■800年の風景
ゆきげしきをさがして。

鹿苑寺と慈照寺は外せない、京都観光においてこういわれる事は多いのだけれども、混雑しているだけなので外せばいいのではないかな、と思ったりするのだ。それは御久遠寺などは観光寺で、静けさを重んじる禅寺からは一番遠い場所に在るのだから。

金閣寺、鹿苑寺の金閣こと舎利殿はこのように多くの観光客の注目を来場を集めるのだけれども、しかし、京都を代表する風景であることもまた確かなのだなあ、と思うのです。すると、雪が降るという予報を聞きますと、ちょっといってみようかな、なんて。

臨済宗相国寺派の寺院、このお寺は烏丸今出川の相国寺さんの塔頭ということもありまして、まあたしかに舎利殿こと金閣は目立つのですが、落ち着いてこの寺院の伽藍を思い出してそのあとで相国寺を見上げますと、鹿苑寺には大きな伽藍はありません。

北区金閣寺町には、そういう意味で不思議な寺院がひろがっているのです。面白いことに当地は藤原家の西園寺家が治めていた所領だったのですが、西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたかどで処刑されると当地は没収される事となりまして。

西園寺という寺院が西園寺家の寺として維持されていたのですが、西園寺家の没らくとともに手入れされない状況となってゆき、此処を足利将軍家が所領として別荘を造営したことで北山山荘が造営、栄華きわめた北山文化が花開くのですね。

北山文化、しかし興味深いのは遥か時を隔てて西園寺公望が西園寺家当主であった百余年前のはなしではあるのですが、私塾立命館を開学、当時の学舎は広小路という御所近くにあったのですけれども、その立命館が大学となりキャンパスを広げたのもこのあたり。

西園寺、そのお寺を藤原公経が開いたのが元仁元年こと西暦1225年のことでして、ことしは2025年ということですから、なるほど鹿苑寺のもととなった寺院は今年その開山からちょうど800年なのか、ということに驚かされたりするのですけれども。

800年の風景、北山文化の残り香というところでしょうか、京都というものは日本のいろいろなものを凝縮しているような、また、いいところも悪いところもその始まりを見出すことができるという意味で感慨深いところ、それは歩み進めるほどに思う。

東山文化、室町時代の日本文化は面白いことに華やかな北山文化の後、応仁の乱最中に慈照寺が室町第八代将軍足利義政により開かれる事で、詫び寂を基調とした東山文化が花開きます。詫び寂、郷愁を感じるとともに同かんを感じるのは今の時代ゆえか。

詫び寂の原点は、室町幕府の衰退を背景に落ち込んだ権力基盤の空白が応仁の乱を引き起こしたものの、将軍権力には戦乱をちんせい化するだけの実権が残されておらず、結果的に戦乱は京都の文化財ほぼすべてを焼き尽くし、諸国へも甚大な影響を及ぼした。

応仁の乱を背景に停滞した中でも、詫び寂、以外に選択肢が亡くなったのちにも新しい文化を造営するという気概と、諦めないが妥協する、こういう日本の平成中期から現代にいたる価値観の背景に、北山文化と東山文化の対比が成り立つのかな、とおもったり。

諦めないが妥協する、文化を継承していればまた花咲くときが来るゆえに我慢というものを強いることになったのも、これは日本の悪弊であるとも思うのですけれども、そのはじまりはやはり京都に見出せるのかなあ、そんなことを考えるのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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ゆきげしきをさがして。

鹿苑寺と慈照寺は外せない、京都観光においてこういわれる事は多いのだけれども、混雑しているだけなので外せばいいのではないかな、と思ったりするのだ。それは御久遠寺などは観光寺で、静けさを重んじる禅寺からは一番遠い場所に在るのだから。

金閣寺、鹿苑寺の金閣こと舎利殿はこのように多くの観光客の注目を来場を集めるのだけれども、しかし、京都を代表する風景であることもまた確かなのだなあ、と思うのです。すると、雪が降るという予報を聞きますと、ちょっといってみようかな、なんて。

臨済宗相国寺派の寺院、このお寺は烏丸今出川の相国寺さんの塔頭ということもありまして、まあたしかに舎利殿こと金閣は目立つのですが、落ち着いてこの寺院の伽藍を思い出してそのあとで相国寺を見上げますと、鹿苑寺には大きな伽藍はありません。

北区金閣寺町には、そういう意味で不思議な寺院がひろがっているのです。面白いことに当地は藤原家の西園寺家が治めていた所領だったのですが、西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたかどで処刑されると当地は没収される事となりまして。

西園寺という寺院が西園寺家の寺として維持されていたのですが、西園寺家の没らくとともに手入れされない状況となってゆき、此処を足利将軍家が所領として別荘を造営したことで北山山荘が造営、栄華きわめた北山文化が花開くのですね。

北山文化、しかし興味深いのは遥か時を隔てて西園寺公望が西園寺家当主であった百余年前のはなしではあるのですが、私塾立命館を開学、当時の学舎は広小路という御所近くにあったのですけれども、その立命館が大学となりキャンパスを広げたのもこのあたり。

西園寺、そのお寺を藤原公経が開いたのが元仁元年こと西暦1225年のことでして、ことしは2025年ということですから、なるほど鹿苑寺のもととなった寺院は今年その開山からちょうど800年なのか、ということに驚かされたりするのですけれども。

800年の風景、北山文化の残り香というところでしょうか、京都というものは日本のいろいろなものを凝縮しているような、また、いいところも悪いところもその始まりを見出すことができるという意味で感慨深いところ、それは歩み進めるほどに思う。

東山文化、室町時代の日本文化は面白いことに華やかな北山文化の後、応仁の乱最中に慈照寺が室町第八代将軍足利義政により開かれる事で、詫び寂を基調とした東山文化が花開きます。詫び寂、郷愁を感じるとともに同かんを感じるのは今の時代ゆえか。

詫び寂の原点は、室町幕府の衰退を背景に落ち込んだ権力基盤の空白が応仁の乱を引き起こしたものの、将軍権力には戦乱をちんせい化するだけの実権が残されておらず、結果的に戦乱は京都の文化財ほぼすべてを焼き尽くし、諸国へも甚大な影響を及ぼした。

応仁の乱を背景に停滞した中でも、詫び寂、以外に選択肢が亡くなったのちにも新しい文化を造営するという気概と、諦めないが妥協する、こういう日本の平成中期から現代にいたる価値観の背景に、北山文化と東山文化の対比が成り立つのかな、とおもったり。

諦めないが妥協する、文化を継承していればまた花咲くときが来るゆえに我慢というものを強いることになったのも、これは日本の悪弊であるとも思うのですけれども、そのはじまりはやはり京都に見出せるのかなあ、そんなことを考えるのですね。
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