北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東寺-紅葉,開かれた寺院に薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像

2024-12-19 20:18:00 | 写真
■ひらかれた寺院
 本日も東寺の紅葉を。

 東寺の拝観、興味深いのは当時の有料公開されている区画は五重塔と一部であり、ご本尊は遠くから自由に拝観する事ができまして、毎回のように拝観料を収めずとも、仏教を身近に感じることについては、ひらかれた寺院だ、という事が出来るもので。

 薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像が安置されています金堂は、拝観料なしに、少し離れたところからではありますが拝観出来て。いや、おちついて京都の寺院を考えますと、ご本尊は自由に拝観できるところの方が実に多い。

 寺院と布教、という視座をかんじられるのはこうした風情から感じ入ることができるのですが。ただもう一つ、仏教というものはイスラームやキリスト教のような一つの聖典に収まらない一つの哲学のような体系を構成していますのですから。

 寺院を幾度も通う、もちろん協議の複雑さから浄土宗のように、阿弥陀念仏に特化するという選択肢もありはするようですが、このあたりは変容とともに親交のあり方と信仰する対象というものにより移ろうという信仰のありかたなのか。

 京都は変化の街である、最先端建築物が平安朝の頃から鎌倉の様子は残念ながら応仁の乱で当時の建物が多く破壊され現存するものは例外的な僅かではあるのだけれども、室町時代と安土桃山時代、いや江戸時代に在っても変化をつづけていまして。

 現代の京都を古都の趣が無い、と言われる事は確かにあるのですが、すると京都、として思い浮かべる、そういった方々の京都、という定義はどういうものなのだろうなあ、と考えてしまうのです。しかしそうした変化のある京都に在って、当時は不思議で。

 伽藍の配置が、東寺だけは真言宗の寺院ということで、もちろん荒廃する時機は何度もあり、一つ歴史が違っていれば、京都が核攻撃を受けたかもしれないという危機もありましたから必然の今日、という訳では無いが、伽藍の配置が換わらないといい。

 東寺の立体曼荼羅というものは、実のところ極楽浄土を分かりやすく再現して拝観者に示すためのものという、このあたり、東寺の拝観というものは、その目的という視座から、早い時代から拝観者に門戸を開いていたことを示すのですけれども。

 大日如来、空海の時代から恵果和尚との出会いを経ての創建当初の配置を、建物は世代交代する事があったといいましても、当時の、空海が密教を伝えた世界観を伽藍の配置として維持しているという点が、これは考えてみると感慨深い訳でして。

 立体曼荼羅があるならば、それを包む風景についても軽傷されているのだろうか。創建当時、しかし不思議と調べても出てこないものなのですが、東寺の寺域を構成する木々の情景というものは、東寺のままなのだろうか、という素朴な疑問を持ちまして。

 極楽浄土の具現化、というものを立体曼荼羅から構成されているならば、情景というものも再現されているのではないか、と考えてしまうのですね。もっとも、木々の配置に関する記録が当時に残っているかも含めて、不明なのですけれども。

 紅葉とともに春は桜花、東寺という寺院にはこうした、今では溢れているものだけれども極楽浄土、というものを再現している、そうした意趣がいまも湛えられている訳ですから、いつのじだいもここには拝観者が絶えないのだろうなあ、と思ったりするのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,東寺から羅生門は黒澤明監督の映画と宮川一夫カメラマンの技法

2024-12-18 20:24:41 | 写真
■紅葉を撮影する
 拝観と散策の際のふと思った事をつらつらと。

 東寺の紅葉、東寺といえば桜、という印象が、特に不二桜が東寺を代表する情景となっているものですから感じ入るものなのだけれども、こう、巡ってみますと紅葉の情景が素晴らしい。そして今年はやはり紅葉も遅めなのだという印象が更に深く。

 紅葉を撮影する際に、わたしが疑問に感じるのは、椛を最拡大してで、構図を決めている方が多く、ああ云った写真を撮影する方には、東寺の椛、という葉の形状から直ぐに見分けられるものなのかなあ、と思ったりするのですけれども。

 東福寺の三つ葉楓、ではないのですが、わたしの場合は、確かに植物学的に葉をみただけでどこなのかわかるような鑑識眼がほしいところなのですが、ちょっとそうした才能はなさそうですので、紅葉と伽藍、さくらと伽藍、伽藍を第一に考えます。

 伽藍と紅葉、という構図は、実は簡単そうで難しい、こういうのも、紅葉は一年に一定期間、鮮やかに彩るだけなのですが、木々に、ある一定の角度で素晴らしい情景を醸すというのは実は一日の中で一瞬ということもありますので、その瞬間を収めたい。

 順光と逆光、不思議なもので青椛と紅葉と、写真の中では逆光は、まあ大空を白く染めてしまいますし建物も影のように黒く塗りつぶしてしまうものではあるのですが、桜花や紅葉、青葉というものは逆に際立てているように感じられるのですよね。

 羅生門、黒澤明監督の映画作品にて宮川一夫カメラマンの、あえて近畿とされた逆光を情景の撮影にうまく描きこむ手法で、世界の絶賛を浴びたことがありまして、あの時代はモノクロなわけですから物凄い発見と挑戦だった訳ですが、それをまねて。

 東寺から羅生門といいますと、映画作品は兎も角としてなにかこの距離的な親近感がわいてしまうのですけれども。紅葉を逆光で撮影しますと、当たり前ですが椛は太陽光を透かして色彩を強調しますので、不思議と情景を際立たせる構図となります。

 宮川一夫カメラマンの技法、と表現しますと妙に格好よくなってしまうのですが、この逆光を紅葉に活かすもう一つの理由は、レンズに直射日光が当たるのを椛が防いでくれますので、被写体として考える伽藍というものも思いの外逆光の影響を受けない。

 写真撮影、寺社仏閣の拝観と一つのつきものとして考えている東宝は、よく見せる写真というものはある程度布教の一助となってこうしたWebなどで広まってくれる、ここまで考えて拝観者に撮影を許してくれているのではないか、という事でして。

 清水寺のような観光寺を例に挙げますと、観光寺と呼ばれてもいい、その分ひとりでも観音信仰に近づいてもらって興味を持ってもらえれば、というかんがえ方を清水寺の北法相宗の高僧の方がはなした、という話題を知りまして、なるほどなあとおもった。

 紅葉は、伽藍と共に撮影しなければ、此処に来た意味がありませんが、しかし、実のところ、此処は素晴らしい情景だ、という木々の配列との出会いを経験しましても、翌年には気が育ってしまったり、逆に枝が切られたりして口径が無くなる別れが稀に。

 カメラと共に拝観する、それは一つの一期一会の風景に向き合う事でもあり、また伽藍と共に醸す歴史を写真という事で残してゆくという意味合いもありますので、歩むとともに真剣に情景と向き合う散歩も、中々奥ゆかしくて、愉しいものなのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,五重塔包む絶景の紅葉!平安遷都以来の寺院を彩る天然色の椛紅葉

2024-12-18 20:00:47 | 写真
■東寺-紅葉
 このお寺はは桜が美しいのですがこのように紅葉も美しいという話題です。

 東寺、南区九条町の、というよりも京都駅新幹線ホームからも見える京都を代表する建物の一つが当時の五重塔なのかなあ、と思う印象的な情景を醸していまして、しかし京都の平安遷都の頃から今に至るも同じ場所に立地する寺院となっています。

 延暦15年こと西暦796年に桓武天皇がこの平安遷都に際して造営した寺院であり、そもそも南都六宗からの独自性を政治に反映するべく、ということは平安遷都の目的のひとつでしたから、今寺社仏閣に溢れる京都に最初二つのみ認められた官寺のひとつ。

 京都散歩、東寺のあたりは一つ突き抜けて東寺が存在感を護すものの、勿論探せば幾つも歴史湛える寺社仏閣はあるものの、大きな伽藍はこの一帯で一つ突き抜けて拝観者を迎える風情を醸しています。その当時も、実は紅葉の名所となっていまして。

 西寺と東寺、平安遷都に際して、左右対称に造営された平安京の玄関口にあたるこの一角に東寺が、その西に西寺が造営されました。ただ、西寺はいま西寺あとという石碑が講演に佇むのみとなっていまして、再建する試みさえありません。

 鎮護国家の密教寺院、西寺が再建される事がない背景には、結局京都という町は自由な街並みを目指していたもので、平安遷都の当時に構想された画一的は左右対称の都市計画は都市部の膨張とともに自由という概念に置き換えられ今に至る為なのですが。

 五重塔、やはりこの寺院を象徴する建物は、京都最古の高層建築物という五重塔を望見した際の事でしょうか。これも幾度もの建て替えと修復を重ねているのですが、それは同時にこの情景風景が京都のなじみ深い風景として定着しているにほかなりません。

 徳川家光の寄進により寛永21年こと西暦1644年に再建された五重塔、実はこの京都散歩に際しまして、敢えて東寺を散策しましたのは、この紅葉のきかんに京都文化財特別公開としまして、五重塔内部を拝観できる、というものがこの日の散策の趣き。

 両界曼荼羅や真言八祖像を描いた東寺、といいますのも過日、高雄の神護寺を拝観しました際に、もちろん神護寺も多くの歴史を湛えていて、源頼朝さえかかわりある寺院なのだけれども、印象深く感じたのは映画の空海に描かれたような弘法大師空海で。

 空海の寺院、この東寺が永らえたのは、もちろん平安遷都以来の官寺という荘厳美麗な歴史が彩ることは確かなのだけれども、もうひとつの官寺である西寺が廃れていったことと整合性がありません、それは東寺には新しい役割があったゆえ。

 治水、という面から、西寺が廃れた背景というものはもう一つあり、そう、東寺と西寺という視点に立って京都を見ますと、堀川通などいまの京都の中心線からずれていることが東寺の平安遷都における都市計画から見出すことができるでしょう。

 長岡京からの平安遷都は治水計画の失敗で行政機構を含め定期的に浸水被害を受けていたために廃都せざるをえなかったという事情があるのですけれど、西寺も同じように浸水被害が続いたことで、幾度か復旧するものの長期的には蜂起された歴史が。

 紅葉の東寺、さて、南都六宗から距離を置いた日本ですが、仏教は変化する宗教であり、空海により大陸からつたえられた密教の寺院ということで、当時は新しい役割を担う事となりまして、いま、紅葉に包まれている情景をお伝えする事が出来るのですね。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,映画"空海"の舞台は橘逸勢と空海の所縁に二次創作の分水嶺を考える

2024-12-12 20:15:29 | 写真
■橘逸勢と空海
 文章を書くという事は実に何かを吐きだしているようで愉快であると発言したのは明治の文豪夏目漱石でしたか。

 私事ながらPIXIVに小説を投稿し始めていまして、これはとある友人、この方にもらったものは飾り棚に大切に並べていますが、とある同人小説の二次創作で、自分の推しているキャラクターが大変な被害に見舞われたので助けてやってほしい、と頼まれて。

 PIXIVはイラストをみるためにアカウントだけは持っていたのですが、なるほど、右上をタップすると小説が投稿できるという。第二北大路機関の執筆時間を転用して、書いているのですが、二次創作、これにはある程度超えてはならないものがあるとおもう。

 神護寺の歴史は出会いの歴史であることは既述の通りです。それは絵巻物にも描かれ、いや空海と神護寺は映画“空海”にも描かれている。空海は北大路欣也さんが演じられていましたが、あの映画でひと際印象深かったのは頼りない役人の橘逸勢という。

 空海、いい映画だ、人に薦めたい邦画をニ十本選ぶならば、まあ、日本のいちばん長い日、激動の昭和史-沖縄決戦、潜水艦イ57降伏せず、連合艦隊、太平洋の嵐、新平家物語、風雲児-織田信長、宮本武蔵-般若坂の決斗、と並べて映画空海はお勧めしたい。

 橘逸勢は映画空海の登場人物で、石橋蓮司さんが演じられていた、劇中では、このまま日本に居ても出世できない事から遣唐使に加わることを願い出て、しかし下級役人という事で後ろの方の船団、空海と乗り合わせるも難破し、それでもなんとか空海と入唐を。

 外国語というのは奥が深い、中には苦手という人も多い、どちらかというとわたしもそちら側なのですが、石橋蓮司さん演じた橘逸勢もこちらがわの人でして、中国語ができないのに白をつけるべく遣唐使に加わったが、唐の学校で語学の壁を思い知らされる。

 唐は、歴史を見ますと政治学も宗教学も土木工学も天文学も、日本が当時必要としていた学問全ては全部中国語が必要であるため、どうにか彼を素晴らしい学問とめぐり合わせる方法を苦労して配慮、これこそ苦慮か、したのちに、琴と書道を学ばせる。

 音楽と書道ならば、たしかに語学は政治学と土木工学よりは障壁が低い。けれども、当時の遣唐使は修学20年のところを、空海が2年で恵果和尚から灌頂を授かったことを受け帰国するさいに、一緒に日本へ戻ってきてしまうのだ、なんだか親近感がわくはなし。

 空海も20年の修学を2年で大学生が国一に通った為に中退する感じで帰国してしまい、これは摩擦を生むのですが、その過程で同じく橘逸勢も同じ立場であることから知己を深め、映画の中では結局、空海の入寂、その瞬間まで付き添う、僧侶以外の友人となる。

 橘逸勢、しかししかし、映画を見た後で調べてみますと、日本音楽の元祖というべき第一人者となっていますし、書道においても嵯峨天皇と空海とならぶ三偉人となっていたのに驚き、なるほどあれが映画の脚色というものか、と監督の配慮を感じ入りました。

 佐藤純彌監督作品である空海、なるほど、ゴルゴ13や新幹線大爆破、野生の証明に敦煌、超大作を幾つも後世にのこし2019年に旅立たれた監督さんだ。この方、映画ですので史実に脚色をするのですが、超えてはいけない一線は明確にしているとおもった。

 PIXIVの二次創作、いや二次創作で被害に遭った艦娘たちを軌道修正して大団円に持ち込むだけの三次創作は、超えてはいけない一線を軌道修正する初の試みなのですが、歴史というものを知ることが二次創作の逸脱への良心となるのかな、とこの神護寺で思ったのだ。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,金堂に薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像

2024-12-12 07:01:20 | 写真
■中世の三権分立
 歴史学者ではないのだけれども自分の巡った場所を手に入る範囲内の資料と共に仮説を立てて巡るのはよい心の体操となる。

 神護寺を巨大な伽藍と荘厳美麗な仏教美術を期待して山門をたずねると肩透かしを食うかもしれません、けれども、実のところ例えば伽藍を誇り伽藍面といわれた東福寺や、京都駅前に燦然と威容を誇る東本願寺と西本願寺には政治的なものがありました。

 金堂にいたる石階段を慎重に、実はそのとなりに傾斜の緩やかな経路も整備されているのですけれども、やはりここは石階段を踏みしめながら万感の思いと共に金堂が少し少しと見えてゆく様子を、拝観の道程として感じ入るのがいいかもしれない、ゆっくりと。

 毘沙門堂と五大堂が、金堂の石階段を上り終えますと見えてきまして。そう、ここは壮大伽藍こそないものの、それ以上に大きな哲学があるのだ、という感慨と共に眺めますとちがったものが思えて、いや湧きあがってくるのかもしれません、歴史的な、なにか。

 三権分立、というと今のものとは少し異なりますが、近世の江戸時代などには朝廷権力と幕府権力、いちおう制度的には朝廷が優越しているものの実力のついては、これは中世の建武の新政をみれば分かる通り、実務政治では朝廷に統治機構はむずかしかった。

 伽藍が威容を誇る京都の寺院は、幕府の統治機構において朝廷との関係を対立に至らせずしかし抑制的なものを求めるために寺院の権威、権力ではない、権威に依存したためであり且つ寺院には統治機構への参画を極めて制限することで一種の同調と緊張を。

 三権分立のような機能を持たせるには権威が必要であり、寄進と寺領をみとめることにより、それはかつての一向一揆のような実力という安易な権威を意識したものではなく、ああいうならば現代政治学でいうところの、正当性と正統性、をもたせたかたち。

 神護寺は、見方を変えるならばそうした俗世間から距離を置いた、空海の寺院として成り立っていたわけですね。いや、だからこそ静けさ、静謐さ、単純なきゅ横紋に自らの判断を投げ出すことの無い、聖典なき伝法という仏教の神髄を身近に感じられるようで。

 本尊薬師如来立像が安置されていますのは金堂の奥、この金堂は実は昭和10年、1935年に再建されたものです。今考えると世界恐慌とともに混乱の日本社会、いや1935年といえば既に大陸で始まっている時代に、こうしたものを造営できたのは、と思ったり。

 薬師如来立像とその左右に日光菩薩と月光菩薩立像とそして十二神将立像、国宝と重文が拝観者を迎えてくれます。深紅の紅葉とともに見上げる金堂は大きくとばりが開かれていて、もちろん間接的にではないけれども信仰の寄る辺が確かに感じられて。

 五大堂は元和9年こと西暦1623年に建立、毘沙門堂も元和9年こと西暦1623年に造営されている。実は弘法大師空海は、この神護寺において最澄との遣唐使以来の再会、というよりも最澄は勅命を受けての遣唐使ですので、随分と格上なのですけれども。

 最澄との再会を神護寺において果たすとともに天台宗と真言宗は別々の宗派であることを灌頂というひとつの点を巡り理解するところとなり延暦寺へと戻ります。しかしそのあと、空海もまた高野山へと新しい聖地を定め神護寺を去ったことで歴史が動きました。

 文覚、このひとは武家出身の僧なのですが、空海が去ったことで歴史舞台の正面を降りることとなった神護寺を、平安朝末期から鎌倉時代まで、後白河法皇への直訴を繰り返し、神護寺の再興を果たします。こうした歴史の流れや浪を経て、寺院は今に至る。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,空海と神護寺は最長と延暦寺-その出会いが生んだ寛容性という哲学と価値観

2024-12-11 20:24:19 | 写真
■最澄と空海
 寺院を拝観すると共に歴史をその都度すこしだけでも振り返り且つ調べる事は人生を豊かにしてくれます。

 空海と神護寺、和気清麻呂まで歴史を遡りますと、宇佐八幡宮神託事件を解決した後、じつはいろいろありまして和気清麻呂は配流されてしまうのですが、道鏡を重用していた称徳天皇が崩御しますと、和気清麻呂は流罪を解かれまして都へと戻ります。

 長岡京、この宇佐八幡宮神託事件は、和気清麻呂を祀る護王神社がいまの御所の隣にありますので、平安京遷都以後とおもわれるかもしれませんけれども、長岡京時代の出来事です。帰京叶った和気清麻呂は自分の氏寺造営を願い出、天皇の許しを得ました。

 長岡京か、こう歴史をいまの神護寺と結びつけますと、清滝川の谷間に和気清麻呂が寺院を造営したのは、水害に悩まされていた長岡京、実際平安遷都は毎年のように大堰川の水害に悩まされ、官庁が流失していたほどの深刻な水害がつづいていたのですが。

 清滝川に寺院を造営した和気清麻呂は、ここは僻地でも何でもない、要するに自らの氏寺をもって長岡京を水害から何とか守ることはできないか、とかんがえての造営だったのだなあ、といまの位置関係を当時の古地図に照らし合わせて、こう思うのですね。

 高雄山寺、和気清麻呂の時代は神話の時代、とまでは行かずとも歴史学と考古学の分水嶺に位置するような時代のことですので、残念ながら創建1200年という神護寺の今の姿から往時をしのぶことはもはや空想の世界であり、実際当時は高雄山寺といわれていた。

 高雄山寺、愛宕権現を愛宕山に遷座するなど、いわばこの一つの山系が大きな聖地であることを示しているとともに、しかし愛宕神社と高雄山寺も、かつては一つだったという説もあれば、これは一説に過ぎないという研究があるなど、まだ空白がおおい。

 空海は、高雄山寺と神護寺に至る歴史に大きな、確たる歴史の大河を記した転換点の人物です。そしてこの日本に、変革という伝統、こうしたものを穿った人物と言えるのかもしれません。いや、空海の時代は科学と信仰の曖昧模糊な時代所以の意味があった。

 空海が遣唐使を経て帰国したのは歴史上記されている出来事ですが、密教を大陸から持ち帰ったということで歴史上大きな意義があります、それは単に宗教上の出来事ではなく、陳腐化したものは中枢の象徴的なもの以外置き換えるという伝統を生んだこと。

 最澄と空海、天台宗と真言宗、日本の大きな歴史の分岐点は宗教に寛容性を示したことで、所謂一神教が陥りがちな二元論、二元論は考え方が明白に示せる羨ましさと共に、衝突を生みやすい敵味方の明白な区分という本質を有していますが、これを省いた。

 弘法大師空海、遠く土佐の室戸は御厨人窟に籠って空と海だけを見つめ修行した事で空海を名乗り、まあこれ、大安寺の戒明が求聞持法という自問自答の瞑想修行を伝えた故といわれているのですが和泉国槇尾山寺で出家し、東大寺戒壇院で得度受戒する。

 入唐求法、空海は20年の長期留学生として遣唐使に加わり、途中で難破して入国手続きの書類を白紙に一から記すなどの椿事を経て中国は長安の西明寺に寄宿しますと、蒼龍寺の恵果和尚と出会いを果たします。

 仏教、日本の価値観や哲学観を固める、非常に重要な時代に影響を及ぼした仏教は当時南都六宗と新しい天台宗の時代を迎えていましたが、仏教とは一つの哲学であり、哲学とは完成の概念が無い進化するもの、恵果和尚との出会いは、その転機となりました。

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【京都幕間旅情】高雄山神護寺,京都の紅葉は高雄から始まる-静謐な水墨画の世界に投じられた椛は紅色の原色

2024-12-11 20:00:52 | 写真
■高雄の神護寺
 この絶景この昂揚感はまさに一年に幾度かある季節の風物詩の一つとして欠かさず散策へいざなうもの。

 京都の紅葉は、高雄から始まる。こういう言葉があるのですが、ことしはこうようのはじまりがおそかった、ほんとうに。奥座敷、というにはもう少し手前があるかもしれませんこの高雄は、右京区梅ヶ畑高雄町、有名な神護寺の静謐な聖地が広がっています。

 高雄のバス停、丁度、やはりここも紅葉の名所というべきなのでしょうが御室御所の仁和寺の目を前を通過しまして、ざっと30分ほどバスに揺られていますと、そろそろ山奥という言葉があてはまるそんな風景の変容を愉しんだ先に、高雄のバス停があるのだ。

 清滝川、そう高雄といえば日本有数の聖地、和気清麻呂がひらき、かの空海が日本に密教の布教の地として定めた文字通りの聖地ですので、先ずバス停からじかに行く事は出来ず、清滝川の谷間へ階段を長く長く降りてゆくのですが、そこが椛の隧道となっていて。

 愛宕山系の高雄、清滝川も清水をそれほど大きな流れではないのですが、その分透き通った清冽な流れを陽光に反射させて静かに流れていまして、しかしそのながれは水墨画のような風情ではなく、紅葉、というものが原色の天然色という鮮やかさを印象に放つ。

 神護寺はその清滝川からもう一度、高みに臨んだ石階段の先に在ります。その高みですが、石階段は思いの外遠く、もっとも鞍馬のケーブルカーを使わない参道ほどではないし、伏見稲荷大社の一ヶ峰までの階段ほどではないのだけれども、やはり急に感じる。

 茶店が幾つも、実際に暖簾を掲げていて暖かそうな湯気たつ饂飩や善哉、いや焼き鳥まで出していて、いいのかなここはもう山内と思うところの隣を石段が続いていますから、やはりここは、登山ではないものの寺社仏閣拝観には石段が遠く感じるのです。

 和気清麻呂、この神護寺は天長元年こと824年に和気清麻呂が開いた寺院であり、ことしは開山1200年となります、この和気清麻呂というひとは、奈良時代の生まれ、日本の分岐点において皇統を守護したということで歴史上の立ち位置が高く評価されていまして。

 護王大明神という、本人がきいたらどう思うかという和気清麻呂は宇佐八幡宮神託事件、日本産悪人と言われる僧侶道鏡による、皇統乗っ取り未遂事件があり、これは宇佐八幡宮に道鏡を天皇にするよう神託があったという、要するにウソついたという事が。

 平将門、足利尊氏、道鏡、日本産大悪人と言われているのですがどのかたもひとかどの人物と哲学をお持ちの方ですので道鏡を再評価する声もあるのですけれど、和気清麻呂は実際に九州の宇佐八幡宮まで赴き、そんな神託は無かったと確認したのですね。

 護王神社という、御所西側の神社がありまして、ここに何故か重巡高雄の巨大な絵馬、いや絵馬の由来を考えると絵艦というべきか、掲げられているのですが、その護王神社に祀られているのが和気清麻呂で、明治時代にこの神護寺から遷座した歴史があります。

 金堂への階段、実際のところこの神護寺はそうした歴史も中々緩解深いところがあり、此処を起点に日本の、ニッポン、という曖昧模糊としていながら説明しにくいが確たる形作られたものがあるという事を理解するうえで重要なものが形成されたその場ですが。

 石階段、金堂への石階段はにほんの原風景の一つではないかと思います、こういいますのも、ここは時代劇の有名な舞台となっているところでして、おそらく時代劇、大衆時代劇から歴史映画まで、それなりにこの階段は出てくることに気づかされるでしょう。

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【京都幕間旅情】東福寺,十二月戒厳令-数時間で終わった韓国非常事態を思い返すと共に

2024-12-04 20:24:48 | 写真
■紅葉景色と共に
 こういう話題もちょっと触れておきたいという事で写真とは無関係に。

 十二月の政変、東福寺の写真と共に語る事ではないのかもしれませんが、今朝がたは驚きました、というよりもほぼほぼ二十時間前ですか、友人から韓国で戒厳令が発令されたというメールが来まして、何の映画の話かとおもったら聯合ニュースのURLとともに。

 戒厳令、いや韓国は1987年の民主化以来戒厳令なんて、徳政令はあっても戒厳令はなかったと聞くしていると、NHKが戒厳令は1987年以来であると報じてくれて、わたしの記憶もばかにならないものだなあ、と思いつつ、2020年代半ばなんですよ、いまは。

 戒厳令は数時間で、議会議決により解除されたのですが、これはほんとうによかった、まず、大統領がきがちがったのでなければ、国家予算が通らないので戒厳令なんてありえず、戒厳令を布告しなければならないような、表以外の事情があると当然考えるものですから。

 クーデター準備のような不穏な動きがあるのではないか、つまり伝統的な海兵師団か空挺師団か特戦団かが、クーデター準備の動きが在って、これを事前に抑止するために戒厳令を布告するような、ドゴール大統領のかつての対応のような事情はないか、と考えて。

 親北の分子による国家破壊から秩序を守る、と大風呂敷広げられたので、実は特殊部隊でも浸透していて、呼応した土台人が騒擾を起こし、夜が明ければ朝鮮戦争再燃で核爆発の危機、と本当に心配したものの、これが大統領のおかしくなっただけという結末だった。

 しかし、議会選挙で大統領が負けて、レームダック化した政権が国会などで野党にたいして妥協を拒んだことでむきになって戒厳令を発令し議会閉鎖に追い込んだ、という表向きの理由以外何も見つからないとなると、理由がこれしかないのか、と本当に驚く。

 検察出身の大統領なので法律には多少明るいと思っていたが、どの条文を拡大解釈すると大統領ならば全部選挙を覆せると思ったのか、トランプ大統領だってやらないようなことを、日本時間深夜にいきなりやらかしたのだから、これはおどろくほかないのですよ。

 国会議員は、がんばった。感心したのは戒厳令とともに陸軍空挺旅団が、少人数だけれどもUH-60でヘリボーンを掛けて国会に少数の人員を派遣して、一応閉鎖したとともに、大統領命令により警察が国会議事堂周辺を封鎖したものの、民衆と議員は国会へ向かった。

 封鎖された議会へ、壁を超えて窓を割って議事堂のなかにはいり、全会一致で戒厳令解除を布告した、ここには与党も野党も無く、全会一致、という戒厳令への党派を超えた反対が成立ち、この結果大統領も数時間で戒厳令解除を公布せざるを得なくしたということ。

 軍事政権時代の戒厳令の記憶がある世代なのだろうなあ、韓国の友人もこの話題は触れたがらないもので、学生時代に、おまえはナムサンの安企部地下六階送りだ、とお酒の席で冗談を飛ばすと、急に真顔になり、たのむからその冗談はやめてくれといわれてしまって。

 しかし、議員と民衆が総力を挙げれば権力の暴走を止める事が出来るという韓国の実例とともに、さて、韓国は改憲や制度の見直し、まあ大統領の失職は当然としても変革を強いられるのだろうなあ、とおもうのですが。軟着陸できて、あんどしたのですよね。

 ただ、これからが大変です、青瓦台ではなく国防省に大統領執務室を置いた現政権、戒厳令布告とともに当然、各部隊の上級指揮官に恭順書を求めているとしたばあい、これに署名した指揮官は今度は逆に更迭の可能性がある、粛軍が北東アジア情勢にどう影響するか、関心事です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東福寺,通天橋を眺める撮影名所はオーバーツーリズムとSNS承認欲求の悪循環

2024-12-04 20:00:00 | 写真
■通天橋を眺める
 紅葉の話題を。

 東福寺、混雑はそれほどでは無かったとは前述しましたが、なにしろ通天橋を眺める撮影名所、年々椛の木々が枝を伸ばしてきますので遠くない将来に呑まれるのだろうかと思うその一角が、過去にあるような撮影規制や入場規制をしていないのだから。

 混雑を覚悟した割にはひょうしぬけなのだけれども、まだ青椛が色づき始めた頃合いであることは周知故に拝観者が少ないのだろうか、と考えたりする、今やSNSの時代、まあその情報の真偽は確かめられないが、方向性のようなものは見られる時代という。

 SNSの時代、私は情報の真贋というものは多寡では決してなく、ファクトチェックの手間にあると思う、だから見もしない知っているという主観的な情報よりは、ファクトチェックの手間を踏んでいる報道機関というものの情報の方が信頼度はあると思うのだが。

 ただ、SNSの時代、問題は単なる自己実現の場に写真というものを安易に使うあまり、所謂華美さ物珍しさを基調とした価値観の写真が増える故に、求められる規範性や倫理観を逸脱した行動というものが溢れてしまったように思える、例えばここの拝観者でも。

 立ち入り禁止の柵の中へ立ち入って撮影する人が増えたなあ、いや比喩でも皮肉でもなく、この写真を撮影しました際、丁度通天橋前の、といいますか拝観入り口から15mくらいのところで関所破りならぬロープ越えで記念撮影をしようとしている一団が居まして。

 苔を踏んで立ち入り禁止区域へ。思わず声を挙げて注意してしまいました、もっとも同様に思われていた方が加勢してくださったお陰で相手方も理解してくれたようですが、日本語が通じない地域からのオキャクサマのようでして、しかし苔を踏むのは、なあ。

 苔は夏の猛暑を生き延びた苔、特にこのところの気候変動で京都の代名詞的な景観を醸すスギゴケが少なくない範囲で枯死してしまっている、それは情景の斑で顕在化しているのだけれども、ハイゴケもスナゴケも気温上昇が厳しい中、生き残った苔なのだ。

 自己承認欲求だろう、という声はありますし、それならこの京都幕間旅情もだよ、と言われてしまうかもしれませんが、SNSの時代、いい写真を撮る為ならば文化財保護も規範も規則やぶりもなんのその、という寂しい時代となってしまったのでしょうか。

 旅の恥は掻き捨て、という表現を曲解している方でしょうか、若しくは苔などなくてもよかれという事なのでしょうか、いや苔だけでなく退屈しのぎに東福寺の土塀を削って落書きしていた方がかなりの数いたことは過去マスコミなどで全国の報じられたが。

 しかしすると、見栄えさえあれば、臨済宗でも曹洞宗でも関係ないというところなのだろうか、そもそもここが日本における臨済宗の基盤となる修行道場であることを理解している人は、半分も居ないのではないか、写真のミバエだけではないか、と危惧して。

 ただ、オーバーツーリズムが叫ばれる京都に在って、少々覚悟している訳だけれども、この季節の三連休に東福寺の混雑が凄くないのは不思議だった、凪、なのかな、つまり観光バスや団体客が来ない時間帯に偶然当て嵌まったのかもしれないなあ。

 京都観光ってなんなのだろう、わたしは京都散歩、しかし、もしかすると京都観光は寺社仏閣よりも飲食やデパートでのお買い物を目的とする方も多いのかもしれない、そうした景観とこの情景も同一視されているのかも、とそんなことをおもいましたね。

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【京都幕間旅情】東福寺,伽藍と紅葉彩り背景に無準師範と聖一国師円爾出会いを遡れば玄奘三蔵と道昭との出会い

2024-11-27 20:24:40 | 写真
■無準師範と聖一国師円爾
 寺院というのは出会いの場所なのだなあ。

 東福寺、三連休の初日に拝観へと歩み進めました。九条道家が開基となり、聖一国師円爾を開山に招いて造営しました臨済宗の寺院です。円爾さんはヴァスバンドゥの仏教宗派解説書であるアビダルマコーシャカーリカーの翻訳阿毘達磨倶舎論を幼くして学ぶ。

 アビダルマコーシャカーリカー、というとなにか格好いいですが、三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典で、日本へは遣唐使として派遣された法相宗の僧侶道昭が西暦653年に玄奘三蔵本人に拝謁した際に訳版を託され、日本に伝えられた。

 園城寺にて得度し東大寺で受戒した円爾さん、この頃は弁円と名乗っていまして、上野国長楽寺、現在の群馬県太田市に現存している長楽寺の栄朝に師事し、そして臨済宗を学ぶべく鎌倉寿福寺の行勇に師事したのち、大陸は宋にわたっています。

 臨済義玄の拓いた臨済宗、悟りにいたるために数回の殴り合いと暴力が絡む黄檗三打という過程があって、黄檗三打も三回くらい叩かれたのかと思ったらば黄檗老師を訪ねたところ30発棒で殴られたといい、師匠に数発腹にぱんちとか、すごいのなんの。

 河北省に臨済寺が現存していて、もっとも臨済義玄さんは咸通7年頃つまり貞観6年、西暦ですと866年に入寂されています、あの富士山貞観大噴火の翌年くらいですね。円爾さんが生まれたのは建仁2年、つまり西暦1202年ですので実のところ接点はない。

 黄檗三打という歴史を知った上で中国拳法なんかをみていると、臨済寺もなにか拳法ができそうな配置となっていまして、昔の中国の寺院はバトルが起こっていたのか、と懸念するとともに、日本からの留学僧にもバトルがしかけられていたのではないか。

 禅宗、臨済宗も禅宗なのですが、大陸の新しい仏教となっています。そして当時日本の仏教界でも変革を模索する動きがありまして、いや言い換えれば宋に渡ればなんとかなるという、2000年代のアメリカ留学ブームのようなものが鎌倉時代に起こっていた。

 渡米か渡宋か、ともあれ我が国は渡るの大好きだなあと思いつつ、英語能力に限界があって日常会話しかできないのにアメリカ留学を行って何も専門研究を学べなかったという方がいた通り、実際当時の宋への留学僧も中国語が駄目だった人は多かったらしい。

 渡宋の語学問題は、当の宋で受け入れた寺院や官僚の、いや語学ができた日本からのりゅう学僧の日記にさえ嘆かれていて、しかしそうしたなかで円爾さんは径山寺の無準師範に師事しました、径山寺、ここは宋時代に醤油を日本に伝来させたともいわれる。

 無準師範、宋時代禅林中の巨匠と言われる方で兀庵普寧と西巌了恵と別山祖智と断橋妙倫の高弟を四哲として宋時代に大きな影響を及ぼした僧侶で、また絵画の才能にも秀でていたという。与円爾尺牘というやりとりの当時の親書が東京国立博物館に現存する。

 与円爾印可状、えんににあたういんかじょう、と読むのですが無準師範さんが円爾さんに書き与えた印可状が今も東福寺に現存していまして、意志を持って学ぶものと教えるもの、仏教徒は哲学的なものなのですが、そのつながりを今に見ることもできるのですね。

 径山寺も臨済寺も現存しているのですが、臨済寺は戦後荒廃した時期があり、その際に手を差し伸べたのが日本の数多ある禅林寺院であったという。考えれば八百年の出会いか、そう歴史と共に拝観しますと、また違ったものが見えてくるようにおもうのだ。

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