新企画『自衛隊装備名鑑』の第一回は国産航空機として初めて超音速飛行を実現し、日本航空史に大きな航跡を残しつつ退役が迫るT-2高等練習機を特集したい。
T-2練習機は、飛行訓練・航法・攻撃訓練の他、必要に応じて攻撃機にも転用可能な複座高等練習機である。
同機の開発は1967年9月5日より三菱重工を主契約企業として開始され、1971年4月28日、試作初号機がロールアウト、小牧基地において1971年7月20日に進空した。
同年11月19日にはアメリカにおける超音速飛行試験でマッハ1.09を記録し、日本航空史上初の超音速飛行を成し遂げた。こうして1973年8月29日航空自衛隊に採用され運用試験が開始された。
生産について、三菱重工が前胴・中胴・最終組立と飛行試験を担当し、富士重工業が主翼・後胴及び尾翼、日本飛行機がパイロンとランチャー部分、そして新明和工業が増槽の生産を担当している。
試作機は四機製造され、部隊使用承認を受けた。部隊配備は1975年7月から開始され、25号機から火器官制装置AWG-11と20㍉機関砲(弾数750発)を搭載した後期型へ移行している。この後期型は五箇所のハードポイントを有し、爆弾搭載量は2700kgである。機体の生産は1984年まで継続され96機が部隊配備されている。
機体の基本データを列挙すると、全長17.85㍍/全幅7.88㍍/全高4.45㍍/離陸最大重量11464kg/乗員2名/最高速度毎時1700km/航続距離2600kmである。
当時、超音速練習機としては軽戦闘機であるF-5の複座型であるT-38高等練習機、そしてMiG-21戦闘機の複座型、通称モンゴルのニ機種であった。しかし、コストの観点からT-38には火器官制装置は搭載されておらず、対する我がT-2は短期間の内に戦闘機へと機種転換できる点に加え、超音速飛行への完熟、空中戦闘技術の付与と向上が盛り込まれ、配備当時の主力であったF-4EJやF-104Jへの機種転換を容易とした。
超音速練習機の開発背景を少し述べたい。亜音速のT-1練習機に対して超音速戦闘機であるF-104からの転換では操縦特性の大きな差異があり、加えてF-104戦闘機導入の際もF-86戦闘機から超音速戦闘機への機種転換の難しさが表面化された。この教訓からF-104の後継機であるF-4EJの導入に際して、超音速練習機の導入が強く提言されたわけである。
T-2(開発名称T-X)を開発するに当たって出された要求性能は以下の通り。
■最高速度マッハ1.6で飛行する事が可能であること。
■エンジンは双発とする事。
■固定武装として20㍉機関砲を搭載する事。
■操縦性能に優れ学生教育に対応する能力を有する事。
■空対空戦闘及び支援戦闘を実施する能力を有する事。他
であった。設計には開発に参加した三菱重工・富士重工・川崎重工・日本飛行機・新明和工業から70名のスタッフが集い、最盛期には170名が設計に参加した。万一開発の遅延が起これば航空自衛隊の操縦訓練体系にも大きな支障や影響の危険性が内包されており、設計は慎重をきわめた。
設計において注視されたのは、如何にして空気抵抗を極限し、如何にして軽量化を向上させ、如何にして無駄を省くか、であった。
開発に際しては試作機四機の製造、加えて荷重試験機一機の製造に予算が付けられたが総額は84億円であり、1960年代と今日では貨幣価値は異なるもののやはり、超音速機を設計から開発まで行うには潤沢とは言いがたく、要求性能を達成しうるか、設計者の双肩に掛かったプレッシャーは並ならぬものであったという。
当初は日本国内では超音速航空機を開発した経験も技術的蓄積基盤もないこともあり、T-38練習機の導入も視野に入れられていたが、最終的に国内航空産業育成という視点から国産が決定されている。後年、T-2の派生型であるF-1支援戦闘機を導入する際にもノースロップ社のF-5軽戦闘機の導入が提示され国防会議においても大きな議論が交わされたが、もし、T-2練習機が開発されていなかったならば必然的にF-1支援戦闘機の開発もあり得ず、T-38・F-5戦闘機の体系が確立していた可能性は否めない。T-2開発によるノウハウが今日のF-2支援戦闘機の国産案・日米共同開発案を大きく後押しした事を考えるならば、F-2すらもF-16Cに代替されていた可能性は高く、当時の経団連や国会、自民党の判断は結果的に日本航空産業に図りしえない前進を促した事になろう。
T-2練習機の導入によって航空自衛隊の訓練課程は以下のようになった。
■『第一初級操縦過程/T-3』離着陸及び空中操作41時間30分→編隊飛行訓練12時間→航法訓練11時間→計器航法訓練5時間30分 合計70時間
■『第二初級操縦過程/T-1』離着陸及び空中操作38時間→編隊飛行訓練20時間→航法訓練9時間40分→計器飛行訓練17時間20分 合計85時間
■『基本操縦過程/T-33』離着陸及び空中操作29時間→編隊飛行訓練30時間→航法訓練15時間→計器飛行訓練26時間 合計100時間
■『戦闘操縦基礎過程/T-2』離着陸及び空中操作訓練26時間→編隊飛行訓練32時間→計器飛行訓練16時間→航法訓練6時間 合計80時間
■『戦闘操縦過程/T-2』要撃戦闘訓練17時間20分→対戦闘機戦闘訓練19時間50分→空対空射撃訓練12時間10分→空対地射撃訓練2時間30分→戦闘航法訓練4時間→計器飛行訓練3時間→検定1時間10分 合計60時間
こうして、空の荒鷲が巣立っていく訳だが、既にT-33練習機は全機用途廃止となりT-4練習機が運用されているが、T-2練習機が2005年度を以って全機用途廃止が見込まれ、今後は220機が配備されたT-4中等練習機とT-3/T-7初級練習機による簡素化された教育課程に移行した。
T-2練習機は、練習機として運用する際のその軽快な運動性能から1982年7月25日の松島基地航空祭においてブルーインパルスの使用機としてデビューを果たした。しかし考えれば、1980年代の前半まで朝鮮戦争時代のF-86がブルーインパルスに採用されていたのはある意味驚きであるが、1971年にF-4戦闘機を運用する米海軍のアクロバットチーム“ブルーエンジェルス”が来日した際にF-86からF-4への機種転換が構想されていた。しかし、1973年の第四次中東戦争を契機とするオイルショックにより燃費の悪いF-4によるブルーインパルスの計画は破綻してしまった。
既に1979年3月3日には実戦部隊最後のF-86運用部隊である第一飛行隊が解散しており、後継機は焦眉の課題であったが、1976年10月に松島基地第四航空団が最初のT-2飛行隊を編成すると早い時期からT-2への転用が研究されており、1978年12月、T-2練習機のアクロバット機への転用可能性研究最終報告書が航空幕僚長に提出されている。こうして1979年度予算に6機のT-2練習機予算が計上されている。
しかし転用間もない1982年11月14日、浜松基地航空祭において七回目の公式展示飛行の際に『下向き空中開花』の演技中に四番機が墜落事故を起こしている。この後二年間、ブルーインパルスの飛行展示は中止されたがこの間、改めてブルーインパルスの広報上のポテンシャルの大きさが再認識され、1984年7月25日に松島基地航空祭において再デビューを果たしている。しかし、1991年7月4日にも訓練中に空中衝突事故を起こし二機が墜落二名が殉職し1992年8月3日までの間飛行訓練を中止している。T-2練習機によるブルーインパルスは1995年12月8日の松島基地航空祭を最後の公式飛行展示とし、同年12月22日をもってT-2ブルーインパルスは解散した。
CCV機とはControll Configured Vehicleの略で、機体形状を操縦方式に合せるのではなく操縦方式にあわせ機体形状を変化させるものだ。いわば、“無理な姿勢”の飛行を安定的に行う事が出来、近接航空戦闘の決め手となる運動性能を大幅に向上させたものである。この利点は航空戦闘のみならず近接航空支援に際しても目標を攻撃する際に非誘導兵器を用いる場合、射線を取るために降下や上昇を行う必要性があった一方で、CCV機であれば軸線を下方に転換する事で効率的な航空支援を実施する事が出来る。この技術はFSX(現F-2)に応用されているが、一方で機体制御に関して機体形状ではなく可変翼を電子的に制御することで成り立っている為、コンピュータの信頼性が重要となる点を特筆したい。初公開は1983年8月9日に小牧基地において行われT-2CCV機の部隊使用認可は1987年8月19日に認可されている。
T-2練習機に対する運用者側からの意見は様々であるが、多くの航空自衛隊戦闘機搭乗員が超音速飛行を体験したのはT-2練習機によるものである。
一点を挙げれば、問題点として戦技訓練が挙げられる。T-2は火器管制装置を有していたが地上レーダーとのデータリンクシステムを有さず、迎撃も手動運用であった為、逆に地上の要撃管制官に大きな負担が掛かった。また、空中射撃訓練に際しても曳的機が曳く吹流しを機関砲で射撃するだけであり、第一線航空機が行う射撃訓練と比較してその実戦性には疑問符が付いたというが、言い換えれば学生にとり初めての機関砲射撃であり、容易である為良好な成果を残す事が出来、士気高揚につながったという。
また、問題点として更に挙げれば爆装したF-1支援戦闘機程ではないが、T-2もエンジン出力不足に悩まされたという。T-2練習機はロールスロイス社製TF-40アドゥーアエンジンを二基搭載しているが、一発あたりの出力は3.3㌧と双発でもF-4EJが搭載するJ-79単発(出力8㌧)にも満たないものであり、特に増槽をつけた際の機動力の低下は大きかったという。対して第四航空団が置かれる松島基地では訓練空域に近いこともあり、クリーンな状態で飛行する事が出来た為、持てる性能を充分に発揮し訓練を展開したという。また、軽攻撃機として運用された国際共同開発機のジュギュアもアドゥーアエンジンの双発であるが、600機以上が生産され、インドではライセンス生産が継続されており、機体の要求水準内であれば概ね良好な性能の発揮が期待できよう。
こうした点を踏まえて、補完の意味から追記するならば、航空ファン、エアワールド、航空情報、Jウイングと様々な航空雑誌にT-2に関する搭乗員の所見が述べられているが、“総じて良い飛行機であった”としめられている。これがなによりものT-2練習機に対する評価ではないだろうか、こう考えるのである。
T-2の用途廃止は1996年より本格化する。1996年度におけるT-2の保有数は69機、1997年における保有数は64機、1998年における保有数は59機、1999年における保有数は59機、2000年における保有数は46機、2001年における保有数は33機、2002年における保有数は23機、そして2003年の保有数は8機となり、航空学生教育におけるT-2練習機の運用は2003年度を以って終了した。第四航空団第21飛行隊は2004年3月29日を以ってT-2練習機からF-2B支援戦闘機に機種転換し、2005年度の時点で7機のT-2が運用されており岐阜基地の飛行開発実験団、そして築城基地第八航空団第六飛行隊において年度末、用途廃止となる。
国産初の超音速航空機としてT-2が日本航空史に対して刻んだ功績は大きく、また冷戦下の緊迫した国際情勢にあってT-2が育んだ戦闘機搭乗員は今も第一線において大空に航跡を刻んでいる。小生の所見を最後に述べるならば、T-2と共に歩み、そして導かれた基盤の元に更なる日本航空産業の発展と抑止力向上による平和を願ってやまない。
HARUNA