。

 紅葉は、伽藍と共に撮影しなければ、此処に来た意味がありませんが、しかし、実のところ、此処は素晴らしい情景だ、という木々の配列との出会いを経験しましても、翌年には気が育ってしまったり、逆に枝が切られたりして口径が無くなる別れが稀に。

 カメラと共に拝観する、それは一つの一期一会の風景に向き合う事でもあり、また伽藍と共に醸す歴史を写真という事で残してゆくという意味合いもありますので、歩むとともに真剣に情景と向き合う散歩も、中々奥ゆかしくて、愉しいものなのです。

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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,五重塔包む絶景の紅葉!平安遷都以来の寺院を彩る天然色の椛紅葉

2024-12-18 20:00:47 | 写真
■東寺-紅葉
 このお寺はは桜が美しいのですがこのように紅葉も美しいという話題です。

 東寺、南区九条町の、というよりも京都駅新幹線ホームからも見える京都を代表する建物の一つが当時の五重塔なのかなあ、と思う印象的な情景を醸していまして、しかし京都の平安遷都の頃から今に至るも同じ場所に立地する寺院となっています。

 延暦15年こと西暦796年に桓武天皇がこの平安遷都に際して造営した寺院であり、そもそも南都六宗からの独自性を政治に反映するべく、ということは平安遷都の目的のひとつでしたから、今寺社仏閣に溢れる京都に最初二つのみ認められた官寺のひとつ。

 京都散歩、東寺のあたりは一つ突き抜けて東寺が存在感を護すものの、勿論探せば幾つも歴史湛える寺社仏閣はあるものの、大きな伽藍はこの一帯で一つ突き抜けて拝観者を迎える風情を醸しています。その当時も、実は紅葉の名所となっていまして。

 西寺と東寺、平安遷都に際して、左右対称に造営された平安京の玄関口にあたるこの一角に東寺が、その西に西寺が造営されました。ただ、西寺はいま西寺あとという石碑が講演に佇むのみとなっていまして、再建する試みさえありません。

 鎮護国家の密教寺院、西寺が再建される事がない背景には、結局京都という町は自由な街並みを目指していたもので、平安遷都の当時に構想された画一的は左右対称の都市計画は都市部の膨張とともに自由という概念に置き換えられ今に至る為なのですが。

 五重塔、やはりこの寺院を象徴する建物は、京都最古の高層建築物という五重塔を望見した際の事でしょうか。これも幾度もの建て替えと修復を重ねているのですが、それは同時にこの情景風景が京都のなじみ深い風景として定着しているにほかなりません。

 徳川家光の寄進により寛永21年こと西暦1644年に再建された五重塔、実はこの京都散歩に際しまして、敢えて東寺を散策しましたのは、この紅葉のきかんに京都文化財特別公開としまして、五重塔内部を拝観できる、というものがこの日の散策の趣き。

 両界曼荼羅や真言八祖像を描いた東寺、といいますのも過日、高雄の神護寺を拝観しました際に、もちろん神護寺も多くの歴史を湛えていて、源頼朝さえかかわりある寺院なのだけれども、印象深く感じたのは映画の空海に描かれたような弘法大師空海で。

 空海の寺院、この東寺が永らえたのは、もちろん平安遷都以来の官寺という荘厳美麗な歴史が彩ることは確かなのだけれども、もうひとつの官寺である西寺が廃れていったことと整合性がありません、それは東寺には新しい役割があったゆえ。

 治水、という面から、西寺が廃れた背景というものはもう一つあり、そう、東寺と西寺という視点に立って京都を見ますと、堀川通などいまの京都の中心線からずれていることが東寺の平安遷都における都市計画から見出すことができるでしょう。

 長岡京からの平安遷都は治水計画の失敗で行政機構を含め定期的に浸水被害を受けていたために廃都せざるをえなかったという事情があるのですけれど、西寺も同じように浸水被害が続いたことで、幾度か復旧するものの長期的には蜂起された歴史が。

 紅葉の東寺、さて、南都六宗から距離を置いた日本ですが、仏教は変化する宗教であり、空海により大陸からつたえられた密教の寺院ということで、当時は新しい役割を担う事となりまして、いま、紅葉に包まれている情景をお伝えする事が出来るのですね。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,映画"空海"の舞台は橘逸勢と空海の所縁に二次創作の分水嶺を考える

2024-12-12 20:15:29 | 写真
■橘逸勢と空海
 文章を書くという事は実に何かを吐きだしているようで愉快であると発言したのは明治の文豪夏目漱石でしたか。

 私事ながらPIXIVに小説を投稿し始めていまして、これはとある友人、この方にもらったものは飾り棚に大切に並べていますが、とある同人小説の二次創作で、自分の推しているキャラクターが大変な被害に見舞われたので助けてやってほしい、と頼まれて。

 PIXIVはイラストをみるためにアカウントだけは持っていたのですが、なるほど、右上をタップすると小説が投稿できるという。第二北大路機関の執筆時間を転用して、書いているのですが、二次創作、これにはある程度超えてはならないものがあるとおもう。

 神護寺の歴史は出会いの歴史であることは既述の通りです。それは絵巻物にも描かれ、いや空海と神護寺は映画“空海”にも描かれている。空海は北大路欣也さんが演じられていましたが、あの映画でひと際印象深かったのは頼りない役人の橘逸勢という。

 空海、いい映画だ、人に薦めたい邦画をニ十本選ぶならば、まあ、日本のいちばん長い日、激動の昭和史-沖縄決戦、潜水艦イ57降伏せず、連合艦隊、太平洋の嵐、新平家物語、風雲児-織田信長、宮本武蔵-般若坂の決斗、と並べて映画空海はお勧めしたい。

 橘逸勢は映画空海の登場人物で、石橋蓮司さんが演じられていた、劇中では、このまま日本に居ても出世できない事から遣唐使に加わることを願い出て、しかし下級役人という事で後ろの方の船団、空海と乗り合わせるも難破し、それでもなんとか空海と入唐を。

 外国語というのは奥が深い、中には苦手という人も多い、どちらかというとわたしもそちら側なのですが、石橋蓮司さん演じた橘逸勢もこちらがわの人でして、中国語ができないのに白をつけるべく遣唐使に加わったが、唐の学校で語学の壁を思い知らされる。

 唐は、歴史を見ますと政治学も宗教学も土木工学も天文学も、日本が当時必要としていた学問全ては全部中国語が必要であるため、どうにか彼を素晴らしい学問とめぐり合わせる方法を苦労して配慮、これこそ苦慮か、したのちに、琴と書道を学ばせる。

 音楽と書道ならば、たしかに語学は政治学と土木工学よりは障壁が低い。けれども、当時の遣唐使は修学20年のところを、空海が2年で恵果和尚から灌頂を授かったことを受け帰国するさいに、一緒に日本へ戻ってきてしまうのだ、なんだか親近感がわくはなし。

 空海も20年の修学を2年で大学生が国一に通った為に中退する感じで帰国してしまい、これは摩擦を生むのですが、その過程で同じく橘逸勢も同じ立場であることから知己を深め、映画の中では結局、空海の入寂、その瞬間まで付き添う、僧侶以外の友人となる。

 橘逸勢、しかししかし、映画を見た後で調べてみますと、日本音楽の元祖というべき第一人者となっていますし、書道においても嵯峨天皇と空海とならぶ三偉人となっていたのに驚き、なるほどあれが映画の脚色というものか、と監督の配慮を感じ入りました。

 佐藤純彌監督作品である空海、なるほど、ゴルゴ13や新幹線大爆破、野生の証明に敦煌、超大作を幾つも後世にのこし2019年に旅立たれた監督さんだ。この方、映画ですので史実に脚色をするのですが、超えてはいけない一線は明確にしているとおもった。

 PIXIVの二次創作、いや二次創作で被害に遭った艦娘たちを軌道修正して大団円に持ち込むだけの三次創作は、超えてはいけない一線を軌道修正する初の試みなのですが、歴史というものを知ることが二次創作の逸脱への良心となるのかな、とこの神護寺で思ったのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,金堂に薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像

2024-12-12 07:01:20 | 写真
■中世の三権分立
 歴史学者ではないのだけれども自分の巡った場所を手に入る範囲内の資料と共に仮説を立てて巡るのはよい心の体操となる。

 神護寺を巨大な伽藍と荘厳美麗な仏教美術を期待して山門をたずねると肩透かしを食うかもしれません、けれども、実のところ例えば伽藍を誇り伽藍面といわれた東福寺や、京都駅前に燦然と威容を誇る東本願寺と西本願寺には政治的なものがありました。

 金堂にいたる石階段を慎重に、実はそのとなりに傾斜の緩やかな経路も整備されているのですけれども、やはりここは石階段を踏みしめながら万感の思いと共に金堂が少し少しと見えてゆく様子を、拝観の道程として感じ入るのがいいかもしれない、ゆっくりと。

 毘沙門堂と五大堂が、金堂の石階段を上り終えますと見えてきまして。そう、ここは壮大伽藍こそないものの、それ以上に大きな哲学があるのだ、という感慨と共に眺めますとちがったものが思えて、いや湧きあがってくるのかもしれません、歴史的な、なにか。

 三権分立、というと今のものとは少し異なりますが、近世の江戸時代などには朝廷権力と幕府権力、いちおう制度的には朝廷が優越しているものの実力のついては、これは中世の建武の新政をみれば分かる通り、実務政治では朝廷に統治機構はむずかしかった。

 伽藍が威容を誇る京都の寺院は、幕府の統治機構において朝廷との関係を対立に至らせずしかし抑制的なものを求めるために寺院の権威、権力ではない、権威に依存したためであり且つ寺院には統治機構への参画を極めて制限することで一種の同調と緊張を。

 三権分立のような機能を持たせるには権威が必要であり、寄進と寺領をみとめることにより、それはかつての一向一揆のような実力という安易な権威を意識したものではなく、ああいうならば現代政治学でいうところの、正当性と正統性、をもたせたかたち。

 神護寺は、見方を変えるならばそうした俗世間から距離を置いた、空海の寺院として成り立っていたわけですね。いや、だからこそ静けさ、静謐さ、単純なきゅ横紋に自らの判断を投げ出すことの無い、聖典なき伝法という仏教の神髄を身近に感じられるようで。

 本尊薬師如来立像が安置されていますのは金堂の奥、この金堂は実は昭和10年、1935年に再建されたものです。今考えると世界恐慌とともに混乱の日本社会、いや1935年といえば既に大陸で始まっている時代に、こうしたものを造営できたのは、と思ったり。

 薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像、国宝と重文が拝観者を迎えてくれます。深紅の紅葉とともに見上げる金堂は大きくとばりが開かれていて、もちろん間接的にではないけれども信仰の寄る辺が確かに感じられて。

 五大堂は元和9年こと西暦1623年に建立、毘沙門堂も元和9年こと西暦1623年に造営されている。実は弘法大師空海は、この神護寺において最澄との遣唐使以来の再会、というよりも最澄は勅命を受けての遣唐使ですので、随分と格上なのですけれども。

 最澄との再会を神護寺において果たすとともに天台宗と真言宗は別々の宗派であることを灌頂というひとつの点を巡り理解するところとなり延暦寺へと戻ります。しかしそのあと、空海もまた高野山へと新しい聖地を定め神護寺を去ったことで歴史が動きました。

 文覚、このひとは武家出身の僧なのですが、空海が去ったことで歴史舞台の正面を降りることとなった神護寺を、平安朝末期から鎌倉時代まで、後白河法皇への直訴を繰り返し、神護寺の再興を果たします。こうした歴史の流れや浪を経て、寺院は今に至る。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,空海と神護寺は最長と延暦寺-その出会いが生んだ寛容性という哲学と価値観

2024-12-11 20:24:19 | 写真
■最澄と空海
 寺院を拝観すると共に歴史をその都度すこしだけでも振り返り且つ調べる事は人生を豊かにしてくれます。

 空海と神護寺、和気清麻呂まで歴史を遡りますと、宇佐八幡宮神託事件を解決した後、じつはいろいろありまして和気清麻呂は配流されてしまうのですが、道鏡を重用していた称徳天皇が崩御しますと、和気清麻呂は流罪を解かれまして都へと戻ります。

 長岡京、この宇佐八幡宮神託事件は、和気清麻呂を祀る護王神社がいまの御所の隣にありますので、平安京遷都以後とおもわれるかもしれませんけれども、長岡京時代の出来事です。帰京叶った和気清麻呂は自分の氏寺造営を願い出、天皇の許しを得ました。

 長岡京か、こう歴史をいまの神護寺と結びつけますと、清滝川の谷間に和気清麻呂が寺院を造営したのは、水害に悩まされていた長岡京、実際平安遷都は毎年のように大堰川の水害に悩まされ、官庁が流失していたほどの深刻な水害がつづいていたのですが。

 清滝川に寺院を造営した和気清麻呂は、ここは僻地でも何でもない、要するに自らの氏寺をもって長岡京を水害から何とか守ることはできないか、とかんがえての造営だったのだなあ、といまの位置関係を当時の古地図に照らし合わせて、こう思うのですね。

 高雄山寺、和気清麻呂の時代は神話の時代、とまでは行かずとも歴史学と考古学の分水嶺に位置するような時代のことですので、残念ながら創建1200年という神護寺の今の姿から往時をしのぶことはもはや空想の世界であり、実際当時は高雄山寺といわれていた。

 高雄山寺、愛宕権現を愛宕山に遷座するなど、いわばこの一つの山系が大きな聖地であることを示しているとともに、しかし愛宕神社と高雄山寺も、かつては一つだったという説もあれば、これは一説に過ぎないという研究があるなど、まだ空白がおおい。

 空海は、高雄山寺と神護寺に至る歴史に大きな、確たる歴史の大河を記した転換点の人物です。そしてこの日本に、変革という伝統、こうしたものを穿った人物と言えるのかもしれません。いや、空海の時代は科学と信仰の曖昧模糊な時代所以の意味があった。

 空海が遣唐使を経て帰国したのは歴史上記されている出来事ですが、密教を大陸から持ち帰ったということで歴史上大きな意義があります、それは単に宗教上の出来事ではなく、陳腐化したものは中枢の象徴的なもの以外置き換えるという伝統を生んだこと。

 最澄と空海、天台宗と真言宗、日本の大きな歴史の分岐点は宗教に寛容性を示したことで、所謂一神教が陥りがちな二元論、二元論は考え方が明白に示せる羨ましさと共に、衝突を生みやすい敵味方の明白な区分という本質を有していますが、これを省いた。

 弘法大師空海、遠く土佐の室戸は御厨人窟に籠って空と海だけを見つめ修行した事で空海を名乗り、まあこれ、大安寺の戒明が求聞持法という自問自答の瞑想修行を伝えた故といわれているのですが和泉国槇尾山寺で出家し、東大寺戒壇院で得度受戒する。

 入唐求法、空海は20年の長期留学生として遣唐使に加わり、途中で難破して入国手続きの書類を白紙に一から記すなどの椿事を経て中国は長安の西明寺に寄宿しますと、蒼龍寺の恵果和尚と出会いを果たします。

 仏教、日本の価値観や哲学観を固める、非常に重要な時代に影響を及ぼした仏教は当時南都六宗と新しい天台宗の時代を迎えていましたが、仏教とは一つの哲学であり、哲学とは完成の概念が無い進化するもの、恵果和尚との出会いは、その転機となりました。

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